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工藤大和 --- / ---
2003年8月4日 / 0時00分03秒

遠いところでサイレンのような音が鳴っていた。ぐらぐら、ゆらゆら、度を越し酩酊したように視界は歪み、意識は揺蕩っていく。ゆっくりゆっくり、何かと混じり合うような、途方もない不快感と微温湯で微睡むような心地よさ。徐々に微温湯が冷めていく肌寒さとじりじりと内から身を焦がす熱が、言い知れぬ違和となり大和を襲っていた。
何かが変わってしまう。
己が己では無くなってしまう。
壊されていく予感、とでもいうのだろうか?経験したことの無い類の恐怖に、大和は形振り構わず叫んだ。引き摺り込まんとするものから逃れるように暴れ、喚き、そうしてどれくらい経ったのか、少女の声が微かに聞こえ、は、と目を開けた。



* * *


牧野慶 宮田医院 / 第一病棟診察室
2003年8月4日 / 4時28分41秒

牧野は意識が戻った時、後頭部に酷い鈍痛を感じていた。何かに思い切り殴られたように熱を持ち、ずきんずきんと血の巡りに合わせて痛んでいる。恐る恐る触れた患部はさらりとしていて、出血はしていないようであった。
それに一度安堵の溜息を吐いた牧野だが、目覚めた診察室内に誰一人いないことに気付いて顔を青褪めさせる。理沙もいなければ、大和も宮田も戻ってきていない。たった一人、取り残されてしまった。
ざあっと背筋を冷たいものが走っていく。たった一人、何も持たず、恐ろしいものたちが跋扈する中に取り残されてしまった!
牧野は勢いよく立ち上がったが、その足は震えている。転がっていた懐中電灯を拾い握りしめる手もまた、震えていた。
誰かを捜さないと。とにかく誰か、誰か。脳裏に浮かんだのは、無防備に柔く笑う大和の顔だった。

「そうだ、工藤さん……」

よろよろと足を進めドアノブを握った瞬間、思い出すのは八尾が昔から『変わっていない』と囁き悍ましく笑んだ大和の姿だ。彼を捜し、見つけたとして、共に行動するのか?
ノブを握っていた手から力が抜け、だらりと垂れる。どうすればいいのだろう、私は、どうしたいのだろう?ずぶずぶと沼に沈んでいくように思考が渦巻き、絡めとられていく。何をすべきなのだろうか、これから、ここで。
―――必ず儀式は成功するわ、ずっと見てたんだから
薄く開いた蓋の隙間から、何かがじっと見ている。黒々とした蠢くものが、蓋を小さく揺らしながらずっとこちらを見つめ、窺っている。出てこようとしている。

ごくん、と音を立てて生唾を飲み込んだ牧野は、恐怖にかられたままドアを開け、走りだした。いやだ、たすけて、と譫言のように口にしながら。



* * *


病院内を彷徨い、そうして見つけた中庭の穴。それはどうも隠し部屋のようなものらしく、上から覗いてみても地下へと続く梯子が見えるだけで何も分からない。ただ、そこから微かな悲鳴のような声が聞こえていた。
牧野は恐る恐る梯子を下り、暗い地下を懐中電灯でふらふらと照らしながらたった一つしかない鉄扉へ近寄っていく。その向こうから、凄まじい悲鳴が漏れ聞こえていた。恐怖に戦き、それからまさか理沙が中に、と勢いよく開けた扉の向こう、広がる光景はまさしく地獄そのものである。

「な、なにを……、これは……っ!」

扉を開けたすぐ先、回転椅子に腰かけた宮田がくるりと振り返った。その隣には捜していた人物でもある大和がどこかぼんやりとした目で立っている。入ってきた牧野を見るでもなく、悲鳴を上げているものを、ただぼんやりと見ていた。
牧野に対面した宮田の薄汚れた白衣には点々と血飛沫が模様を描き、その手もまた赤く汚れている。何をしていたのか。室内に置かれた実験台らしきものの上を見れば、瞭然としている。
血だらけで、身を開かれ、切断され、それでも逃げようとでも言うようにその身を蠢かせる異形。その顔は、牧野の捜していた理沙と、理沙に瓜二つの顔をしている。ああ、ああ、なんということか!この男はなんと恐ろしいことを。
これ以上ないほど顔を青褪めさせる牧野に、宮田は淡々と異形に行った実験を語り、その結果を告げて見せた。

「どんなに切り刻んでも自己再生しちまう」

脈打つ臓器を手に、宮田は薄く笑った。

「く、狂ってる、あ、あなたは、貴方はなんてことを……!」
「永遠の命の種明かしですよ、牧野さん」

手にしていたバインダーを小さなテーブルの上へ放り、手にしていた臓器を落とし踏みつける。何の躊躇いも無いその行動に、牧野は激しい吐き気を覚えた。何だってこの男はこんなことが出来るのだろう、そんな、平気な顔で。
バインダーに挟まれたカルテらしきものもところどころ血で汚れている。悍ましい。目の前の白衣の男は異形よりも悍ましいものとして、牧野の目には映って見えた。
それから救いでも求めるかのように宮田の隣でただ静かに立っている大和を見る。大和は、そこでようやく牧野を見た。どこか空虚で、精彩に欠けた焦点の定まらない目。いつだって爛々と輝ききらきらとして見えた彼のそんな目は初めて見るものだった。

工藤さん、行きましょう!」

きっとこんなところにいるから。きっと無理矢理付き合わされたのだ。きっと、きっと。
牧野は大和の腕を掴むと、そのまま扉の外へ共に行こうとするように引っ張った。宮田はそれを少しばかり愉快そうな目で見ているだけで、何も言わない。

「なあ、マキノ」

引かれるがまま一歩牧野の方へ足を踏み出した大和が、口を開いた。

「ここを出て、お前は何をするの?」

幼い子にでも問いかけるような、優しく柔らかな声だった。

「何……、私は、私は儀式を、まだ間に合うのならば、もう一度儀式を、執り行います」
「ひとりで?」
「ひとり、いえ、ひとりでは……」

俯きがちにゆるゆると頭を振り、大和の足元に支線を落としたまま続ける。

「八尾さん、そうです、八尾さんを捜して、それから」

もう一度儀式を、そうして成功させないと、と言いながら顔をあげ、牧野は声を止めた。
目が。
じっとこちらを見つめる目。そこに牧野は、あの祭壇裏の洞窟を見る。とても恐ろしくて、気味が悪くて、吐き気を催すほど忌まわしい、あの暗闇。それが緩やかな弓なりになり、どろりと蠢く。

「っひ、」

ぐっと近寄った男の顔。美しい弧を描いた唇が、いやに赤く見えた。何故だか男の体から、噎せる様な濃い血の匂いがする。そして妙に甘い臭いも漂っていた。

「マキノ、目、逸らしてんなよ。蓋はもう開いてるぞ」

囁かれたその言葉。すぐ傍に見知らぬ誰かの気配を感じて牧野は絶叫する。叫びながら目の前の男を突き飛ばし、半ば転がる様に実験室を飛び出し何度か足を縺れさせながら梯子の元まで走ってきた。
手汗で滑る梯子を何度も握りなおしながら上り、形振り構わぬ様で牧野は走っていく。どこに行こうなんて考えてもいない。ただ、逃れたい。その一心だ。

MOVEING A STORY第二十災 人のかたち 屍人のかたち


宮田司郎 宮田医院 / 第一病棟地下
2003年8月4日 / 5時03分02秒

ぼんやりと熱を持ったように意識が浮つき、どことなく希薄だ。今自分がどこで、何をしているのか、時々分からなくなる。ただ誰かの声に導かれるように動き、言われた通りのことをしている―――そんな気がしていた。
半ば乾いていた手にこびり付く赤黒い汚れは、僅かばかりの雨に打たれたためか湿り気を帯びている。それがなんとも不快で、白衣の裾でおざなりに拭っていればそっと髪に何かが触れた。
あたたかで意思を持ったそれは、ゆっくりと宮田の頭を撫でた。雨に濡れた髪を整えるように梳き、撫でおろす。子供を褒めるような、慈愛に満ちた優しげな手つきだ。

「お前はいい子だね、司郎」

頬に触れた手と目元を撫でる親指が心地よく、宮田は目を閉じ、だらりと手を下ろした。しばし頬や目尻に触れていた大和の手は、するりと宮田の肩を撫でて背中を叩き、まだ汚れの目立つ手を優しく引く。
手を引かれるまま戻ってきた診察室で、大和は宮田を診察用のパイプベッドへと座らせた。それからがたがたとあちこちを開けて、古ぼけたタオルを引っ張り出してくる。

「小さい子みたいだ」

ふふ、と笑いながら異形の姉妹の血で汚れた手を優しく拭いていく大和を、ただぼんやりと宮田は見上げていた。
この男は一体何なのだろう。この男に見つめられると、じんわりと胸が熱くなって満ち足りた気持ちになれる。だが逆に、頭の中に靄をかけ恐慌状態へ陥れてもくる。この男は危険だと、頭の隅ではずっと認識していた。けれど自身には彼しかいない。己を導き、全てを受け入れ、欲しいものを欲しいだけくれるのは、この男しかいないのだ。
たとえ男と向かう先が、惨憺たる地獄でも、底の見えぬ奈落でも、息も出来ぬ沼底であろうと、共についていくのだろう。
最早自分でも制御出来ぬほどこの男に魅かれてしまっているのだ。何もかも明け渡してしまった。

「おいで、司郎」

ごろりと硬いベッドへ身を横たえた男が、片腕を広げた。
靄が濃くなる。ふら、と引き寄せられるように宮田は大和の腕の中へと入り込んだ。ぱたん、と閉じられた腕の中は、奇妙なほど居心地が良くこの上なく宮田を安心させた。一定のリズムで背を撫でる手に、瞼が落ちてくる。
大和が何かを言っていたが、意識を手放しかけていた宮田の耳には届かなかった。


どれくらい眠っていたのか、誰かの声に引かれるように宮田は目を覚ました。ぼんやりとした目のまま起き上がった宮田に、大和もつられ目を開ける。眠たげに瞬きしながら「司郎?」と妙な様子を見せている背に声をかけた。
しかしその問いかけへの返答はなく、宮田はふらふらとベッドを降り、そのまま部屋の外へと向かおうとしている。

「おい、司郎?どこ行くんだ?」
「……分からない」
「分からない?」
「呼ばれてる気がするんだ、声というか、意識が、」

意識が引っ張られているような、と話す宮田本人もよく分からないという顔をしている。大和は愉快そうに片眉を上げ、それから「ならやってみようぜ、声の通りに」とどこで拾ってきたのか少々ひしゃげた鉄パイプを肩に担いだ。
そうして時々ふらふらと彷徨いながら、宮田のいう『導きの声』に従い辿り着いた場所、蛇ノ首谷で、大和はあの森の中で見た少年と再会する。
2018.11.06 | SIREN発売15周年おめでとうございます~!