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牧野慶 宮田医院 / 第一病棟一階廊下
2003年8月3日 / 23時07分52秒

宮田を追うように走り出そうとした大和の腕を掴み引き留めたのは、牧野であった。理沙でさえ(攻撃力の有無は別として)傘を握りしめているというのに、見事となまでの丸腰で、牧野は必死の形相でその腕を掴んでいる。
大和は一瞬、宮田を追いかけようとしていたことを忘れ、何故にこいつはこんな時でも死ぬ気満々の丸腰なのかと思った。求導師というものは、何も持たずとも神の御力でその身を守られているとでもいうのか?こんな死屍累々の地獄じみた場所で?
す、と今の今まで爛々と輝いていた鮮やかな瞳から、温度が抜ける瞬間を牧野は見た。その冷徹で熾烈な眼差しは、受ける者の身をざっくりと切り裂き息の根を止めようとするようである。

「お前の神は、お前を守ってでもくれるのか」
「……え」
「お前を救ってくれるのか」

睥睨するように見下ろされながら、牧野は一瞬何を言われたのか理解出来ずに固まった。ぱかりと口を開けて己を見る牧野に、大和は何を思ったのか。興味を失くしたように牧野から視線を逸らし、その横で怯えた顔で二人のやり取りを聞いているしかなかった理沙を見やり、ひとつ溜息を吐く。
少し迷うように宮田の向かった扉の向こうに視線を投げて、ぐしゃりと髪を掻き乱してもう一度溜息を吐くと、ぎゅうっとめいっぱい懐中電灯と傘を握りしめている理沙の肩を宥める様に叩いた。「戻ろうぜ」と先程までいた診察室へ向かうようにそっとその背を押し歩くその顔は、幾許かの優しさが窺えた。
牧野は彼の言葉をぐるぐると脳で繰り返しながら、ただ放心したようにそれを見つめている。



* * *


「とりあえず座んな。……怖かっただろ」

はらはらと涙を落とし、お姉ちゃんが、としゃくり上げながら言う理沙に大和は憐れむ様に目元を歪めた。
姉、あんな異形が姉だったものだなんて。肉親が人ならざるものとなり己の前に立つのは、どれ程の衝撃を与えるものなのだろう。考えたくもないことだ。
そ、と乱れてしまった髪を整えるように撫でる手に、理沙は目の前に立つ男を見上げた。ずっと雨が降り続き、月明かりもなく手元の懐中電灯しか照らすものが無い暗闇の中だというのに、目の前の男は何故か輝いているように思える。理沙と目が合ったと分かると、慈悲を与える神のように淡い笑みが男の口元に浮かんだ。
ああ、と、息をつく。
何故だろう。この人なら、自分を守ってくれる、この人が己を助けてくれるのだ。そう思えた。

工藤さん……」

夢見ているような、どこか焦点の定まらない恍惚とした目で理沙は祈るように男を呼んだ。笑んだ男の瞳の力強い煌き。大丈夫、と言われているようで、理沙はそこでやっとゆっくりと息を吐いた。



その様を、牧野はただ怯えたように息を潜めぶるぶると震えながら見ていた。今、理沙の心に『良くない何か』が作用した、そう思わせるような未知なる恐ろしさが目の前の男から漂っている。
時折見せていた、あの、何かに憑かれているような――トランス状態とでもいうかのような不気味な雰囲気。とても正気とは思えない総毛立つほど悍ましい眼差し。慈悲など欠片もない、悪辣極まりない暴戻たるものがそこに居る。
ふ、ふ、と短い細切れな呼吸をしながら少しでも距離を取ろうとするように、がたがたと震える足で後退る、牧野を、男の目が捉えた。男は片眉を上げ、愉快そうに目元を細め口元を吊り上げる。その酷薄な笑みはまさしく悪魔、悪夢そのものであった。

「あ、あなたは何なんですか……」
「何だろうなぁ、アンタには俺が何に見える?」

とん、と一度理沙の肩を叩いた男が、ゆらりと牧野に一歩近寄る。ぐ、と腰を折り、下から覗き込むように牧野を見るその目は透き通るように美しい。
一瞬、その瞳に見惚れたようにぼんやりとした顔をした牧野はしかし、その奥でぐるぐると渦巻くゾッとするような何かを見た。
誰だったろう、“あの人、なんだか怖い感じがする”、そう言ったのは。“全部滅茶苦茶にして、壊して駄目にしてしまいそう”、そう言ったのは。“あの人の体の中には、きっと恐ろしい地獄が潜んでいるんだわ”、そう、暗く怯えた目で言ったのは、誰だった?
記憶の奥で、赤いベールが翻る。慈愛に満ちた瞳、優し気な微笑み、あたたかく柔らかな手。

「――八尾さん……」

ぽつりとそう言った牧野に、男は嗤った。

「ヤオさん!お前のそれって何なんだろうなぁ、マキノ。随分とまあ盲信してんじゃねーの、なあ?」
「……」
「あの女、いつからお前の傍にいるんだっけ?」
「……昔から、ですけど……」
「昔ねぇ!それにしちゃあちょっと若すぎなんじゃあねえの?若く見えるなんてレベルじゃないだろ?なあ?」
「え……?」

目を丸め、牧野は己をじっと見つめにやにやと笑う男を見た。

「なあ、知ってた?あの女、昔っから、ちっとも変ってないんだぜ」

内緒話でも告げるように、ぐっと身を近づけ耳元でそう囁いた声のなんと甘いこと。恋人に愛を囁くようではないか。
目を見開き、硬直してしまった牧野から身を離した男は、心配そうに自分たちを見ていた理沙に微笑みを投げ掛け、少し休むように促した。それから少し外を見てくると言って出ていき、戻ってくることは無かった。

INTROJECTION第十九災 魂の導き


工藤大和 宮田医院 / 第一病棟地下
2003年8月3日 / 23時53分02秒

初めから知っていたように第二病棟二階にある薬庫から鍵を探し出し、大和は第一病棟にある地下へと続く扉を開けた。そうして迷うことなく霊安室までやってきた彼は、室内の奥に置かれていた簡素な作りの棺桶の蓋を壊し、こじ開ける。
中にあったのは鉄杭を突き刺された、黒いビニールと針金でぐるぐるに包まれた人の形状をしたものだ。大和は少しの間それをじっと見つめ、徐に杭を引き抜いた。ゆっくりと針金を取り除きビニールも剥ぎ取っていく。
そうして、現れたものに再度鉄杭を突き刺し、口を開いた。



* * *


宮田司郎 宮田医院 / 第一病棟診察室
2003年8月4日 / 0時49分33秒

飛び込んだ診察室内に、宮田の求めていた人物は存在しなかった。室内には床にぐったりと倒れ伏す牧野がいるだけで、理沙の姿すらない。

大和……?」

懐中電灯で辺りを照らし、ベッドや、いないと分かっていながらもその下を覗き込む。どこにもいない。一体どこに行ったのか。擦れ違いでどこかに行ってしまったのか。しかしそれならば、きっと牧野や理沙も付いて行くことだろう。なのに牧野はここで一人、まるで何かに襲われたように倒れ込んでいる。
宮田はしばし呆然としたように何もない空間を懐中電灯で照らしていた。それから横たわる牧野を照らし、その青褪めた顔を見る。一体何があったのだろう、この人を起こしたとして、はたして状況説明が出来るのだろうか?
起こすか、置いて大和を捜しに行くか逡巡していた宮田の背後で、がちゃんと戸の開く音がした。

「せぇんせえ……」

とろりと甘く、どこか舌足らずにも聞こえるその声。
ハッと振り返った先には、ナース服を纏った酷く顔色の悪い女。二つに分けて結われた髪、理沙だ。いや、理沙、なのだろうか?
ゆらゆらと揺れながら近づく様は、異形となり果てた双子の姉とそっくりであった。
2018.10.21