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工藤大和 大字粗戸 / 石川家
2003年8月3日 / 12時55分28秒

くそ、と大字粗戸にある民家の中で小さく蹲りながら大和は悪態を吐き、呻く。ほんの一時間前まではとても体調も良く元気であったのに、あの大きなサイレンに似た音が辺りに轟いてから、再び頭痛が始まってしまったのだ。
ふらふらと歩き、同じくふらふらと歩いている異形をぶちのめしながら、大和は古いながらもまだまだしっかりとした家屋へ入った。玄関からすぐの居間らしき場所で腰を下ろす頃には、頭痛は愈々酷くなり、大和は儘ならない己の体調に舌打ちを繰り返す。
何かが這いずるような不快感と痛みは、蛭ノ塚の民家で感じたものと同一であった。あまりの痛みに、ぐうっと意識が引かれるように遠のいていく。
視界が暗転する間際、ぱたん、と小さな戸の開閉音が聞こえたような気がした。



* * *


牧野慶 大字粗戸 / 六角家前
2003年8月3日 / 12時58分49秒

見捨ててしまった。まだ中学生の、自分の身など到底守れそうもない女の子を、置いて逃げてしまった。けれど、助けに戻る勇気などありはしない。死にたくなどないのだ。
自己嫌悪と自己肯定がぐるぐる交互に巡っては消える。牧野は真っ青な顔のまま、それでも何か――助けを求める声だとか、銃声だとか、あの恐ろしいモノの気配だとか――から逃げるように走り続けていた。少しでも足を止めると、何かが、誰かがその背を掴んできそうで。

「っぐ、は、っはあ、はっ、あれ……?」

ぜえぜえと荒い息を吐きながら、牧野はとうとうその足を止めた。再び戻って来た大字粗戸の様子が、妙なのである。牧野が八尾を探し求めここをふらふらとしていた時、何体もの異形達が辺りをうろついていた。呻き声やよく分からない言語を呟きながら、包丁を持ち彷徨っていたり、拳銃を手にして通りを行き来していたり、トンカチで壁を打ち付けたり。
しかし、今はどうだ。いやなほど静まり返っているではないか。何の音も聞こえないのである。何が起こっているのか?
牧野は石段の影に隠れながら目を閉じ、この、理解したくはない恐ろしい場所で目を覚ましてから何故か扱えるようになっていた神代家の幻視能力でもって周囲を探った。だがいくら探ろうとも、目の前は真っ暗で、己の瞼の裏しか見えない。

「誰かが……?」

そろりと通りまで出た牧野は、その通りの真ん中で異形が蹲っているのを目にした。ぎゅうっと身を守る様に丸まったそれが、あちこちに。
呆けたように口を開き、牧野はしばしばその場で何が起きているのか考えた。しかしいくら考えようとも、誰かがここに来たのかもしれないということ以外分からない。もしかしてもしかすると、その誰かは、まだここにいるかもしれない。そこまで辿り着き、牧野は急いであちこちの家屋内を見て回ることにした。
まず手始めに目の前の六角という表札のかかった民家へ。駆け足であちこちを覗き、その中、または傍で蹲り沈黙する異形達に怯えながら、牧野は粗戸中を見て回る。最後、石川と表札のかかった民家を前に、牧野はこの屋根の上で八尾のベールを見つけたことを思い出していた。
ゆっくりとノブを回し、成る丈音を立てないように牧野は屋内へと入っていく。足音を忍ばせ、和室を覗いたとき、牧野は驚きのあまり大声を上げそうになった。
誰かがいる!
咄嗟に手で口を押え、しばしその場に固まり、それからそろそろと近づいていく。

工藤さん……?」

白いワイシャツに黒のスラックス、焦げ茶の髪……おお、なんということか。和室の隅で丸まっていたのは八尾と同じくらい探し求めていた工藤大和その人である。
眠っているのか微動だにしない姿に、牧野は声をかけながらも幾許かの不安に襲われていた。もし、もし彼じゃなく、あの異形であったらどうしようか、服も髪の色も同じだけれど違ったら?
そ、とその肩に触れるとびくんとその体が跳ね上がり、あ、と気付いた時には目の前にシャベル。

「わああー!?」

散々丸腰で逃げ回っていただけある反射神経で咄嗟に飛び退いたのが良かったのか、すぐ前、足元の畳へ錆びたシャベルが叩きつけられた。もしあれが当たっていれば、きっと間違いなくお陀仏である。
足をがたがたと震わせながら、牧野はシャベルからそれを振り下ろした人物へ視線を向けた。ふー、ふー、と獣のように荒い息を吐きながら、ギラギラした目でこちらを見る、異国の瞳。

「あ、あ、あ、危ないじゃないですか!工藤さん!」
「、……?……あ?おー?マキノ?」

命を刈り取る気満々でこちらを見ていた目は、攻撃を仕掛けた相手が牧野であると分かるときょとんと丸められる。しかしすぐにその目は閉じられ眉間に皺が寄った。そのままずるずると再び大和は体を丸めてしまう。

「え、工藤さん……?どこか怪我でも?」
「……ちがう、あたま、いたいだけ」

畳にその身を横たえ、きゅっと小さくなった姿はまるで幼子のようだ。発せられた言葉もどこか舌足らずに聞こえ、そんな場合ではないというのに牧野の胸が甘く締め付けられる。庇護欲というか、ありはしない母性本能というか。兎にも角にも、自分がなんとかしてあげないと、と思ってしまう。
牧野はいそいそと大和へ近寄ると、優しく丸まった背を撫で、場違いなほど柔らかな声で「痛いのは頭だけですか?」と問いかけた。

「そう……」

緩慢な動作で頷きながらもぞりと動く大和の髪に触れる。水気を帯びた髪は柔らかく、村の子供たちを思わせ、牧野は薄く微笑みながらその頭をゆっくりと撫でた。随分と昔、風邪を引き頭痛に襲われ泣いていた自分の頭を八尾が優しく撫でてくれたのを思い出したのだ。柔らかく温かな手で撫でられると、不思議と痛みが遠のいていったように感じたのも覚えている。
彼の頭痛が少しでも良くなりますように、と願いながら撫でる牧野を、大和はぼんやりとした目で見ていた。

「マキノの手って、結構あったかいんだな」
「そうですか?」
「うん……なんか、もっと体温低そうなイメージがあって」
「ああ、でも冷え性ですよ」
「ぽいわぁ」

くすくすと小さく笑う大和の表情は柔らかく穏やかだ。どこか無防備なその様に、やたらとドキドキしてしまう。
今まで散々異形達に怯え、少女を見捨てた罪の意識に震え、『誰か』に掴まれることを恐れて逃げ惑っていたことなどすっかり忘れて、牧野は己の目の前で柔く笑う大和にうっとりとし、夢見心地だ。微睡むようにゆったりとした瞬きを繰り返す彼の醸し出す緩やかな空気は平和な昼下がりのようで、一歩外に出れば悍ましいもの達がうろついていることなど意識の外へ放り出されてしまっていた。
しかし、当然のことながら穏やかな時間などは一瞬の出来事である。

「そういえば、マキノ」
「なんですか?」
「お前、よく一人で生きてたな」
「え?」
「すぐに襲われて死んでるんじゃないかと思ってた。お前、自分の身すら守れなさそうだしなぁ」

ははっと笑い牧野を見上げたその目の、透明な輝き。見透かして、こちらの反応を測る鏡の眼差し。
ひゅうっと喉が鳴った。この人は、何を、どこまで知っているのだろうか?
求導師様、と助けを求めるように呼び、こちらへ差し伸べられた手。銃声、悲鳴。

「なあマキノ、お前さ、見た?」
「な、なにを、ですか」
「海」
「海……」
「サイレンみたいなのが鳴った時、一瞬何かが見えたんだ。あの化け物みたいなのがさ、ぞろぞろ海ん中入ってった。いつだか見せてもらった海送りの絵みたいだったぜ。還って来た奴らは、何の恩恵を貰ってくんのかね」

ごくりと生唾を飲み音がいやに響いて聞こえる。ここは、異様に静かなのだ。

「村の聖典にあったよな。『今も昔もひとつとなり、すべての水は神王の血により赤く染まらん』って。神王って、この村の贄を奉げてる神のことだろ」

ゆったりと瞬きを繰り返しながら、淡々と男は語る。水を得たものは神の力でもってその身を蘇らせる、とも。その内容に牧野も覚えはあった。村の聖典は、当然牧野も目を通しているからだ。

「マキノ、あいつらは、どんな風になって還ってくるんだろうな」

何の感情も、温度もないその沼底の瞳。
唐突に思い出されたのは、吐き気のするような絶望感と嫌悪感を覚えた夢の中で見た、目を背けたくなる程悍ましい頭部一面がフジツボのようなもので覆われた化け物の姿だ。
奥底に閉じ込めていたはずのものが、がたんと音を立てる。浮いた蓋の隙間から覗く蠢く何かが、音を立てながら蓋を動かしその身を出そうとしている。長い棺桶のような木箱のそれは、牧野には覚えがあった。何も知らないけれど、妙な覚えはあるのだ。どこかで見た。どこかにあった。その中には恐ろしいものがあって、けれどその中から、声が聞こえるのだ。声が。

来て、こちらへ来て、あの女は信じないで―――。

カーン、と金属を打ち付ける甲高い音がひとつ、外から聞こえてきた。

End of Human第十六祭 不死に至る水、そして

2018.07.29 | 圧倒的に異界入り完結が無理なので年内完結を目指していく所存です。