宮田司郎 蛇ノ首谷 / 車内
2003年8月3日 / 3時31分17秒
宮田が目を覚ましたのは、あのサイレンのような音と強い揺れを感じたと共に気を失ってから三時間以上経ってからだった。
気を失う前、宮田は丁度病院から帰宅する途中で、上粗戸の方は儀式の真っ只中であるために何かあっては困る、と少し遠回りながら蛇ノ首谷の橋架を通って帰ろうとしていた。そして橋が見えてきたと思った矢先、あの甲高い轟音が聞こえたのだ。
ハンドルにでも打ち付けたのか、ずきずきと痛む頭を押さえながら車内を見回す。小さな砂嵐のような音に外を見ると雨が降っていた。それから一瞬大和の姿を探し、ここにいるはずがないことをすぐに思い出した。彼は恐らく牧野の家か、もしかすると山奥の志村宅にいるだろうから。
揺れの最中に切れたのか、エンジンはかかっていない。あの揺れ、そしてあの音は何だったのかと思いながらエンジンを掛け直そうとキーを回す。だが何の反応もない。数度試してみるがぴくりともしない。苛立たしげに息を吐きながら、宮田は車を降りた。
当然ヘッドライトも消えているため辺りは真っ暗で、殆ど何も見えない。嫌な雰囲気だ。何か灯りが欲しい。何か……そういえば、この前懐中電灯を使ってトランクに放り込んだままにしていた気がする。
あることを祈りながらトランクを開けると、果たしてそこに懐中電灯は転がっていた。点くことを確かめた後、一応のことを考えて積んでいた工具箱からラチェットスパナも取り出す。万が一、何か身に危険が迫ってもこれである程度の反撃は出来るだろう。なんとなくだけれど、このあたりの空気が普通ではないような気がする。
濡れる衣服に不快さを感じながら、橋の方へ歩いて行った。このまま道を戻って病院へ行ってみるのもいいが、その前に大和と合流したいと思ったのだ。あの男にこの違和感を伝え、何が起こっているのか尋ねたい。彼ならば何か、知っている気がしたのだ。
その時、不意に頭に鋭い痛みが走った。ざざ、と砂嵐のようなものが過ぎり、何かが見える。歩いているのかユラユラと揺れる懐中電灯に照らされた山道、木々、ボロボロの靴を履いた誰かの足。獣じみた荒い息と、気味悪く歪んだ声で呟かれる意味の分からない言葉。そしてそれはまた唐突に砂嵐に変わり、切れた。
―――今のは一体何だ?まるで誰かの視界のようだ。
そう思ったところではたと思い出した。
幻視。神代家の人間が持つとされる、他人の視界を見ることが出来る力。話に聞いていたものと似ていないだろうか?いや、だがそんなことがあるわけない。自分にそんな力はないし、突然それが使えるなんて馬鹿げたことがあるわけがないのだ。……だが、だとしたら今のは?
宮田は僅かに逡巡し、それから目を閉じた。今感じたものを辿るように、意識を沈めていき集中する。出来るとは思っていない。ただ、何かが自分を導いているような感じがどこかでしていたのだ。
そうしてどれくらい過ぎただろう、不意に甲高い耳鳴りに似たものに一瞬襲われ、すぐに砂嵐が流れ出した。目を動かすイメージで、彷徨わせる……そうすればいいと、何故か分かっていたのだ。間もなく雑音と共に何かが繋がった。不安定に揺れる光に照らされたコンクリートが見える。荒い呼吸音。立ち止まり、懐中電灯を左右に振りまた歩く。光の先が光沢のあるものを捉えた。あれは、車だ。車のテールランプが鈍く光を反射したのが分かった。
その車は、宮田自身のものだ。
宮田はすぐに目を開けると素早く後ろを振り返った。明かりが見える。誰かがいる。懐中電灯を消し、宮田は目を凝らした。どこか不自然に歩き方をする影が徐々に近付いてくる。そしてそれが見え、息を飲んだ。
真っ青な死人の如き顔色をしたそれは、両の目から赤い液体―――あれは、血だろうか?―――を垂れ流していた。到底人とは思えないそれは映画に出てくるゾンビのようだ。
と、その異形と目が合ってしまった。叫び声をあげ、こちらへ走ってくる。宮田は瞬間的に込み上げた恐怖を飲み込み、少々頼りないラチェットスパナを握りしめた。相手は手に手斧を持っているようだ。やれるだろうか、これで?……否、やるしかないのだ。
宮田は近くまで来たゾンビ(仮)の頭をかち割る気で思いきりスパナを振り下ろす。しかし血らしきものが多少散っただけで脳漿が飛び散る結果にはならず、ゾンビは衝撃によろめいただけだった。やはり人間ではないのだ、こいつは。宮田は相手が地に伏すまで殴り続ける気でスパナを振り下ろした。
雨でうっかりすっぽ抜けそうになりつつも、数度叩きつけたところで相手は弱弱しい声を零しながら地面に崩れ落ちた。そしてやけに俊敏な動きで丸まり小さくなる。まるで何か恐ろしいものから身を守る子供のように。少し足で小突いてみたが何の反応もない。だが死んだわけでもないのだろう。また動き出す前にさっさとここから離れよう、と宮田は再び橋の方へ向かって走り出した。
だが、橋に差し掛かったところで前方から突如重たい銃声が聞こえてきた。咄嗟に踵を返し車の傍まで戻り身を隠す。
今のは?人間だろうか?いや、普通の人間であれば出会い頭(まだ出会っていないが)にいきなり銃弾を撃ち込んでくるわけがないだろう。となれば、あれもまた先程散々殴ったやつと同じものだろうか?だとすれば面倒だ。銃とスパナでは圧倒的にこちらが不利。だがここでじっとしていても埒は明かない。
宮田は懐中電灯で辺りを照らし、森へ入る道を探した。保安林の看板。あった。それほど遠くはない。宮田は懐中電灯を消すと、一気にその山道へ走って行った。
WORLD ATTACKER第十三災 異界、突入
工藤大和 大字波羅宿付近 / 山中
2003年8月3日 / 1時51分38秒
何かに呼ばれる様な声に、大和は目を開け、またもや大いに困惑する。見渡す限り木々しかない鬱蒼とした森林の中にいるのは分かるが、先程いた場所とは違うのだ。大きな木の根元に横たわっていた体を起こし、大和は周囲に視線を巡らせる。
何故自分はこんなところで眠っていた、もしくは倒れていたのか?
つい少し前も森の中で目が覚めるような感覚を味わい、記憶の断絶に混乱していたばかりだというのに、一体何が起きているというのだ。だがしかし、大和はどこかで自分が置かれている状況を冷静に理解していた。
儀式は失敗したのだ。
それを大和は知っていた。そしてその原因もまた、知らないけれど知っていた。体のどこかが記憶している、とばかりに、何も知らないのに分かるのだ。覚えはないのに知っている。その感覚は、大和がこの羽生蛇村で目覚めてから何度も何度もあったことだった。
宮田が村でどんな役割を担い今までどんなことをしてきたのか知らないのに知っていた。
牧野と宮田にだけ聞こえる声を知らないのに知っていた。
この村の行く末を知らないのに知っていた。
自分がこの村でどんな役割を担い何をすべきなのか知らないのに知っていた。
この村がこれからどうなるのか、知らないのに知っている。
ぼう、と中空を見つめる大和の目はとろりと夢心地で、意識はどこかを彷徨っていた。体の感覚が薄く、意識が体から離れようとしていく。瞬きの長さが伸びてぱたり、ぱたり、とその重さが増していき、ひたりと瞼が閉じられふらりと体が再び倒れ込もうとしたその瞬間、また誰かが彼の名を呼んだ。
その声が彼の意識を此岸へと引き留めた。
体の感覚が戻り、あたりの音が聞こえ始める。降りしきる雨の音に混じり、ゆっくり何かが動く音と気配を感じた。
己の身の近くに、何かがいる。
大和はゆっくりと倒れ掛かっていた体を起こし、周囲へ視線を走らせながら音に意識を集中させた。ざ、がさ、ずず、とどこか不安定なその音は近くを動いているようではあるがこちらへ向かってくる様子はない。しかし何か異様で異常な、とても厭な臭いを感じ大和は音も無く立ち上がるとその音の元へと歩き出した。
竹内多聞 大字波羅宿 / 中島家
2003年8月3日 / 2時23分22秒
「ここで少し待っていろ」
共について来てしまった教え子の安野へ家の物陰に身を隠しているように命じ、竹内は拳銃の弾数に余裕があることを確認してからその場を離れる。
異常な事態に巻き込まれてしまった。竹内は何度目か分からない深い溜息を吐く。人とは言えない気味の悪い何かの目に留まらぬよう、時折物陰に身を隠しながら、竹内は辺りを探索し始めた。
ここは恐らく、かつての大字波羅宿であろう。二十七年前の災害で土砂に埋まったはずの。遠い記憶とどこか重なる家々、そして竹内の持つ第六感ともいえる感覚がそうだと告げている。
目覚めてすぐ、激しい頭痛と共に得たある種の能力でもって、竹内は周囲の様子を探り出した。意識を沈ませ、自分以外の生物と視界を共有する……それは羽生蛇村では“幻視”と呼ばれているもので、神代の血を引くものにしかほぼ現れないとされている。当然竹内は神代の血など引いていないのだからそんな力はあるはずがないのに、この異常な状況下で突如としてそれは発生したのだ。そしてそれは、この村と全く関わりのなかった安野にまで出現している。
まだ混乱したままの頭では、上手く事態を整理できない。どこか落ち着ける場所を見つけて、あの地震の時何が起きたのか、ここは何処で、あの赤い海は何で、徘徊するあの人に似た化け物が何なのかよく考えたい、そう思いながら一つ一つ視界を覗いていると、随分と見覚えのある背を見つけた。
雨に濡れた馴染みのある背広。右手に拳銃を持ったその後ろ姿に、荒い息を吐きながら近づいてくる……あの後ろ姿は自分だ!
「しまった……!」
はっと目を開け背後を振り返り拳銃を構えようとするが思う以上に異形はすぐ傍にいた。があ、と奇妙な音を吐き出しながら振り下ろされた包丁を咄嗟に身を翻し躱す。無理な体制で避けた為に上手く体勢を立て直せない。
再び包丁を突き出そうとするそれに向かいなんとか銃弾を撃ち込もうとしたとき、目の前からそれが一瞬で消えてしまった。
「は、」
「ありゃ、人だぁ」
代わりにそこに立っていたのは竹内に本能的な恐怖を与えたあの青年であった。
2018.05.26