工藤大和 上粗戸 / 眞魚川
2003年8月2日 / 23時01分25秒
は、と目が覚めるような感覚に襲われ、大和は立ち止まる。森の中だった。一瞬自分がどこにいて、今がいつなのか分からなくなる。
ぐるりと素早い動きで周囲を見回し、ここが羽生蛇村で上粗戸のすぐ近くの森の中であると気付いた。水の流れる音が聞こえる。それに混じり、何か、独特な音楽と低く響く男女の声。
いくつもの情報を身に受けながら、大和は酷く混乱していた。何故自分がここにいるのか?何故記憶が途切れているのか?
彼本人が覚えているのは、憔悴しきり死人の如き顔色の牧野と共に夕食を取り、ふらふらと後に控える秘祭のために教会へ赴く牧野の哀れな背を見送り、宮田の元へ行こうとしたところまでだった。刈割の長い階段を軽快な足取りで下っている。そこまでだ。そこでふっと記憶は途切れている。
そうして気が付けば、森の中―――一体自分に何が起きている?
今の今まで大して気にもせず、まるで導かれるように忙しなく今日までこの村で過ごしてきたけれど、何故自分はここにいるのか。目覚めれば見知らぬ村の見知らぬ教会で、覚えているものよりも二年も前の日付で。二〇〇三年と言えば、大和の記憶の中ではイギリスの廃病院で記録を探す仕事を熟していたはずなのである。なのに今自分はここで、この村の何かを壊そうとしている。壊せと何かに導かれている。
異常だ。なのに何故、それに対して何の疑問も抱かず、『どうしてこの村にいるのか分かった気がする』などと思っていたのか。
ぐうっと頭の中を絞られる様な激しい痛みに襲われ、大和はその場に膝をついた。あまりの痛みに思考は拡散され、意識すら朧気になっていく。何故、何故、何故……。
この村に何があるというのだ。この村で何をさせられようとしているのだ。俺に、こんなことをさせるのは一体何なのだ!
何一つ分からない事態に途方もない苛立ちがわき、ぐう、と喉の奥で唸り声を潰す。
と、不意にがさがさと背後で音がした。大和は手負いの獣同然のぎらぎらと光る眼でざっと周囲を見渡しながら、なるべく気配を殺し音の正体が現れるのを待った。ふー、ふー、と細く、けれど険しい息が漏れる。頭の痛みが引く気配はない。
「何だ、こいつら……こんな夜中に」
茂みの奥からやってきたのは少年とも呼べる幼さを残した男だった。大和に気付くことなく、木々の隙間から眼下に広がる光景を見、顔を顰めている。
どこかで見たことがある顔だった。どこで見た、と思った瞬間、すうっと痛みは遠のき、どこか意識もふわふわと現実味を無くしていく。聞こえてくるどこか祝詞のような御詠歌のような奇妙な音の連なりが、ぐるぐると巡り意識の境界を曖昧にしていった。
「誰だ!」
そのまま沈み行こうとする意識を引き戻したのは鋭い男の声だった。ばたばたと足音を立てながら少年が逃げ去っていく。咄嗟に追おうと立ち上がった大和の視界にゆらゆらと気味悪く揺れながら歩く、見覚えのある警官の姿が映った。
石田だ。
どう見ても様子がおかしい。左手に懐中電灯を持ち、右手に何か黒光りするものを握っている。く、と目をこらした大和はそれが拳銃であると気が付いた。
「あの、馬鹿……!」
走りだそうとした瞬間、くらりと視界が揺らぐ。背後から引かれるように意識が乖離しようとするのを堪える大和の耳に、甲高い破裂音が聞こえてきた。
She said, "Don't worry, the ritual don't fail"第十二災 儀式の結末は
竹内多聞 上粗戸 / 眞魚川
2003年8月2日 / 23時00分08秒
秘祭が行われる時間まで少し眠ろうと目を閉じても、つい先程のことを思い出してしまい竹内は溜息を吐きながらシートに横たえていた体を起こした。共に付いてきた生徒の安野は気持ちよさそうに助手席で眠っている。随分と無防備なその姿に竹内はもう一度溜息を吐き、車から降りた。
あの青年、一体何者なのだろう。どろりとして、底の見えない瞳。何かが蠢いていた。普通の人間が、あんな目をするだろうか?
いや、今はあの青年のことよりも秘祭である。竹内は緩く頭を振り、ジャケット越しに硬い感触を確かめて秘祭が行われる眞魚岩のある眞魚川中洲の方へと歩き出した。
ちらちらと見える明りを頼りに辿り着いた眞魚川のすぐ脇、木々の間からほどなくして始まった秘祭をじっと見つめていた竹内は、ちか、と視界の端に光るものを見た。何だ、とその正体を探るが、森の中は暗く、よく見えない。ちら、ちら、と揺れ時折見えるその明りは丸く、懐中電灯のようにも思える。
こんな場所に自分以外の誰かがいるのか、もしかすると儀式関係者が余所者が入り込まないか見回りをしているのかもしれない。ならば見つかるのは非常に不味い……。
竹内が身を隠そうかと一歩、足を引いた途端、誰だとこちら側に向かって叫ぶ男の声。しまった、見つかったか、と身を低くした竹内の耳に、短い破裂音に似た音が聞こえてくる。一般的な人であれば、花火の音かとも思うその音だが、竹内にはそれが拳銃の発砲音だとすぐに気が付いた。何故なら、竹内もまた、ジャケットの内側にそれをひとつ、隠し持っているからだ。
発砲音は遠い。こちらに向かっているものではないようで、自分と同じく儀式を盗み見ていた者がいたのかもしれない、と竹内は音の方へと向かう。成る丈音を立てないように、けれども出来うる限り速く。
ほどなくして懐中電灯と思しき明かりが見えた。どうやら護岸工事現場の方へ向かっているようだ。少し近くまで行った竹内は明かりの持ち主が警官であるらしいことをその恰好から見て取り、一瞬足を止めた。警官はどちら側だったか。
一瞬思考を巡らせた竹内だが、どうもその警官の様子がおかしいことに気付いた。よたよたと酔っ払いのように不安定な足取りで、気味の悪い笑い声を零している。ゆらゆら揺れ、時折立ち止まり発砲するその姿は、ただの酔っ払いとは思えない異様さを含んでいたのだ。
「なんだ……?」
「センセ、ありゃあもうダメだぜ」
「ッ……!」
すぐ真後ろで聞こえた声に、竹内は勢いよくその場から身を引く。ジャケットの内側の拳銃を手に握り振り返り見れば、そこにはあの時の青年が立っていた。
「アイツ、俺の話なんざまるっと忘れて酒飲みやがったからなぁ」
「どういうことだ」
「なあ先生、今何時だ?」
「何時……?それが何か関係あるのか」
「あるよ、あるに決まってる。もうすぐだろ?あーあ、やんなっちまうぜ、これ、何回目なんだろうな?」
遠ざかる警官の後ろ姿を眺めながら、青年は心底うんざりしたように溜息を吐く。
「俺も巻き込まれてんのかね、いや違うか?巻き戻してんのは別?」
「何の話だ、君は何か知っているのか」
「知ってるさ。ぜーんぶ知ってるんだろうけど、俺は多分覚えてないんだ。時々思い出す、いや思い出すっていうか、浮かぶ感じに近いなぁ、夢みたいにさ」
暗闇の中でも冴え冴えと光って見える奇妙な瞳が、ぐうるりとあたりを見回す。
「なんとなく、この先に何があるのか知っている。今までに何があったのか朧気だが覚えてる。すぐに分かるよ、竹内多聞、アンタもな」
不意に、ぐら、と足元が揺れた。
「でもな先生、今回の俺は、一味違うんだぜ」
地鳴りと共に大きく地面が揺れていた。あまりの揺れに立っていられず膝をついた竹内の前で、何事も無さそうに青年は立っている。に、と悪戯を仕掛けた子供のように無邪気な笑顔を見せながら。
「今回の俺は、神様だから」
青年の言葉に重なる様にサイレンのような音が響き渡る。耳を劈くようなあまりの大きさのそれは、脳内を揺さぶり痛みさえ与えてくる程だ。
意識が落ちる間際、竹内は青年の背後に悍ましい影を見た。
2018.05.13