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牧野慶 不入谷 / 牧野家
2003年8月2日 / 4時08分16秒

儀式の日が近づくにつれ、牧野は見るからに憔悴していっていた。夜もあまり寝付けず日に日に目の下の隈は濃くなっていき、食事もあまり取れていない。眠れば悪夢、起きれば儀式の不安に苛まれる。
そうしてとうとう迎えてしまった儀式の日、カーテンの隙間から入る微かな朝日で薄く照らされた居間で、牧野は畳の上に座り込んでいた。昨夜もなかなか寝付けず、やっと眠れたと思えば悪夢を見て飛び起きたのだ。それから眠ることも出来ず、部屋でじっとしていることも出来ず、居間で膝を抱えながら卓袱台の上に置いたコップの中の水を見つめている。
まだ、耳に女の声がこびりついていた。
少しずつ鮮明になっていっていたあの声が話す言葉が、とうとう牧野に届いたのだ。あの女を信じてはダメ、あの女を信じないで。声は繰り返しそう言っていた。言う通りにしてはいけない、信じてはいけない―――。
僅かに浮いた蓋の隙間から、何か恐ろしい、黒々とした蠢くものがこちらを見ている。じっとこちらを見つめて、襲い掛かる瞬間を窺っているのだ。少しずつ少しずつ、重たい蓋をゴトリ、ゴトリ、とずらしそれはその身を出さんとしていた。
きつく膝を抱える腕が震えている。腕だけではなく、その体も震えていた。何かが自分に襲い掛かろうとしている……。
牧野はじっと水面を見つめている。揺れもしない水面を、まるで恐れるように。そこから何かが出てくるとでも言いたげに。

「……マキノ?」

唐突に聞こえた声に、牧野は勢いよく身を引き、畳の上を這うようにして部屋の奥へと逃げる。そうして己に声をかけたものが誰なのか、顔をあげ探した。窶れた顔の中、目だけが異様に光っている。

「あ、あ……工藤、さん……」
「お前……」

少しばかり驚いたように目を丸め、牧野に声をかけた人物、大和は居間へと入って来た。幾許かの心配を目に滲ませながら、部屋の隅で縮こまるようにこちらを見る牧野へと近寄る。
そうしてすぐ傍に腰を下ろすと、そっと牧野の丸まった背を撫でた。

「随分弱ってんな。眠れてねーのは知ってたけどさぁ……」
「……工藤さん」
「なに?」
「前に、夢の話をしたの、覚えてますか」
「ああ」
「教えてと、言ったのは」
「覚えてるよ」

ごくん、と牧野の喉が音を鳴らす。からからに乾いた唇を戦慄かせながら、牧野は「聞こえたんです」と今にも消え入りそうな声で言った。己の身を守る様に、ぎゅうっと強く膝を抱え丸くなりながら「声が、聞こえたんです」ともう一度。
その言葉に、す、と大和の目が色を変える。その目が鋭く自分を見つめているのを、膝の間に顔を埋めた牧野は知らない。

「うん」
「あの……、あの、女を、信じてはいけないと、」
「そう言ってたのか?」

とん、とん、と規則正しく丸まり震えだす背を叩きながら、大和は成る丈優しい声で問いかけた。牧野は小さく何度も頷き、勢いよく顔を上げた。涙に濡れた目は怯えきっている。

「蓋が、何かが見てるんです、わたしのことをずっとずっとずっと!何かがずっと、それで怖くて、きっと出てくるんです、見てないと」
「……」
「こ、怖くて!怖くてどうしようもないんです!う、うぅ、う、た、たすけてください……工藤さん……たすけて、」

ずるずると畳に伏せながらも牧野の手は強く大和の腕を掴んでいる。啜り泣き体を震わせ縋りついてくる牧野を、大和はただ静かに見つめていた。その背を撫でることも、何か言葉をかけることもせず、譫言のように助けてと繰り返す牧野をただ、ただ。

The Day the World Stood Still第十一災 静止した時の中で


宮田司郎 宮田医院 / 院長室
2003年8月2日 / 18時29分58秒

「なあ、司郎。俺はこれから何が起こるのか知っている気がするんだ」

沈む日に赤く照らされた横顔の静けさに、宮田は棚の前で資料を繰っていた手を止めた。何の感情も浮かんでいない目は窓の外を向いており、何を見ているのか分からない。

「この村は今夜、なくなるんだろうなぁ……。だから司郎、きっと今のうちだぜ。まあ逃げても、もしかすると意味なんざ無いかもしれないけれどな」

ははと薄く笑うその口元の、底冷えしそうな酷薄さ。こちらを向いた目の奥に渦巻くものがゆっくりと頭を擡げるようであった。
蠢くそれに絡めとられたように、宮田は目を逸らすことも瞬きすることも出来ない。いつかの夜、宮田を恐慌状態へと陥れたものが再び口を開けようとしている。

「司郎、おいで」

体の内の、深い場所に響くようなその音に引き寄せられるまま、宮田はデスクチェアに座る大和の前へ膝をついた。頭の中は靄がかかり、何も考えられない。混濁していく。顔に触れる妙に冷たい指と、「俺はお前をなくすのは惜しいと思っているよ」と甘く囁く声。それだけが今、宮田の世界の全てであった。

「司郎、俺と一緒に、この村を終わらせよう」

大きく口を開けたそれが、宮田を飲み込まんとする。じっと覗き込んでくる、光の届かぬ底の知れない沼の瞳。そこの映る自分を宮田は呆けたように見つめていた。



* * *


竹内多聞 上粗戸 / 食堂前
2003年8月2日 / 19時55分32秒

どこの店もすっかり締め切られ、宿も借りられない今の状態はある程度予想の内でもあった。余所者は今すぐ出ていけと言わんばかりの村人の対応に、竹内はやれやれと息を吐きながら車へ戻ろうと踵を返しかけ、おや、と動きを止めた。
この村の者とは思えないような、異国の風貌の男がじっと自分を見つめているのだ。半袖のワイシャツに、黒いスラックス、革靴という勤め人のような恰好をしているが、雰囲気が異様であった。

「アンタ、この村の生まれか」

すうっと弓なりになったその目。瞬間、竹内の背に悪寒が走り抜けた。何か得体の知れないものを感じる。それは自分が幼少の頃より時折目にするこの世ならざるものと似ていた。
この男とあまり関わってはいけない。
竹内が反射的に一歩身を引いたことに、男は愉快そうに片眉を上げながら肩を竦めた。

「そう警戒するな、何もしねーよ。……またな、竹内先生」

一瞬、竹内の背後に視線を投げた後、男はそう言って背を向け歩き去っていく。その背を見送りながら、竹内は微かに震える手を握りしめた。
竹内先生、と男は言った。己の名字など、一度も名乗ってなどいないというのに。
2018.05.06