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宮田司郎 宮田医院 / 院長室
2003年7月26日 / 23時08分04秒

獣染みた叫び声が聞こえる。気付けば真っ黒い洞穴のような銃口を目の前に突き付けられていた。その向こうで誰かが泣きながら笑っている―――
誰かが自分を呼ぶ声が聞こえる。真っ青な顔をしている。哀れに思えるほど苦しげな声に銃口を―――
唸るようなサイレンの音が聞こえる。隣にあったはずの温度が消えている。一体何処に―――
女の声が聞こえる。殺さなければならない。それが己の仕事だから。椅子に座ったその人はただこちらを見ていた。ただじっと、柔らかな、何もかもを赦すような目で。しかしその奥で獣のような鋭い光がぎらぎらと暗く輝いているのが分かった。緩やかな弧を描く唇。青緑だった。美しい、青緑の目が強く煌めいている。直視できないほど眩く。「またな、司郎」
飛び起きた。夢だ。またあの夢だ。どうやらいつの間に眠り込んでしまっていたようで、時計をちらりと見てから宮田はデスクに肘をつき顔を覆い深く息を吐いた。まだ震えは治まらない。
宮田はここのところ、頻繁に似た夢を見ていた。それは宮田にとって酷く恐ろしい夢で、起きるといつも体は震え全身に冷や汗が浮かんでいる。

「ちわ~、宮田先生居ますかぁ」

がらりと音を立てながら少しだけ開いていた窓が全開になり、男が入り込んでくる。いつも正面玄関から入るように言っているのに「遠い」の一言で嫌がり、あの日からずっと男は窓から訪問してきていた。
男、大和は酷い顔色をした宮田を目にし、驚いたように目を丸める。

「あらぁ、司郎クンったら顔真っ青。なんか怖い夢でも見たか?」

よしよし、とまるで小さな子供でも宥める様に、大和は宮田の頭を撫でながら抱き締める。触れる手のひらや体から確かな温度を感じ、これは夢ではなく現実であるとようやっと心を落ち着けた宮田は細く息を吐いた。この二週間ばかりですっかり嗅ぎ慣れてしまった彼の纏う匂いに全身から力が抜け、宮田は大和へ凭れるように身を委ねる。
人慣れぬ動物のような、ゆっくりと警戒が解かれる様は何度見ても心の内をくすぐられるもので。大和は自身の腰辺りにそろそろと回された腕に満足げな笑みを零しながら、白衣の背を優しく叩いた。そしてそのまま流れるように、よいしょ、なんて言いながらこれが当たり前だという顔で宮田の膝上へ乗りあげ跨る。

「おい」
「うわ、隈出来てんじゃん」
「重いぞ」
「あんだよ、いっつも乗せたがるくせに」
「いつもって……またお前は何時の“いつも”の話をしてるんだ」
「さあ。でもお前の膝は座りやすい」
「俺は重いんだが」
「我慢しろよ。愛の重さだぜ、ダーリン」
「ふん、お前のダーリンとやらになった覚えはない」
「はあ~?あんだけあつぅい夜を過ごしといて?」
「そんな夜を過ごした覚えもないぞ」

軽口を叩き合いながらも大和は宮田の髪を優しく指先で梳き続ける。その腰元に腕を回す宮田は、少しばかり眠たげにゆっくりとした瞬きを繰り返していた。

「ん?おねむの時間ですか、司郎クン」
「いや……」
「そろそろ家帰って寝よ、先生」
「また泊まる気か?」
「またってまだ一回しか泊まってないだろ?それに司郎が悪い夢見ないように一緒に寝たげるんだよ、感謝しな」
「頼んでない」
「嬉しいくせに」

膝から下りた大和に手を引かれ立ち上がる宮田の口元には、随分穏やかな笑みが浮かんでいる。少し前まで見ていた悪夢の気配は、もうすっかり跡形もなく消え去っていた。

Both of Us, Threatened By A Nightmare.第九災 瞬間、夢、重なり


牧野慶 不入谷 / 牧野家
2003年7月26日 / 23時08分04秒

血に塗れた大和の姿を“見て”から、牧野の見る悪夢はより一層鮮やかになっていった。
降りしきる雨の中、半ば朽ちた家屋で大和と話をしている。腹が減ったとぐずぐずと駄々をこねるように言う彼を宥め、そういえばお前の作ったあれが美味しかった、あの味も好き、なんていう話を聞いてやり、疲れたように眠る彼の頬を撫でるのだ。その時の牧野の胸の内は幸福に満ちている。この時間がずっと続けば良いと心の底から思っていた。けれど次の瞬間には、もうその隣に彼はいないのだ。煙りのように姿を消し、後に残るのは吐き気のするような絶望感と、腹の内を焦がす嫌悪感だけ。そうして顔を上げれば、目の前にはフジツボのようなもので頭部一面を覆った悍ましい化け物が立っている。
あの洞穴で聞く声も、徐々に鮮明になっていくのだ。真っ暗なはずなのに、自分が赤黒い水の中に立っていると分かる。ぬらぬらと光る水面から、幾多もの手が己の足に縋りついているのだ。白骨となっているもの、腐り落ちかけているもの、傷ひとつない白いもの……幾つもの手が己へと伸ばされ、絡み、何処にもいけない。低い唸り声染みたの音の向こうから、何かの鳴き声のようにも聞こえるサイレンのような音が耳に響いてくる。そうすると、ざわざわと空気が騒めきだすのだ。そうして女の声が、何十もの声が重なり襲い掛かってくる。ダメ―――、―――はいけない、あの女を――てはダメ、あの病棟へ―――、―――を消し去って、―――してはダメ、あの女は―――、あの女―――、あの―――……。
そうして今日も、牧野は魘され飛び起きた。わんわんと耳の内で女の声がまだ反響している。少しずつ、その言葉が聞き取れることが牧野には何よりも恐ろしく思われた。何を言っているのか理解してしまったら、もう全てが終わってしまうような気がしていたのだ。蓋は壊れ、押し込められ埋められていたものたちは一斉に飛び出すだろう。その時、自分はどうなってしまうのか?
静まり返った夜の中、自分の荒い息だけが聞こえる。そのまま眠る気もせず起き上がった牧野は自室を出て、物音ひとつしない隣室の前へ立った。
大和は今日、ここにいない。多分今日は帰らない、と朝、牧野と共に家を出る時に言っていたのだ。遅くなっても帰ってきていた彼が、とうとう帰って来なくなった。つい二日前もどこぞへと外泊し、そして今日も。
今彼がどこで眠っているのか、牧野には想像がついていた。宮田の家だ。そこ以外、きっとない。あの二人の間にある、言い知れぬ親密さ、割って入れぬ空気を牧野は敏感に感じ取っていた。二人が並んでいるところは一度しか見たことがない。けれどその一度で十分だった。
牧野はただ立ち尽くす。どこか焦点の合わない目で、閉じられたその扉を見つめたまま。
2018.05.04