工藤大和 不入谷 / 牧野家
2003年7月21日 / 7時13分47秒
なんとなくではあるが自分が何故ここにいるのか、大和は分かってきていた。
時々、声が聞こえるのだ。まるで導くような、ここに行けだとか、あちらは駄目だとか。幻聴にしては随分とはっきりとしているし、聞き覚えのあるようなその声には妙な力があった。従わねば、という気にさせるものがあったのだ。
今朝も、大和はふと誰かの声を聞いた気がした。神代の家だ、という声である。神代の家には幽閉されていた少女に会った夜以降出向いていない。それよりも優先すべき事項が山ほどあったし、なんとなく足が向かなかったのだ。気分ではなかった、というべきか。
この村のことを知ろうと思えば真っ先に行くべき場所なのであろうが、あの座敷牢を思えば気が滅入り足が遠のく。あの家に漂う空気は毒のようで、長く居れば何か良くないものを身の内に引き込んでしまいそうなのだ。それは呑まれるというか、足の先からずぶずぶと沼底へと成す術もなく沈んでいく感覚に似ている。
朝から嫌なものを思い出し、うんざりと溜め息を吐きながらも大和は神代家へ赴くために身支度を整え、何か言いたげな牧野を捨て置き家を出た。
三度目の神代家も、変わらず暗澹とし気味の悪い空気に満ちている。心なし黒く霞んで見えるのは気の持ちようなのだろうか。
大和は一度盛大な溜め息を吐くと、神代家の正門を潜った。
STORM STRIKES?第八災 探偵、来訪
牧野慶 刈割 / 不入谷教会
2003年7月21日 / 13時25分01秒
昼のお祈りを終えた頃、ふらりと大和が姿を現した。彼が教会へやって来るのは、これが二度目だ。いや、正確に言えば、彼自身の意思でここに来たのは一度目ともいえる。教会の長椅子の上で倒れ伏しているのを見つけてから、大和が教会内にいるというのはこれが初めてのことだから。
驚いたように目を丸める牧野をちらりと一瞥した後、ぐうるりと教会内を見回した。
「今日はヤオさんとやらはいねーの?」
「え、八尾さん、ですか?」
彼女は少し前から村の方へ下りていてここにはいない。
牧野はきょとんと目を丸めてからそのことを伝えると、大和は少しばかり残念そうに眉を下げ、祭壇前にいた牧野の傍まで来るとどっかりと長椅子に腰掛けた。その隣へそろそろと腰を下ろしながら、牧野は首を傾げる。
「八尾さんに何か用事があったんですか?」
「いや、用って程のことでも無いんだけど、一回もちゃんと会ったことないから」
「ええ?」
大和がこの村にやって来てから二週間以上経つ。なかなか家から出てこないような村人ともいつの間にか顔見知りになり親しくなっている彼が、いまだにこの村の求導女と会ったことが無いという。
八尾は確かに教会に居ることの方が多いが、今日のように村の方へ赴き村民たちと交流を深めることもしばしばあった。きっと偶々タイミングが合わなかっただけで、その内ばったり村内で出くわしたりするだろうと牧野は軽く考えていたが、大和は違うようである。
「多分、避けられてるな」
「……八尾さんにですか?」
「それ以外誰がいる?」
「誰って……でもどうして」
「そりゃあ駄目にされたくないからだろ?」
「だめ……?」
「……お前ってさあ、ほんと鈍いっていうか察しが悪いっていうか、危機察知能力とか死んでそうだよな。ほっといたらすぐ死にそう」
「なんですかそれ!」
なはは、と笑う大和につられ、牧野もつい笑ってしまう。
こうして和やかに笑い合うような会話は、随分と久しぶりなような気がしていた。最近は大した会話もなく、食事も共にすることが少なくなってしまっていたし、大和自体が少しぴりぴりしていたこともあり気安く話しかけることも出来なかったのだ。声をかけて、あの、罪人を裁くような熾烈な眼差しで貫かれたら?透明で鏡のような瞳で見透かされたら?悪夢のような不気味に蠢く沼底に見つめられたら?
固く閉じられた蓋を、もし、開けられてしまったら?
ただただ目の前の嵐が過ぎ去り再び晴れ間が戻るまで、牧野は只管に身を縮め息を潜めるしかないのだ。そういう生き方が身に付いてしまっているのだ。
牧野はにこにこと大和に笑いかけ、今まで出来なかったささやかな他愛もない話をせっせと聞かせる。大和は柔く目を細めそれに頷いたり、笑ったり、反対に自分が今まで見聞きした村のあれこれを語って聞かせてくれた。
と、不意にけらけら笑っていた大和が口を閉ざし、視線を彷徨わせる。
「どうされました?」
「いや……声が、」
「え?」
ひた、とその目が祭壇の方へ向けられた。この教会は岩肌に面しており、半ば食い込ませるように建てられているためか祭壇裏は岩盤のままだ。その岩盤を、じっと大和は見つめている。
ふらりと何かに呼ばれるように大和は立ち上がり祭壇へ近づいて行った。牧野も立ち上がったが、どうすべきなのかわからずその場でおろおろと意味もなく手を動かすだけである。
大和は祭壇裏を覗くようにして、一瞬動きを止めた。それから、す、とそこへ近寄る。牧野のいる位置からはそこに何があるのかよく見えていた。
そこには、鉄格子の嵌められた暗く奥の見えない岩穴があったのだ。よく見てみれば鍵穴もあり、それが開くのだということも分かるだろう。
すうっと牧野の顔が青褪めていく。牧野自身それが何で、その奥に何があるのか、はたまたどこかへ繋がっているのか、何のためにあるのか、何も知らされていない。ただそこの鍵をかつて父が肌身離さず持っていたということだけしか知らない。さらに言えば、そこの鍵がその後どうなったのかさえ牧野は知らないのだ。
ただ、そこから時折呻き声のような音が聞こえることが牧野にはとても恐ろしく思えた。淀み濁り切った悍ましい空気がそこから漂ってくる気すらして、教会に居る時は成る丈そこに近寄らないし、視界にも入れないようにしているほどだ。
「工藤さん」
男の名を呼ぶ声はおかしな程震えている。平時の大和であれば、それを聞いてひどく笑ったであろう。けれど彼は返事すらしなかった。
恐る恐る近寄り見れば、大和はただ黙って、じっと、その穴の奥を見つめている。その顔はどこまでも無感情で、一体何を思いそこを見つめているのかてんで解らない。
もう一度呼ぼうと牧野が口を開いたとき、大和がその手を徐に鉄格子へ伸ばした。すうっと撫でるように触れた指先が、真っ赤な血で汚れている。指先だけじゃない、彼自身が血に塗れていた。垂れる血が足元に小さな水溜まりすら作っている。
「工藤さん!」
最早悲鳴のような声で牧野は男を呼び、駆け寄った。その手を取り、その血は一体どうしたと言おうとして、ひゅうっと喉がおかしな音を立てる。
「マキノ、お前、今一体何を見た」
少しばかり呆然とした顔で己を見る大和は、血になど塗れていなかった。掴んだ指先も白いままで、何の汚れも無い。
一体今、自分は何を見たのか。それは牧野の方こそ知りたかった。
2018.04.28