志村晃 蛇ノ谷 / 山道
2003年7月20日 / 10時35分16秒
ふんふんと鼻歌混じりに歩くには些か険しい山道を大和は革靴だというのに足取り軽く登っていく。もう何度も通っているその道の先には、こじんまりとした質素な山小屋にも似た一軒の家があり、老人がたった一人で暮らしていた。かれこれ一週間、大和はその老人から話を聞くためだけに山道を歩いているのだ。
事の始まりは十日ほど前に宮田から聞いた話(約束も無しに突然深夜に訪れ、時に強引に、時に煙に巻くように、詐欺師も斯くやとばかり思われるような様相を呈していたそれは、半ば尋問のようでもあったが)にある。大まかな村の成り立ちや、現在の村の構成、そしてこの村の暗部ともいうべき部分にまで及んだその話は、大和が知りたかったことばかりであった。
そこからの彼の行動は早い。急いては事を仕損じる、しかし先手必勝、先んずれば人を制す。じっくり、しかし速やかに大和は村内の老人たちと友好関係を築き上げ様々な話を聞き出したのだ。
驚くほどの速さで村の人々と親密になっていく様に、宮田は地球外生命体を見るような目をしていた。けれどどこかで納得してもいたのである。男は余所者でどこの人間なのか知れない異国の匂いを漂わせる人間だったが、彼の持つ独特の空気と天真爛漫そうな笑顔が人々の心に隙間を作るのだ。求導師のもとにで世話になっているという事実もまたそれを助け、男はその隙間からするりと入ってくる。そうしていつしか、皆当たり前のように男を身内のように扱うようになるのだ。その様を往診に行く道すがら目にしては、とても恐ろしいことだと宮田は心の奥底で思っていた。
老人たちはどこそこの誰の嫁はとんだ鬼嫁だとか、美味しい煮付けの作り方だとか、他愛もない話に混じりこの村で一番の古株や村の歴史も教えてくれた。その中によく出てきたのは、二十七年前というキーワードである。二十七年前、この村を土砂災害が襲った。この村はそれで多くの人と土地を失っているのだ。
その災害についてよく聞こうと思っても、土砂災害当時のことを記憶している者が想像以上に少なかった。皆一様によく覚えていない、靄が掛かったようで思い出せない、というのだ。加えて、その二十七年前の災害以前の記憶も曖昧なのである。これは何かある、と大和の第六感が告げていた。村人たちから聞いた“古株”に名前が挙がった者たちを片っ端からあたったが、はっきりと覚えている者は誰もいない。
そして最後の頼みの綱が、今大和が会いに行こうとしている山奥に一人で暮らす老人なのだ。
詳しいことは聞いていないが、二十七年前の災害で妻と子を亡くしてからこうして山に篭っているようだった。老人のもとへ訪れるのは、これで七日目だ。土産の酒とつまみを手に機嫌良く山を登り、慣れた様子で家屋の戸を叩き返事も待たずに上がり込む。
「志村さーん、また来たぜ~」
男の登場に老人、志村晃は渋い顔をした。そうして玄関に乱雑に脱ぎ捨てられた艶々とした革靴に眉を寄せる。
「お前はまたそんな靴で来たのか」
「しゃーないだろ、あれしか持ってねーんだし。それより志村さん、見てこれ」
「お前はまたそんなものを持ってきおって……」
なはは、と笑いながら大和は手元の紙袋から日本酒の一升瓶とつまみを取り出し卓袱台へ置く。そして勝手知ったる手付きで傍の棚から湯呑を取り出すとだばだばと酒を注ぎ始める。風情もなにもあったものではないそれに志村はまた溜息を吐いたが、大和は気にする素振りも無くドンと湯呑のひとつを志村の前へ置いた。
人好きのするようなにっこりとした笑みを浮かべているがこちらを見る目は獲物を前にしたように爛々と輝いている。
「で、志村さん。今日こそ聞かせてよ。アンタ、覚えてんだろ」
何をとは言わない。だがこの一週間ずっとその問いを受けていたのだから当然何の話なのかは志村に解っていた。大和は頬杖を付き、志村が口を開くのを待っている。
志村はよく知りもしない人間に軽々しく口を開けるようなものではない。他愛もない世間話や牡丹鍋の作り方ならいざ知らず、村の深層についてなど誰が語るというのだ。一週間ここに通っているといっても、たかが一週間である。
そして志村が何よりも気にしているのは、男が求導師のもとで世話になっているということであった。もしうっかり口を滑らせ、それが教会、ひいては神代へ漏れてみろ、自分はきっと従兄弟と同じ顛末を辿る。
「なあ志村さん。俺が何でこんな話を聞きたがるんだと思う?」
「さあな」
「……終わらせに来たんだよ」
ひっそりと内緒話でもするように静かな、けれど僅かに笑みを含んだ声で放たれた言葉に志村は一瞬動きを止めた。
男の目の奥には、何か黒々としたものが渦巻いている。
「この村を終わらせに来たんだ」
愛でも囁くような口振りで再びそういい、男は笑んだ。それは惚れ惚れするほど美しく優しいものであったが、志村にはとても悍ましいものに思えた。
この男はきっと、この世のモノではない。あの女に似たものを感じる。
ぞぞ、と背筋を悪寒が走り、指の先からどんどん体温が抜け落ちていった。今自分が何と対面しているのか志村には分からない。人か、そうではないのかさえ判断できなかった。
「なあ、アンタ、知ってるんだろ?この村、血の匂いが凄いんだ。腐った匂いもぷんぷんしてる。でもなぁ、それがどっから漂ってきてんのかわかんねーんだよ。どこもかしこも臭くって、一番酷いとこが分からなくなってる。でもアンタは知ってるだろ?気付いてるだろ?」
ふわりと開け放ったままの窓から風が吹き込んでくる。生温いその風がねっとりと志村の頬を撫でていった。
「二十七年前のことも、それ以前のことも、村の誰もよく覚えてないんだぜ。変だよなぁ。そりゃあ記憶が曖昧になることだってあるさ、パニックになりゃ余計にな。だけどどいつもこいつも、分からない、よく覚えてない、思い出せない!ヤんなるぜ、全く、こっちだって暇じゃねーんだよ。多分期限があるんだ、それがいつかなんざ知らねーけどな、俺はやらなきゃならない。だから、アンタの話が聴きたい」
男の言っていることの三割も理解できない。男がやらなければならないことが何か、何一つ分かりはしない。
けれど志村は、話さなければいけないような気がしていた。己が知る全てを話さなければ、きっとずっと、延々と繰り返すように思えたのだ。延々と廻り続け、終わらない気がしたのだ。
乾き切った口内を潤すように、志村は酒を舐め、それから大和を見た。
STRUCTURE OF THE VILLAGE第七災 村を造りしもの
牧野慶 不入谷 / 牧野家
2003年7月20日 / 21時03分58秒
今日も随分と遅い帰りだ。ここのところ毎日大和の帰りは遅く、夕食も食べて帰ってくることが多い。
玄関から真っ直ぐ台所へ来た大和は、ダイニングテーブルに座る牧野を見て「ただいま」と朗らかに笑った。今日は随分と上機嫌だ。
「おかえりなさい、今日はどちらへ?」
「今日も志村さんとこ。初めて猪肉食ったぜ」
うめーのな、と笑いながら言い、水を一杯ごくりと飲み込む。動く喉仏をぼんやりと見つめる牧野の目元に薄い影があり、それを見止めた大和はひょい、と片眉を挙げた。
「マキノ、最近夢見が悪いみてーだな」
「えっ」
「目の下、隈出来てんぞ」
どっかりと牧野の向かいに腰を下ろし大和が自分の目元を指先で示しながらそう言った。
貴方のせいですよ、と言えたらどれだけ良かっただろう。しかし現実の牧野にそんなこと言える訳がない。ただ誤魔化すように笑うのだ。
「少し、嫌な夢をみるんです」
「へえ、どんな?」
「どんな……」
ここのところ牧野がよく見るのは、荒廃した村の中を大和と歩くものだ。大和は時に牧野の手を引いて歩いてくれる。けれどふと、その手が離されるのだ。そうしてハッと気付けば雨の降りしきるなかたった一人で立ち尽くしている。自分は何故か白衣を着ていて、手には拳銃を握っているのだ。そして何か、とても恐ろしいことをしたという実感と、それが大和を思ってのことだという記憶があるだけ。
それともうひとつ。真っ暗な洞穴のようなところで、半ば水に浸かった自分の足に、何かが触れて来るものだった。絡みつくそれで身動きが取れず、何処にも行けない。誰かが唸っているような低い音に混じって、女の声がするのだ。それは口々に何かを言っていて、何も聞き取れない。呪詛にも似たそれに気が狂いそうになるのだ。
そうしていつも飛び起きてしまう。
「洞穴のような、場所で……ひとりで立ってるんです。声が聞こえて……でも何を言っているのか私には、分からなくて」
「……分かるはずだよ」
「え?」
「お前には分かるはずだ。その“声”が何を言っているのか、マキノは知ってる。そうだろ?」
何も知らない小さな子供でも見るような、随分と優しい目だった。
「よく考えてみろ。それで、思い出したら、分かったら俺に教えて」
俺に、一番に教えて。それだけ言うと、大和は立ち上がり台所を出て行った。
2018.04.14 | 志村のじっちゃん宅がどこか分からないので、蛇ノ首谷辺りにしました。