宮田司郎 宮田医院 / 院長室
2003年7月8日 / 23時48分50秒
地下での一仕事を終え、いつもの白衣を羽織り直しながら院長室へ戻って来た宮田は、室内の電気を付けてぎょっとし、足を止めた。
「こんばんはぁ~、院長先生」
誰もいないはずだった部屋の中、座り心地の良い革張りのデスクチェアに我が物顔で男は座っていた。眩しそうに目を細めながらも長い脚を悠々と組み随分とリラックスした姿は、まるで映画に見る裏社会の住人のようだ。しかしその纏う空気は、どこか緩く、親しい人間にでも向けるかのようなものだった。
ゆったりと瞬きをするその瞳は一点の曇りもなく、敵意など一滴も見当たらない。それ故、何かとても恐ろしいものに思えた。
戸口で足を止め、こちらを警戒するように見る宮田に大和は少しだけ笑みを歪めると、別に何もしないさ、とため息のような声で言う。その拍子に、ふわりとアルコールの匂いが宮田の鼻先を掠めた。椅子から戸口までは結構な距離があるというのにここまで届くということは、相当な量を飲んでいるではないだろうか?
酔っ払いがどうやってここに入ったのだろうか。戸口の施錠はしっかりしているし、鍵は宮田しか持っていないというのに。
「どうやって入った」
「そこの窓」
ふい、と差されたのは椅子のすぐ真後ろの窓だった。地下に降りる前まで開けていて閉め忘れていたのか。
宮田の眉間に僅かに皺が寄ったのを見て取り、大和は小さく笑った。
「せんせ、結構ここの窓閉め忘れるよな。それで毎回俺がそこから入るから、結局いっつも開けっ放しになってた」
楽し気に笑みを含んだ声で懐かしむようにそう言う大和に、宮田は妙なものを覚えていた。初めて会った時に感じたあの懐かしさと途方もない熱。胸が甘く痛み、締め付けられているかのように息がか細くなる。
俺は、何度もこの柔らかな笑顔を見ている。この笑みを見るたび、胸が痛んで、けれどそれは決して厭なものではなく。
ふら、と引き寄せられるように宮田の足がワークデスクへと近付く。何かに導かれるように、それが当たり前のように、宮田の口から男の名前が零れた。
「大和……」
「うん、なあ、不思議だよな。アンタとはついこの前会ったばっかのはずなのにさぁ、俺、なんでかアンタのこと覚えてる気がするんだ」
おいで、と優しく囁かれ、宮田は呼ばれるままにふらふらと夢見心地に歩み、椅子に座ったままの大和の前に立っていた。冷静な自分が、おかしいだろう、この男は不法侵入者で酔っ払いの紛れもなく不審者である、すぐに追い出すべきだし不用意に近付かない方が良いといっている。けれど、男に呼ばれると、宮田は行かなければと思ってしまうのだ。
彼が呼んでいるならば、それがどこでも、俺は行かないと。彼を守らなければ。彼の手を離してはいけないから。
少しずつ思考が乱れ、混濁していく。じわじわと視野が狭まり、今自分が立っているのか座っているのか、起きているのか寝ているのか、何も分からなくなっていく。
赤黒い液体に塗れた彼が、それでも美しく微笑んでいる。青褪めた顔をした彼が、俺に向かって手を伸ばしている。薄暗い荒廃した場所で、無防備な寝顔を晒して彼が俺に寄り掛かっている。覚えのない記憶が次々と流れ去り、消えていった。
「司郎」
すぐ耳元で低く落ち着いた声がした。誰かがそ、と慈しむように頭を撫でている。あたたかな手のひらの温度と、鼻先に漂う酒気、その隙間から時折ふわりと匂い立つ覚えのある心を落ち着かせる香り。
急激に体の感覚が現実味を帯び、宮田は目を開けた。
「司郎、平気か?」
気付けば宮田は大和の足へ凭れ掛かる様にして床へ座り込んでいた。膝の上へ頭を乗せ、ぐったりと。
今自分に何が起きたのか分からず混乱する宮田に、大和は緩やかに目を細めながら「血の匂いがする。また地下室かぁ、司郎」と喉の奥で笑った。
「な、にを」
「知ってるよ。お前が教えてくれたんだろ、司郎ぉ。地下室で何してんのか、今まで何してきたのかをさ」
感情の見えないその目で笑う男の顔は、甚く酷薄そうに見え、宮田は息を呑んだ。俺はいつ、そんな話をした。男に会うのはまだ二度目だ。記憶喪失だという胡散臭く得体の知れない人間に、そんな話をする訳がない。なのに男は知っているという。自分から聞いたという。
半ば恐慌状態で顔を強張らせた宮田に、大和はナハハと気の抜ける笑い声をあげた。数瞬前の獰猛さなど微塵も感じさせない朗らかな笑顔だ。けれどその目の奥で、何かが蠢いていた。
「なあドクター、聞きたいことがあるんだ。だから俺に教えてくれよ。前みたいに、さあ」
Twins Ⅱ第六災 開戦、宮田医院院長室
牧野慶 不入谷 / 牧野家
2003年7月9日 / 1時09分42秒
何かとても恐ろしい夢を見ていた気がする。
飛び起きた牧野は、ばくばくと早い脈を打つ心臓をぎゅうっと服の上から握る様に抑え、荒い息を整えようと深呼吸を繰り返した。汗でべったりと張り付く寝間着が気持ち悪く、もう一度寝なおす気が失せてしまう。
着替えてしまう前に一度タオルで拭いて、その前に水を一杯飲みたい……。
牧野はよろよろと寝床を出て、階段へ向かう。大和に貸し与えている部屋の前を通った時、ふと予感がした。
あの後、さっさと一人で家の中へ入ってしまった大和はすぐに部屋へと引き上げてしまい、牧野が床に就くまで降りてくることはなかった。あのまま寝てしまっているのならば、このドアを開ければ居るだろう。けれど、ここに彼はいない。牧野は何故か、そう確信していた。
そうっと静かにドアを開け、覗けば、案の定、ベッドの上はもぬけの殻である。誰かが横たわっていた形跡もない。彼は、牧野が眠っている間にどこかへと消えていったのだ。
その行き先を牧野は知っていた。
じ、と空の寝台を見つめる牧野の目は、いつかのようにどろりと濁っている。きつく握りしめられた拳は白くなり、細かく震えていた。
宮田司郎 宮田医院 / 仮眠室
2003年7月9日 / 6時00分8秒
目覚ましの音に起き上がった宮田は、一瞬ここが何処であるのか分からなかった。度々泊まり込む院内の仮眠室だというのに、知らぬ場所にいる、と思ったのはソファで眠る人の姿を見たからだ。
目覚ましの音にも起きずソファで眠りこける大和に、宮田は深い溜息を吐いた。
いまいち、昨夜己の身に何が起こったのか理解しかねている。ただ、何が何だかよく分からないうちに、目の前で眠る男に何もかもを明け渡してしまったことだけは理解していた。誰にも話したことのないようなことさえ、躊躇いもなくするすると催眠にでもかかったかのように。
どうかしていた、と宮田は頭を抱えながらベッドから降り、身支度を整える。さっさとしなければその内看護師が来てしまうだろう。誰かが来る前に男を起こして帰らせなければ。
起こそうとソファの前まで来て、宮田は動きを止めた。しっとりと汗を滲ませながらも安らかな顔で眠る彼に、胸が甘く痛んでしまったからだ。眠っているとあの威圧的にさえ見える強い眼差しが隠れ、柔らかな雰囲気をしている。己へ未知の恐怖を与えた人間だとは思えないほどあどけないその寝顔に、宮田は何もかもを忘れて可愛い、なんて思ってしまったのだ。
「……大和」
彼の名を口にすると、喉の奥の方が少し、熱くなる。胸の内を何かが満たしていく。それは、かつて朽ちていった人形を抱いていた時と少し、似ている。男は他人の心胆を寒からしめるものを持っているが、同時に宮田の虚ろを満たし安心させるものも持っていた。
触れた頬は熱く、彼がここに生きていることを示す。宮田は大和の頬にぴったりと手のひらをくっつけ、親指の先で少しだけ目の下を撫でた。ふるると睫毛の先が震え、なだらかであった眉間に皺が寄る。
「ん~、ん?……しろお?」
とろとろと目を開け、いまだ眠りの淵に立った瞳が自分を見つめる。幼けないその眼差しは薄く笑んだように蕩けていた。宮田は、毎朝こんな顔をもしかすると牧野は見ているのかもしれないと思うと、胸が焦げ付くような、腹の内を掻き回されるような、嫌なものを感じてしまう。
それを誤魔化すように熱い頬から手を退け、腕を掴み大和を引っ張り起こした。
「ほら、さっさと帰れ。人が来る」
「んー。あ~、またマキノに怒られるな」
あーやだやだ、と首を回しながら言い、大和は部屋を出る直前、くるりと振り返った。
「また来るから窓、開けとけよ、先生」
機嫌良さげに鼻歌混じりで去っていく男に、宮田はまた深く、溜息を吐くのだ。
2018.04.08