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石田徹雄 上粗戸 / 駐在所前
2003年7月8日 / 8時52分58秒

日課となっている朝の巡回を終えて駐在所へ戻った石田は、署の前に建てられた看板を熱心に見つめている背の高い男におや、とペダルを踏みこんでいた足を止めた。この村は狭く、居住者も少ない。ここの勤務になってから毎日村内を巡回している石田は、村にどんな人間が住んでいるかしっかりと把握していた。そんな石田の記憶には無いその男。
もしや三日前に村にやってきたという男ではないか?
石田は大衆食堂の夫婦の話を思い出した(「背の高い人でねぇ、外人かと思ってたらどこだかのハーフだって。通りで日本語が上手いわけよ!」「ハッキリしてて愛想のいい兄ちゃんだったよ、確か求導師さんのとこで世話になってるって言ってたなぁ」)。酒屋の主人もえらく気に入っていたし、きっと人好きのする良い人なのだろう。ただでさえこの村は若い人間が少なく、同年代も片手で足りるくらいしかいない。いつまでこの村に居るのかは分からないが、是非仲良くなりたいと石田は自転車から降り、心を弾ませながら男に近づいた。

「こんにちは」

声に反応しパッとこちらを向いた目は、鮮やかな青緑色をしている。太陽光できらきらと輝くさまは、海でもみているようだった。
きょとん、とこちらを見つめる顔はひどく幼く無防備だ。勝手に同年代だと思っていたが、もしかすると十代とかなのかもしれない。向こうの人は背が高く大人びた顔をしてるから、年齢が判断しづらいのだ。

「ポリス!」
「イエス、ポリスです」
「丁度良かった、この地図読み仮名とかねーから読み方ぜんっぜん分かんなくって。聞こうにも誰もいなくて困ってたんだよ」

にこにこ人懐っこい笑みを見せながら、教えて、と示されたのは村の地図である。噂通り、良い人そうだと思った石田もにこにこと笑みを返し、指差される地名を読み上げていった。

「これは?ヘビの……?」
「あ、これは蛇ノ首谷です」
「ジャノクビタニ……蛇でも出るのか?」
「う~ん、山ですからね……出るかもしれないです。他にも野犬とか熊とか、野生動物が多いみたいですからなるべく入らないようにしてくださいね」
「うん。ありがと」
「いいえ、ところでお名前を伺っても?」
工藤大和デス。そちらは?」
「石田徹雄巡査であります」
「お~、イシダ巡査!よろしく!」

敬礼してみせれば、大和はまた幼子のように目を輝かせる。見た目の割には素直で少年のような反応に、石田は成程確かに好かれるタイプだ、と笑みを深めた。



* * *


牧野慶 不入谷 / 牧野家
2003年7月8日 / 20時16分48秒

そう鳴ることのない家の電話が鳴ったのは、夜の八時を過ぎた頃だった。
大和はまたどこかに出掛けているらしくまだ帰ってきていない。たった一人きりの家に響く電子音は妙に寒々しく、たった三日誰かと共に過ごしただけでこうも違うものなのか、と牧野は小さく息を吐いた。
のろのろと受話器を取り返事をすると、やけにがやがやと賑やかな声が聞こえる。

「あ、もしもし求導師様?あのですね、ちょっと大和君にお酒飲ませすぎちゃいましてぇ、も~しわけないんですけども迎えに来てもらうことってできますかねぇ」

この声は理髪店のご主人の声だろうか。酔っているのだろう、いつもとは違う芯の無いふにゃふにゃした妙に間延びした話し方だ。その向こうで、やんややんやと騒ぎ立てる男たちの声と窘めるような女性の声が聞こえてくる。

「え、ええ?」
「いや~もうね、すごい良い飲みっぷりでねぇ、石田君と良い勝負だったんですよぉ!」
「あ、あ、そうなんですか、えーと、食堂ですかそれとも宿舎のほうの?」
「あ、宿舎のほうです!いや~もうほんとね、今度は是非求導師様もね、」

延々と続きそうな酔っ払いの話をなんとか終わらせ、受話器を置いた牧野は別段慌てることもないのにばたばたと家を走り回り外出の支度をする。騒々しい音を立てながら戸締りをし、速足で丘を下りながら、牧野はまた人知れず小さく息を吐いた。
帰ってこないと思ったら村の方たちと飲んでいたのか、良かった、宮田さんのところではなくて。そう思って、ハタと足を止めた。安堵している自分がいることが気持ち悪いと思ってしまう。彼に出会ってからどうしてしまったのだろう、何もかもが滅茶苦茶だ。乱され、制御出来なくなっている。
全てを振り払い奥へ押し込むように、牧野はまた足早に上粗戸の宿舎へと向かった。



* * *


宿舎の奥の広間は宴会状態であり、あちこちに酒瓶が転がっている。店の主人たちが口々に牧野を迎え、奥でくったりと横たわっている大和のもとへと向かわせた。
半分に折り曲げられた座布団を枕代わりに目を閉じている大和からは、結構な酒の匂いが漂っている。元が白いだけに頬から目元にかけての朱色が目を引いた。そっとその肩に手をかけ名を呼ぶと眉間に皺が寄り。それからぐずるような声を漏らしながら長い手足を折り畳んで丸まってしまった。

「ほら~、大和君起きなよ、求導師様困ってるだろぉ~」

丸まり小さくなってしまった大和の体を容赦なく揺さぶりながら言う駐在警官の石田も随分と出来上がっているようで、真っ赤な顔をしていた。石田のその言葉を皮切りに、男衆がやいやいと大和へと声をかけていく。
いつの間にか随分と仲良くなったのか、皆親し気に大和のことを名前で呼んでいる。そのことが牧野の胸をざわざわとさせていた。

「あーーーーうるさいクソ酔っ払い……」
「あ、くそって言った!大和君ダメだろ、警官に向かってくそなんて言っちゃ~」
「やめろ、揺するな、てめーの顔にゲロぶっかけんぞ」

頑なに目を開けず、大和は鬱陶しそうに石田の腕を振り払うが、石田も石田で楽しくなっているのか絡むのを止めない。じゃれ合うようなその姿を見ていたくなくて、牧野は少々大きな声で「工藤さん、起きて下さい」と肩を叩いた。
途端、驚いたようにパッと閉ざされていた目が開く。不思議そうに牧野を見る大和の目は酒のせいかとろりと潤んでおり、目元の朱色と相まって色めいて見えてしまい一瞬息が詰まった。少しの間ぽやん、と牧野を見つめていた大和はのろのろと体を起こしながら、「なんでここに居んの?」と首を傾げる。

「迎えに来てほしいと電話があったので」
「うわ、ごめんマキノ~」
「いいえ、大丈夫ですよ、工藤さんは大丈夫ですか?帰れますか?」
「へーき、帰れるよ」
大和君もう帰んの~?もちょっと飲んでかない?」
「飲まねーよ、これ以上飲んだらマジで頭からゲロぶっかけることになんぞ」
「じゃあまた今度飲もうよぉ」
「うんうんはいはい、邪魔だからどけてネ」

酒瓶と共に足元に絡まってくる石田を大和は随分と乱雑に引き剥がし転がす。

「じゃ、俺帰りますんで、ゴチソウサマでした」
「おー、またな兄ちゃん!」

酔っ払いたちの声を背に受けながら部屋を後にする大和の足取りはふらふらとしていて危なっかしい。一体どれだけ飲んだのか、転がっていた酒瓶は結構な数だった。
いつ転ぶかとひやひやしながら、時折顔色が悪くないか伺いつつもなんとか家の近くまでたどり着いたとき。ふと大和が足を止めた。月明かりにぼんやりと照らされた顔の中、先程までとろんとしていた目が冴え冴えとした光を浮かべている。

「なあマキノ、俺がなんでここにいたのか、なんとなくわかった気がするんだ」
「え……?」
「時々、誰かに導かれているような感覚がするんだ。何をすべきで、何を知っておくべきか、誰かがそっと耳元で教えてくれる」

その顔はどこまでも無感情で冷たいのに、瞳だけが爛々と輝いていた。熾烈さを滲ませたように強く鋭い眼差しが、牧野を動かなくさせる。

「お前にもその声が聞こえてるはずだろ、なあ?」

酔っているというにはあまりにも冷徹な瞳、けれどその目の奥でぐつぐつと煮え滾る不気味なものに正気を疑わざるを得ない。トランス状態とでもいうのか、まるで何かに憑かれているような何もかもを飲み込まんとする空気に、牧野は一歩震える足を後ろへと動かした。
逃げなければ。何か恐ろしいことが起こる。その前に逃げなければ、安心できる場所へ隠れなければ!
そんな牧野を嘲笑うように大和は口角を吊り上げた。あの、悪魔のような悍ましい笑みだ。

「いいぜ、好きなだけ逃げろよ。後悔すんのは結局のところお前だからな」

くるりと踵を返し遠のいていくその背。ざ、と牧野の脳内を何かが過る。遠のいていく背、振り払われた手の熱さ、また置いて行かれるのか―――。
本能的に大和のもとへ駆け出そうとしたとき、ふと誰かの声が聞こえたような気がした。高く細い、少女のようなその声に、ずっとずっと昔から深い奥底で眠っていた疑惑が顔を見せ始める。
私は、何かとても大切なことを忘れている。

Twins Ⅰ第五宰 声、壁の向こうに

2018.01.22