工藤大和 西ヶ原 / 神代家
2003年7月7日 / 1時46分22秒
屋敷の敷地内は、不気味な騒めきに満ちていた。木々の葉が擦れる音が人の囁き声に聞こえる。
朝にここを訪れたときに感じたねっとりと体に纏わりつく厭な空気が、夜はより一層濃く感じられ帰ってゆっくり眠ってしまいたい気分にさせる。大和は足音も立てず屋敷へ続く道を歩きながら、警戒するように周囲へ視線を走らせた。
真っ暗闇の中を月明りと己の勘のみを頼りに敷地の奥へと進んでいく。ふと誰かの視線を感じた気がして、大和は足元に落としていた視線をあげた。
「あった……」
暗闇にぼんやりと浮かぶように聳える白い離れの外壁。堅牢なその扉は鎖と錠で変わらず閉ざされている。けれど彼の前では無意味だった。何故なら、彼の手には勝手にどこぞの民家から拝借してきた大振りのワイヤーカッターがあるからだ。
にたにたと邪悪さすら感じさせる笑みを浮かべながら、大和は何の躊躇いもなく、扉を閉ざす鎖をその凶悪なカッターでもって断ち切った。じゃらりと耳障りな金属音を立てながら無残に断ち切られた鎖が足元に落ちる。静かな敷地内にその音は響いたが、誰かがやってくる気配はない。よし、とひとつ頷くと再びカッターを肩に担いで大和は中へと入っていった。
離れは母屋と違い、増改築はなされていないようで部屋数も随分と少ない。人はいないのか、外よりも静かだ。大和は玄関口にカッターを置いていくか迷ったが、何かあった際に振り回せばそれなりに使えるだろうと持っていくことを決めた。
一度深呼吸して、離れに上がり込んだ。真っ直ぐ伸びる廊下を歩むその足取りは、己が進む先を知っているとでもいうように何の迷いもない。実際、大和は何かの気配を感じ取っていた。それをただ辿っていたのだ。廊下の突き当りを道なりに右に曲がった奥。ぴたりと閉ざされた襖から、何か異様な気配が漏れ出ていた。それは屋敷全体に満ちるどろりとした悍ましい沼に似ている。
これを開ければ、もう戻れない。何があっても先に進み続けるしかなくなる。そんな予感がした。
「だれだ」
大和が襖を開けるのと同時に、澄んだ少女の声が響いた。
Priest's Fear第四在 夜、逃げ出したい眸
牧野慶 不入谷 / 牧野家
2003年7月7日 / 7時23分19秒
呼んでも現れない大和に、具合でも悪いのだろうか、と牧野は階段を見上げていた。昨日、神代家へ挨拶をしに行ってからあまり口を開かず、何かを考えこんでいるようだと思っていたけれどもしかすると、あれは具合が良くなかったのかもしれない。
牧野はどうしようか、と意味もなくその場を少しの間うろつき、もう一度名前を呼んでから、階段を上がった。元客室で現大和の部屋である戸をノックし、大丈夫ですか、と声を掛けながら押し開ける。
「工藤さん……?」
少し乱れたベッドはそこで誰かが眠っていたという痕跡を残していた。しかしそこには今、誰もいない。もぬけの殻だ。しばし呆然と無人のベッドを見つめ、それからようやく事態を飲み込んだ牧野はあわあわとまた意味もなく部屋内をうろつく。
彼は何処に行ったのか?何も告げず、書置きも残さず。ふ、と脳裏に浮かんだのは、冷たい目をした己と同じ顔の男だった。もしかすると、宮田のところにいるのでは?
牧野はばたばたと階段を降り、その勢いのまま受話器を持ち上げて宮田のもとへ電話を掛けようとして、やめた。ええ、ここにいますよ、と言われるのが恐ろしかったのだ。何故恐ろしいと思うのかは考えたくもない。
牧野はのろのろと受話器を戻し、食卓へと戻った。席につき、顔を覆って疲れ切ったような溜息を吐く。用意された二人分の食事は手も付けられず、少しずつ熱を失い冷たくなっていった。
牧野慶 不入谷 / 牧野家
2003年7月7日 / 22時17分36秒
がちゃん、とドアの開く音に、牧野はハッと顔をあげた。見上げた時計は十時過ぎを指している。
慌ただしく玄関へ赴けば、驚いたように目を丸めた大和が立っていた。昨日ぶりに見る彼の姿はやや疲れてくたびれているように見える。一体どこで何をしていたのか、牧野が貸し与えている服は所々土と埃で薄汚れていた。多少擦り傷などはあるものの、どこにも怪我らしい怪我なども見えない。そのことに安堵し、余計に腹が立った。
「どこに行ってたんですか!」
「え、えぇ……どうしたんだよマキノ」
「どうしたって、こっちの台詞です、心配したんですよ!そんなに汚れて何処で何してたんですか!」
牧野の勢いに気圧されたように大和は丸くなった目をしぱしぱと瞬かせ、不可解と言いたげに眉を寄せた。何故こんなにも牧野が怒っているのか大和には理解できなかったのである。幼い子供でもあるまいし、病弱なわけでもなんでもない至って健康な成人男性の何をそんなに心配して怒る必要があるのだ?そんな心境だった。
貴方の言っていることが理解できません、と全身で表現する大和に、牧野の怒りはヒートアップしていく。
「あなたはいつもそうです、こっちがいくら心配しても平気だの俺は負ける戦はしないだなんだって一切聞かないで無茶ばかり!怪我したって動けるから平気だなんて言うし!心配するこっちの身にもなってください、命がいくつあっても足りませんよ!宮田さんを迎えに行く時だって、」
「なあ、それ、なんの話?」
「……え?」
「俺、お前にそんなこと言った覚えはねーし、そもそもお前に会ったのも二日前が初めてだよな?」
「はい……え、あれ?」
「ミヤタに会ったのだって二日前が初めてなはずだぞ」
「そう……です、よね」
今自分が何の話をしていたのか。感情のままに言葉をぶつけていた牧野には分からなかった。いつもって、いつのいつもだ?自分は今、いつの、何の話をしていた?
先程まで感じていた怒りは霧散し、今は困惑しかない。一体自分はどうしてしまったというのだ?
「とりあえず、入っていい?」
「あ、ええ……あっ、その、おかえり、なさい」
「……ただいま」
一瞬キョトンと目を丸めてから、ゆるりと笑んだ大和に、じわりとまた胸が熱くなる。しかしそれも一瞬のことで、続いた言葉に牧野の表情は凍り付いた。
「なあマキノ、儀式っていうのは何だ?神代の娘が贄として捧げられるのは、何の神だ」
「……なにを」
「何十年かに一度開かれる儀式のこと、当然主催者であるお前は知っているよな?村人も秘祭だということしか知らない、儀式のことだよ」
一体この男は、どこでそれを聞いたのだ。この村には昔からの秘祭がある、ということだけなら、どこぞの村人から聞いたのかもしれない。けれど、それが神に贄を捧げる儀式だと知っているのは教会の者と、神代家の者、そして宮田家の者だけである。この村の者ではない彼にその何処かの家の者と通じている訳も無い。となるとどこかから漏れ聴いたのか?
牧野は混乱に目を回しながらも、この状況をいかに切り抜けるかひたすらに考えていた。何に怯えているのかその顔は青白く、まるで裁かれるのを待つ罪人のように強張っている。
「一体、何を言っているのですか?」
「娘が二人できたら二番目を花嫁として捧げるんだろう、一番目は後継ぎを作るために残して。その神っていうのは、あの教会で祀り上げられている神か?この村の宗教、何て言ったか、眞魚教だったか?聞いたことがないから、この村独自のものなんだろう。それは一体どんな教えを説いている?祀る神は何の神だ?生きた人間を贄に捧げるくらいだ、さぞかし力のある神なのか、それほど凶暴で凶悪なものなのか、それとも何らかの契約か?悪魔との契約みたいにな」
次々に投げ掛けられる問いは、最早牧野にとって脅迫に近いものに感じられる。
何より、その目がいけなかった。
ジッとこちらの奥の奥まで見透かすような目。機械的で鏡のようにただこちらを映す目は冷たく、どこか牧野が苦手とする宮田と似ている。己の中で眠る遠い日の罪悪を刺激する目だ。
その恐ろしい目と、静かながら苛烈さが見え隠れする声音、何をどこまで知っているのか見せない口調、何もかもが牧野には恐ろしかった。不気味ですらあった。何故、たった二日前に姿を現した外の人間が、そんな村の内部のことを知り、踏み込んでくるのか。一体何の目的がある?ああ、何も分からない!
助けを求めようにも、牧野がいつも縋る相手である求導女はここにはいない。牧野に道を示してくれる者はここに、誰もいなかった。
混乱と怖れの渦に叩き落された牧野はうろうろと視線を泳がせ、あ、あ、と意味を成さない母音ばかり零す。
「ン?どうした、マキノ、何を言いたいのかちっとも分からないぞ。頼むから理解できる言語で話してくれ。会話をしようぜ、会話を」
にこりと音が付きそうなほど作り物めいた笑みを浮かべた大和の目は、捕食者の如くぎらついている。
「し、知りません、私には何も、何も分かりません、知らないです、私は何も」
何も、何も知らないです、分かりません、何も、何も。
恐慌状態に陥ったように延々と同じ言葉を繰り返し、尋常でない顔色で汗を流す様に、大和は大仰な仕草で肩をすくめ、片眉をあげる。まるでお話にならないとばかりに溜息を吐いて、興味が失せたように視線を逸らした。
「そ、じゃあおやすみマキノ。今日の夕飯は明日の朝食うよ、連絡入れなくて悪かったな」
背を向けたままひらひらと適当に手を振り、大和は階段を上っていった。
さながら蛇に睨まれた蛙であった牧野は、そこでようやく人心地がついた気分で息を吐く。どっと背中を汗が伝っていった。もうあの目は無いと分かっていてもまだ痺れのような恐怖が残り、目元を覆った手が小さく震えている。混乱もまた抜けきらない頭で、のろのろと歩き牧野も階段へ向かった。
今日はもう、このまま寝てしまおう。眠って、今夜のことは何もかも忘れてしまうのだ。それがいい。
牧野はまた一つ、己のために蓋を閉める。そうして今までのように何に蓋をしたのかすらも忘れてしまうのだろう。
2017.10.18