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工藤大和 不入谷 / 牧野家
2003年7月6日 / 7時03分58秒

目覚めればそこは見知らぬ場所、なんてとんだフィクションだ。
覚えているのは、誰かが事務所を訪れてきたことまで。黒いものを纏った誰かがドアをノックして、それから記憶がない。いや、ないわけではないのだ。
薄らぼんやりと覚えているのは、ハニューダ村へ行って全てを終わらせてきなさい、という言葉だけ。それを言ったのが誰なのかも分からなければ、それが現実か夢かも分からない。深く考えようとすると靄が掛かったように全てが曖昧になるのだ。
そうなってしまえばもう考えるだけ無駄だ。何某かの手掛かりなりなんなりが見つかってからまた何がどうしてこうなってるのか考えればいい。そう結論付け、大和は今自分の身に起きている全てを受け入れた。
そして目の前に立っていた男にあるがまま、質問に答えていればいつの間にか大和は記憶喪失の青年ということになり、その男の家に厄介になることになったのである。

人生とは数奇なものよ、と硬いベッドから起き上がり、そういえば、と記憶を辿る。
ここに来るのは初めてで見るもの全て見知らぬはずであるのに、世話をしてくれている男と昨日訪れた病院の医師の男には見覚えがあるような気がした。見覚え、というか何度も会っているような気がするのだ。初めて会う気がしないどころか、懐かしさや恋心にも似た仄かな熱すら込み上げてくるくらいであった。
けれどこれに関しても大和は深く考えず、妙なこともあるもんだと受け入れた。どこかであったけれど記憶にないだけかもしれない、そもそも自分は人の顔を覚えるのが苦手なのだ、恐らく忘れているだけだろう(工藤大和という男は、親友とまではいかずともそれに近いほど親しかった男の顔すらあまり覚えていないヤツなのだ。時には仕事の依頼人の顔すら覚えていない。誰だこいつはなんて思うことはザラである)。

「おはよ、マキノ」

身支度を整えて台所へ向かえば、もうすでに男―――牧野の姿があった。
せっせと朝食を拵えている背に声をかければ、一瞬びくりと硬直してから恐る恐る振り返る。おどおどしているというかびくびくしているというか、まるでこちらが猛獣にでもなったような気分にさせる男だ、と大和は眉を寄せた。

「おはようございます、眠れましたか?」
「おーお陰様で。でもあのベッドくそ硬いな、木箱かよって感じ」
「そ、それはすいませんでした……」
「冗談だって。そこは居候のクセに生意気いってんじゃねえくらい言えよ」
「は、はあ……はは」

また愛想笑いである。

「あ、もうすぐ用意できますので、よければ掛けてお待ちください」
「何か手伝うことないの?昨日も全部お前に任せてたし」
「えーと……ではお皿と箸を出しておいてもらっても良いですか?」

皿を選びながら出す大和の背を、じっと牧野は見つめた。Tシャツ越しでも分かる程よく鍛えられた広い背、シャツに隠れて今は分からないけれどその腰はキュッと締まっていて、綺麗な逆三角形を描いている。そこから続く小ぶりな尻と、伸びやかな長い脚。
いつもはおどおどと自信なさげに泳いだり、子供を優しく見守っているその目は、暗く澱み、何を考えているのか分からない。
怯えたような仕草ばかりとるくせに、時折牧野の目は仄暗く濁った光を持つ。ギラギラとしたものではなく、ぬらりと底で鈍く光るようなそれだ。瞬きの間に隠れ消えるようなものだけれど、頼りなさげな風貌の男がするには中々どうして危ういその視線は、きっと見る者の記憶にこびりつくだろう。
何枚かの皿と箸を手に大和が振り返るころには、牧野も目を逸らし朝食の仕上げにかかっていた。

A visitor第三災 見えない、残滓


工藤大和西ヶ原 / 神代家
2003年7月6日 / 8時52分03秒

増築を何度も重ねたその屋敷は、日本家屋であるのにそうでないような、何とも奇妙で奇怪なものであった。鬱々としている。暗雲立ち込めるような悍ましい気配を孕んだその様相に、大和は思わず足を止めた。
とても厭な空気を感じる。ここには何かがいる、何か、とても良くないものが、己に害を与えかねないような。これはあの底なし沼に似ている。資料を読むたびに感じる不快感、ガラス越しに感じたどろりとした空気を感じさせる目に見えぬ沼。それと同じものをここからも感じるのだ。この三つは繋がっているのか、それともただの偶然か、同じような色を持っているだけか。……この村に、何があるというのだ?

工藤さん?」

ふと後ろを着いて来ていたはずの気配が消え、牧野は足を止め振り返った。大和は少し離れたところ、門を少し過ぎたところで立ち止まり屋敷を見上げている。
もう一度声をかけようと口を開いたとき、無感情なその目が、ふ、と自分を見た。
冷たく硬質なその眼差し。鏡のようにただこちらを映すだけのそれは、何もしていなくとも後ろめたくなるような非常に居心地の悪いものだった。全て見透かされているような気分になり、牧野は言い知れぬ不安に襲われ咄嗟に目をそらした。

「なあマキノ」

温度の無い声はただ低く響き、不気味な風となる。

「この村で祀られているものは何だ。お前は毎日何に祈りを捧げてる」

瞬間、ごうっと風が吹き抜ける。それと共に何かが己の背後から迫り追い抜いて行ったような気がして、ハッと牧野は顔をあげた。
大和は笑っていた。楽園を壊した狡猾な蛇のような、禍々しい邪悪さすら感じさせる笑みを浮かべ、牧野の背後を見ている。

「出迎えが来たぜ、マキノ」

大和の視線の先、屋敷の前には使用人と思われる女性が佇んでいた。
颯爽と脇を通り抜け屋敷の方へ向かう大和に、先程のような得体の知れない不気味さはない。置いて行かれぬよう後を追いながら、牧野はようやっとゆっくり息を吐いた。

家を出る前に牧野があらかじめ電話で掛けていたからか、大和たちはすぐに屋敷内へ通された。
古めかしい屋敷内はどこか薄暗く、靄がかかっているようにも見える。先の見えぬ長い曲がりくねった廊下は迷路のようだ。目の前を歩く使用人を見失えばもう二度と屋敷から出られない。そうして屋敷に取り込まれるのだ―――。
ふ、と大和は息を吐き、己の妄想を小さく笑った。
それにしても本当に、ホラー小説の舞台のような家だ。あちこち襖だらけで、何処がどう繋がり何処が何の部屋なのかさっぱり分からない。気味の悪い家鳴りに、吹き込む風は呻き声のようですらある。ただ居るだけでもこんなに気が滅入るのだ、ここで暮らすだなんて病気にでもなってしまいそう。
半歩先を歩く牧野も、ぎぎぎ、と家の軋む音がする度に落ち着きなく視線を彷徨わせている。この屋敷にも何度か来たことがあると言っていたが、何度来ても慣れないし落ち着かない、とも零していた。

「どうぞ、こちらへ」

通された部屋は応接間なのだろう、大きな木の座卓と分厚い座布団が置かれている。床の間に飾られた日本画には赤い水に浸かるタツノオトシゴにも似た何かが描かれていた。



* * *



手洗い場へ行った帰り、真っ直ぐ応接間へ戻るのもつまらないと屋敷内をふらふらと歩いていた大和は、ふと誰かに呼ばれたような気がして振り返った。
目の前には重たそうな観音開きの戸。鍵穴があるし開かないかもしれないと思いながらも取手を握り、ぐ、と押せば、思いがけず戸は開いた。鬱蒼と緑が茂る中を長い渡り廊下が続き、離れへ通じている。

「(なんだ……?)」

廊下の向こう、離れの扉には頑丈そうな大きな錠前が付けられていた。まるで蔵にでも付けるようなソレに、大和は愉快そうに片眉を吊り上げる。たかだか離れにそんな厳ついものつけるなんて、そこに何かを隠していると大きな声で言っているようなものだ。
そうして「お待ちください」と些か慌てたような声が大和の背にかかったのは、渡り廊下の半ばまで来た時だった。

「どちらへ行かれるのですか」
「ああ、すいません、迷ってしまって」
「……そうでしたか、申し訳ありません。応接間はこちらになります」

どうぞ、と先導されてしまえばどうしようもない。離れの周囲をさっと見回し、大和は先を歩く使用人の後を追いかけた。
2017.09.17