宮田司郎 宮田医院 / 診察室
2003年7月5日 / 18時43分48秒
宮田が牧野から、申し訳ないが緊急で診てもらいたい人がいると言われたのは、その日の診療を終え、カルテや資料の整理をしていたときだった。牧野からそのような連絡を受けるのは初めてのことで何事かと思い、もしや重病者か重傷者かと考えた宮田は用意できるあらゆる物を用意し、彼らがやって来るのを待っていた。
しかし実際にやって来たのは重病者でも重傷者でもない、自力歩行も出来れば至って健康そうな成人男性であった。一つ驚いたことと言えば、それが村でまず見ることのないであろう異国の人間だったことだ。こんな辺境の地に一体何の用があったのか、まさか観光だとでもいうのだろうか。
何とも言えない顔をしていた宮田に、牧野はひどく申し訳なさそうな顔をして、あの、と話を切り出した。曰く、目の前であちこち興味深そうに見回している男は記憶を失っており、己の名前しか知らない。教会の長椅子に横たわっており、本人はどこから来たのかどうやってここに来たのか全く覚えていない……のだとか。
「工藤さん、お話を聞かせていただいても、」
パッとこちらを向いた男の、その鮮烈な瞳を見た瞬間、宮田の胸に去来したのは言い知れぬ懐かしさと焦がれるような熱であった。まだ会って数分と経っていない人間、ましてや男だ。だというのに愛おしさすら感じている。それが異常なことだと理解している。だが、当然だと思っている部分も宮田にはあった。
彼には、目の前の男が初対面の人間なんかではなく、何度も何度も出会い途方もない永い時間を共にしてきた何よりも大切な人のようにも思えてしまっているのだ。何の根拠もなければ証明できるものも何一つないというのに。
男も一瞬目を丸め、まじまじと宮田を見つめた。それから薄く柔らかな、春の芽吹きのような笑みを浮かべる。その時、見えない何かが二人を繋いでいた、ように牧野には感ぜられた。他人には到底理解できない、踏み込むことは出来ない、断ち切ることも出来ないような確かな繋がりが二人の間には存在している、そう思わせるものがあったのである。
「アンタの名前は?」
「宮田司郎です、好きに呼んでください」
笑みを浮かべたままの大和を眩しげに見る、宮田のその瞳の柔らかさに牧野はギョッとし息を詰まらせた。彼のこんな表情、生まれて此の方一度たりとも見たことがない。
それは単に牧野と宮田の両名がほとんどビジネス的な交流しかないだとか、人知れぬ溝があるだとかということではない。多少は含まれるだろうがそれを抜きにしても、この男のこんなにも“人間らしい”表情を知る人はそうそういないであろう、と牧野は驚きと幾ばくかの恐ろしさに鳴る心臓をそっと押さえた。
THE SEARCHER第二災 見知らぬ、土地
牧野慶 不入谷 / 牧野家
2003年7月5日 / 20時38分56秒
「大体こんな感じですかね……何かあればすぐに呼んでください」
「オーケー」
決して広くはない家の中を一通り説明し、随分と遅くなってしまったが夕飯を用意するために牧野は台所へ向かった。
病院で、記憶が戻るまでどうするかと話をしていたとき、牧野は勢いのままに自分が面倒を看ると言ってしまった。そこにあったのは宮田への対抗心とも嫉妬心とも言えない子供じみた感情だけだ。寄る辺の無い彼を憐れみ手を差し伸べたわけでは決してない。
自分のことだというのに何故そんな衝動的になってしまったのか、牧野にはよく分からなかった。ただ、あのまま行けばきっと彼は宮田のもとに身を寄せるだろうということは容易に想像ができ、それが途轍もないほど嫌だと思ったのだ。
一人きりになった空間で、牧野は腹のうちに澱んだものを吐き出すように深くため息をついた。ぐちゃぐちゃに絡まった思考を、頭を振ることで放り出す。全て忘れてしまおう。無かったことにするのだ。昔から忘れたふりや見ないふりが得意だった。そうして何も知らないふりをしていればいつの間にかそれが当たり前となって、自身にとって真実となる。大和を引き取ったのは、求導師としてそれが務めだと思ったから。それだけでいいじゃないか。分からないなら忘れてしまえばいい。分からないことを無理に判明させる必要はないだろう。臭い物には蓋をして知らぬふりをし、進んで自ら物事を知ることはせず流れに身を任せる。それが今までで培われてきた牧野の生き方であった。
己のテーブルに作り置きしていたものやあり合わせで拵えた副菜を並べる。もう夜も遅いし、これくらいでいいだろう。大和を呼びに行こうと思っていると、トトト、と階段を下りる音がした。随分とタイミングが良い、匂いにでもつられたのだろうか。
「何も手伝わなくて悪いな、明日からは俺も手伝うから」
姿を現した大和が食卓テーブルの上を見ながら、申し訳なさそうに眉を下げる。
「あ、いえ、お気になさらないでください、よければ冷める前にどうぞ」
「ん、ありがとう、じゃあいただきます」
「どうぞ召し上がってください。……あ、工藤さん、明日、もし体調が悪くなければ神代……ええと村長さんのところに挨拶に行きませんか?」
「あー……しばらくいさせてもらうから挨拶したほうがいいよな?」
「そうですね、出来れば……」
「分かった、行く。何時頃?朝?」
「朝のほうがいいかもしれませんね。帰りに少し村も回ってみましょう、着替えとか必要なものを揃えておかないといけませんし、案内しますね」
「OK、頼むわ」
よろしく、と笑う大和に、柔らかいところをそっと撫でられているようなこそばゆさを感じ、短い返事をして牧野は目を逸らした。黙っていれば冷たく威圧的にすら見えるのに、笑うと途端に子供のような無邪気さが見える。それがじんわりと胸に熱を与えてくるのだ。
こんな状態でこれから自分は大丈夫なのだろうか?何とも言えない不安を感じながら、牧野は少しばかり脈拍の早い胸を落ち着かせるように撫でた。
??? ? / ?
2003年7月6日 / 0時51分22秒
不思議な夢を見た。生温い雨の降りしきる中、誰かの背中を追いかけている。走るその人を見失わないように必死に走って、時折乱れる視界に映る誰かの手や景色を伝えていた。突然立ち止まったその人が振り返る。その顔は霞が掛かったように見えないけれど、その口元は笑っていた。その笑みに何故かゾッとして、飛び起きる。
全力疾走でもした後のように息は乱れ、じっとりと汗をかいていた。
2017.08.26 | 改訂