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工藤大和 都内某所 / 志田探偵事務所内
2005年7月5日 / 13時23分48秒

今日は朝からずっと雨が降っていた。柔らかい革張りの回転椅子に深く腰掛け、窓の外に広がるどんよりと重く垂れ込む黒い雲を眺めながら工藤大和は淹れたばかりの熱い紅茶を一口飲み込んだ。

ここ、志田探偵事務所はもともと大和の叔父にあたる男のものであった。叔父は国内外問わずいくつもの難事件を解決した優秀な探偵として世に知られていたのだが、十九年前、夜見島周辺で行方が分からなくなった貨客船のブライトウィン号に乗船しており、そのまま現在まで船共々行方知れずとなっている。
大和は将来自分も叔父のようになりたいと願うほど男のことを心底尊敬していた。否、現在もしている。その敬愛する叔父の失踪から一年、失踪宣告が成立し行われた葬式で当時九歳であった大和は、きっと何処かにいるであろう叔父を必ず見つけ出すと心に誓い、叔父の背を追うように探偵への道を突き進んでいった。
そうして彼もまた叔父同様国内外問わず有名な探偵へと成長し、つい数年前、叔父の事務所を継いだのである。叔父が見つけるまで預かる、という名目で。
カップにまた口を付けながら、大和は何度も読み返しもうすっかり覚えてしまったブライトウィン号消失事件の資料をまた反芻していた。この事件は探偵として駆け出した時からずっと追っているものの、解決の糸口は何ひとつ見えてこない。二十九年前に起こったという夜見島全島民の失踪事件も何か関係があると思うのだが、如何せん資料が少な過ぎ、謎が多過ぎるのだ。
それに加え、事件の資料を読むと必ずと言っていい程嫌な感覚を覚えるのだ。底の見えない穴を見つめているような薄ら寒さと、泥濘に素足で踏み込むような不快感。それらがひっそりと触れてきては、己の中に何か妙で厭なものを溜めていくのだ。
それを感じる度、自身の第六感がこの事件には関わらない方が良いと告げてくる。関わればただでは済まない、と。けれどその第六感が働けば働く程、反対に大和はそれに引き寄せられていく。危険だと分かっていても近寄らざるを得ない。何かが大和を引き寄せているのだ、呼んでいると言っても良い。気が付けば巻き込まれ、そのつもりはなくとも渦中にいるのである。

背凭れに頭をあずけて己の中の泥でも吐き出すような重い溜め息をついたとき、不意に事務所のドアを叩く音が聞こえてきた。扉に嵌め込まれた型板ガラスの向こう、黒いコートのような形の服を来た誰かが立っている。
こんな酷い天気の日に来る訪問者に碌なやつはいない。資料を読んだときに覚えるものに似たどろりとした空気が、そのドアの向こうからは漂ってきていた。

INVISIBLE ATTACK第一災 嵐、襲来


牧野慶 刈割 / 不入谷教会
2003年7月5日 / 17時08分52秒

さよなら求導師様、と手を振る子供たちに牧野も手を振り返し、柔らかな微笑みを湛えてどんどん小さくなる背を見送る。子供たちの遠ざかっていく元気な笑い声を聞いていると、少し寂しい気持ちになるのはいつも変わらない。
牧野はほうっと一つ息を吐いて、残っている仕事を熟すために再び教会へと戻る。年季の入った扉を開け祭壇へ向かった牧野の視界の端に何かが映った。

「え、」

通り過ぎようとした足を止め反射的にそちらを見た牧野は、長椅子にくたりと倒れている誰かにぎょっと目を見開いた。つい先程、子供たちと教会内にいたときには見なかったその人間にばくばくと心臓が嫌な音を立てる。
いつの間にここに入ったのか、一体誰なのか、具合でも悪いのか、色々な疑問が一気に脳内をめぐり、一種のパニックを引き起こし、牧野は助けて八尾さん!と思わず叫んでしまいたくなった。だが悲しいことに八尾は下粗戸の老夫婦の家へ行ったきりまだ戻ってきていない。
固まってしまったようにその場に佇んだまま、牧野は横たわるそれをそろそろと観察した。結構背丈のある、体格の良さそうな男だ。長めの前髪で目元はよく窺えないが、青めいた肌や高い鼻が日本人離れして見える。黒いスラックスにワイシャツ、ピカピカした革靴はなんだか高価そうで、都会の匂いがしていた。この村ではよく村外に足を運ぶ医者しかしない格好である。男は、村に居れば滅多に見ないような人種に思えた。
本当に一体どこから入って来たのだろう。教会がある丘へ向かう道はいくつもあるが、教会に入るには正面の扉しかない。そしてその前には牧野がいた。まるで突然現れたような男に、牧野はもしや人間ではないのでは?という疑念すら抱いてしまう。
起こすべきなのだろうか、誰か呼ぶべきなのだろうか、どうしよう、とぐるぐる牧野が考え込んでいると、んん、と小さく男が呻いた。ぴくりと投げ出されていた腕が震え、指が動く。動きも思考も止めた牧野の目の前で、男は身動ぎし、ゆっくりと起き上がった。小さな唸り声を零しながら僅かに目元にかかった前髪を乱雑にかき上げ、目を開ける。
異国の美しい海を思わせる青緑。その瞳の鮮麗さに、一瞬牧野は息を呑んだ。同時に何故か懐かしさに似たものを感じている。
ゆったりと瞬き、まだ夢現の眼差しでぐるりと教会内を見回した男は牧野で視線を止めた。たっぷり三秒ほど見つめ合い、男はぎょっとしたように目を見開く。それに驚き牧野も目を剥いた。それは何とも珍妙な光景であった。

「あー……ここ、どこ?」

ここ、と地面を指差し、男は流暢な発音で日本語を話した。その顔は戸惑いの色が濃い。

「え、と……ここは教会です、羽生蛇という村の」
「はにゅうだ……ハニューダ……?」
「ええ、そしてここは刈割という地区にある不入谷教会になります」

カルワリ?イラズタニ?とぎこちないイントネーションで呟く男は、まるでここがどこだか分からないようであった。あなた、何を言っているの?という目をされても、そんな目をしたいのはこちらの方である。
牧野は怖々と「貴方はどうやってここに?」と尋ねた。男はその問いにきょとんと目を丸め、首を傾げる。成人男性がやるには少々無垢すぎる、子供のようなその仕草に胸がざわつき、底からじんわりと温められているような熱さもまた感じる。
何故見覚えがあるような気がしているのだろう。何故こんなにも懐かしさを感じているのだろう?
再度ぐるりと教会内を見回しながら「起きたらここにいた」と言った男は、名を工藤大和と言った。外見からは想像も出来ない日本人名に瞬いた牧野に、慣れた様子で大和は自分がハーフであることも告げた。その為日本語も理解でき話せることも。

「つまり、工藤さんはここに来た記憶は無いと……?」
「そうなるな。起きたらここで、目の前にアンタがいた」

これは俗にいう記憶喪失というものになるのでは?と慌てる牧野を、大和は心底愉快そうに眺めていた。



* * *


??? ? / ?
2003年7月5日 / 3時07分26秒

奇妙な夢を見た。雨の降りしきる朽ちた村内を誰かと歩いている。その誰かは時折手を引いて歩いてくれていて、多分、笑っていた。それに笑みを返し、名前を呼ぼうとして目が覚めたのだ。今自分は一体、誰の名を呼ぼうとしていたのだろう。
見つめた手のひらに、誰かの手のひらの熱さがまだ、残っているような気がした。
2017.07.30 | 改訂