何度来ても此処の紫陽花は初めて見た時と同じ美しさでもって心を奪っていく。此処の本丸の担当についてもう一年経つというのに、男は毎度お約束のように紫陽花に見惚れ時間を忘れてしまうのだ。いつもなら数刻もせずにこの本丸の主である審神者か、彼が有する唯一の刀剣であるへし切長谷部が男に声をかける。だが今日に限ってその気配は無く、男がはたと正気に戻った時にはとうに三十分は過ぎてしまっていた。「ああ、マズい!」この後にも仕事は詰まっている。あまりのんびりとしていられないというのにやってしまった、と男は慌てて母屋へ向かい戸を叩いた。だが一向に返事は無く、声を駆けてみるが何の音も返ってきやしない。どこかへ出掛けているのかと思いもしたが、今日男がここへやって来ることを審神者は承知している。まさかと焦りを抱きながら男は戸に手を掛けたが錠が下ろされ動かない。愈々男の不安は強くなり、縁側か裏口から中の様子が分からないかと庭の方へと向かったが、数歩と行かぬうちにその足は止まった。庭の奥に隠れるようにひっそりとある蔵、そこから漂う何かが男の動きを止めたのだ。麗らかな昼下がり、雲一つない晴天だというのに、何故かそこだけ暗雲立ち込めたような空気が漂っている。薄暗く、薄ら寒い。男はふらふらと引き寄せられるように蔵へと近寄って行った。何か聞こえる。蔵の中からだ。それは啜り泣く声にも、苦し気に呻く声にも、ぶつぶつと恨み言を囁く声にも思える。この声をどこかで聞いたことがある、そう感じた途端全身から汗が吹き出し一目散に逃げ出したくなった。だが足は縫い留められたように動かない。それどころか、男の意思に反して手が勝手に蔵の戸へと伸ばされていくではないか。そうして把手にその手が触れた時、「開けるな」静かな、けれど底知れぬ強制力を持った声が男の体から力を奪っていった。ぐ、と強く腕を引かれ、半ば引き摺られるように蔵から離され母屋へと連れられて行く。蔵から離れられたことに安堵しながらも、男は恐ろしい疑問を抱いていた。あの蔵には一体、何がいるのだ。
こっちを見ろ
rewrite:2022.05.09