※元ブラ本設定


ゆっくりゆっくり、雪が降り積もるように静かに、彼の中で何かが死んでいくことには気が付いていた。このまま放っておけばきっとそこは息絶え、腐敗し、崩れ落ち、後にはただただ血腥い痕が残るだけで空っぽになるのだろう。
そう分かっていて、僕は何もしなかった。彼が物言いたげな眼差しを向けても知らぬふりをして、言葉を掛けてきても聞こえぬふりをして、彼が肩や腕を叩いても気付かぬふりをして。
彼が悪いわけではないのは分かっている。ただ彼はあの人と同じ“審神者”で、いつかあの人と同じことを僕らにするかもしれない。そう思えば、どうしても親しみを持って接そうとか、優しくしようなんて言う気持ちは消えてしまうのだ。
僕だけじゃない。
ここに居る皆が、そう思っている。彼はきっとあの人とは違う。霊力もあの人なんかと比べ物にならないほど澄みわたり、清らかで、ひやりとしているのにじんわりとあたたかい。一生懸命僕らと話をしようと心を砕いて、一生懸命自分の出来ることをしようとしている。
でも僕らは、彼が信用できなかった。

かつては多くの刀剣が住まい、賑やかだったここは、いつしか主が価値の高い刀を求めることに狂いだしてから変わってしまった。僕らを顕現した主は、最初は一生懸命僕たちに尽くしてくれて、僕らと力を合わせて戦い、時には全力で遊んでくれるようなとても良い人で、審神者としても優秀な人だった。
それが、新刀剣が発見されるたび少しずつ少しずつ歪んでいったのだ。
あれが欲しい、あれも欲しい、これが見つからない、なんで、どうして、見つけられないお前たちが悪い、連れて来れないお前らが悪い!
詰られ、嬲られ、折れていく仲間たち。まさしく地獄だ。春の陽気のようにあたたかで仄かに甘い香りがしていた霊力は、いつからか澱み、濁り、どろどろとした甘ったるい腐敗臭を放つようになっていた。
その頃には、ここに暮らす刀剣の数も随分と減っていた。大太刀や僕ら太刀みたいな折れにくいものはそれなりに残っていたけれど、打刀や短刀の子たちはどんどん消えていくのだ。戦場から帰ってこない、主に折檻と称した暴力でもって折られる、そういう風にどんどん数を減らしていく。
そうして全てが終わった頃、打刀は初期刀だった山姥切君を含めてたったの五振りだけ。短刀なんて今剣君と薬研君の二振りしかいないし、脇差に至っては堀川君しかいない。皆折れていってしまった。
もう審神者なんぞいらない、刀解してくれ、と言った僕たちに政府の連中は首を振った。ここには経験を積んだ練度の高い刀剣が多く、また価値の高い刀剣もいるため潰すことは出来ない。そう言ったのだ。彼らは僕らに、まだここで審神者に、人間に尽くせというのだ。
その時、きっと最後の紐が切れたのだろう。
皆それまでは辛く苦しいながらも明るく振る舞ったり、人間たちに友好的に接そうとしていた。けれどその瞬間から、僕たちの中にあった何かが壊れてしまったのだろう。途方無い憎悪や、凶悪なまでの殺意が腹の内をぐるぐるぐるぐる駆け巡り、煮え立ち始めていた。
彼ら人間は、僕らの敵になったのだ。

「ねえ、あの子、鍛刀部屋に行ったんだけど……!」

加州君と大和守君が慌てたように広間へ入って来た時、僕はどこかでこうなるんだろうと思っていたのかもしれない。
彼がここに来て、もうすぐ一年経つ。
本丸内は昔のようにとても美しくなったし、庭や畑だって綺麗に整えられ実り豊かだ。漂う空気も清廉で、晴れ渡る青空のような爽やかさすらあった。何もかも夢だったのではないかと思わせるほど、今のここはかつての地獄の如き様相を呈していた本丸とは違う。
けれど僕らの心はあの瞬間からほとんど変わっていない。変われないでいる。
誰も彼に話しかけなければ、誰も彼の話を聞かず、誰も彼を見ない。まるで無いもののような扱いだ。時折刀を向けたり、切り掛かる者もいるようだし、ここに彼の味方をするような者は一人としていなかった。
僕は、彼がいつだって寂し気に瞳を揺らせていたことを知っていた。悲しそうに眉を下げていたことも、誰かを、自分の傍にいてくれる誰かを求めていたことも知っていた。

「資材室のカギは閉めてたはずだろ!誰が開けた!」
「開けてない!疑ってんのかよ!?」
「ねえちょっと、」

落ち着いて、と言おうとした途端、鍛刀部屋のある方角からとても強い霊力を感じた。どれだけの想いで祈っているのか、彼の願いは降ろされ顕現した身である僕らにも聞こえてくる。
一緒に戦ってくれて、一緒にご飯を食べてくれて、一緒に話をして笑ってくれて、味方になってくれる神様が来てくれますように。
断片的だけれど、確かに僕にはそう聞こえた。彼はずっとずっと自分とともにいてくれる者を求め、望んでいた。
彼の声がみんなにも聞こえたのだろう。あれだけ騒がしかった広間は、耳が痛くなるほどの静寂に満ちている。誰もが押し黙る中、遠くの方で彼の声が聞こえた。歓喜に満ちた声で、長谷部、と言っている。


* * *


本丸の、一番奥。そこに彼の部屋とも言えないような部屋がある。粗末な文机に、薄い布団、刀傷の幾つか付いた小さな箪笥。それだけを与え、僕らは彼をそこへ押し込んだ。
そこの周りの部屋は物置だらけで、誰も近寄らない、埃っぽくて湿っぽい嫌な空気の漂う場所だった。いつもシンと静かで、ひんやりとしている。縁側に面した障子を開ければじめじめとして見ているだけで憂鬱になってしまいそうな裏庭があるだけで、何もない。
そんな場所に、僕らは彼を押し込んだ。彼は文句ひとつ言わず、黙って従った。

「長谷部~!これ見て!」

裏庭の方から、随分と元気の良い声が聞こえてくる。きゃらきゃらと楽し気に笑う声も聞こえ、じんわりと胸のあたりが重たいような気分になった。
長谷部君が来てから、彼は見違えるほど生き生きとし、毎日楽しそうにしている。前までの、本丸と戦場を行き来するだけの時の彼はいつだって冷淡な顔をして、触れれば切れてしまいそうな殺気立ち張り詰めた空気を纏っていた。けれど今は年相応に笑い、穏やかで柔らかな気を纏っている時すらある。
その違いを目にする度、僕は、僕らは得も言われぬ気持ちになるのだ。重苦しいような、寂しいような、憎たらしいような、でもどこか嬉しいような、そんな。
時折、加州君や今剣君が彼の傍に行きたそうな、話しかけたそうな顔をする。けれど今までのことを思えば容易に近寄ることは出来ない。加えて、そういう時、いつも彼の傍にいる長谷部君が酷く冷たい眼差しを投げ掛けてくるのだ。
お前たちは自分の行いを忘れたのか?
そう、言いたげな目だ。
彼と長谷部君が一緒に居れば居るほど、僕たちとはどんどん離れていくようだった。同じ場所に住んでいるのに、まるで世界が違うみたいに空気も違って、流れる時間も違うのだ。

「燭台切、ここを使ってもいいか」

彼の楽しそうな笑い声を聞いた後、なんだか何もしたくなくて、どこにも行きたくなくて、台所で温いお茶を啜っていれば背後から少しつっけんどんで冷たい声が掛かった。振り返れば、まだ少し泥のついた野菜がいくつか入った籠を手にした長谷部君と、背後からぴょこんと顔を出している彼がいる。
長谷部君が手にしている野菜は僕らの畑で採れるものよりも小振りではあるが、とても瑞々しく美味しそうだった。きっと彼が手ずから育てたのだろう、あの、かつては鬱蒼としていた裏庭で。
今はそこに美しい花壇と、小さな畑があることを僕は知っている。清らかな空気が濃くなる場所に惹かれて、ふらりと入ってしまったことがあるのだ。日を受けて淡く光る花々が揺れる様は美しく、仄かに甘い花の香りがまだざらついている僕の内を柔く撫でてくれた。

「あ、うん、どうぞ、もう部屋に戻るから」

ちらりと時計を見れば、午後二時過ぎをさしていた。その時間は、彼らが食事をとる時間だ。
僕らの食事時間よりも一時間か二時間ほど遅く、僕らが食事を終え部屋に戻った頃に、彼らは食事を取るのだ。台所の狭い卓で、少し窮屈そうにくっついて。
僕らは一度だって口にはせず捨ててしまった彼の手料理を、長谷部君がすごく美味しそうに食べているのをちらりと通りすがりざまに見たことがある。にこにこ笑って美味しいと言う長谷部君に、彼も至極嬉しそうな顔でふわふわ笑っていた。
それはきっと、もう二度と僕らに向けられることの無いものなのかもしれなくて、僕はそれがとても悲しく寂しいことだと今更ながら後悔するのだ。

どうしようもなく日が暮れる

2018.04.22 | 本丸には石切丸、次郎太刀、小狐丸、燭台切、三日月、鶴丸、山伏、鶯丸、山姥切、加州、大和守、鳴狐、歌仙、堀川、今剣、薬研の十六振りのみ。槍と薙刀は折れ、ここにはいません。