「おやすみ、」
「おはよう、」
「今度は何の本を読んでるんだ、」
「明日の部活は来るのか、」
「、」
「 、」
「 、」
名前を呼ぼうとして、分からず、冷水を掛けられたようにハッと意識がはっきりとして現状を理解するのだ。そうして今自分が何かとても恐ろしいことに飲み込まれつつあることを感じていれば、目の前の真紅の瞳が柔く歪んでずるずると意識が沈んでいく。
赤司征十郎はその繰り返しを延々と続けていた。
そして恐ろしいことに、それが繰り返されるごとに少しずつ少しずつ、自身でさえ知らない場所に刻まれているその名前が蘇っていくような感覚があるのだ。ふ、とした拍子に、極々自然に、その名前が出てこようとする。けれどその一歩手前で何かが引っかかり、はたと目が覚めるのだ。
自分と同じ、だがずっと鮮烈な燃ゆる瞳がじいっと奥深くを覗くような色を見せるようになった頃、赤司は目の前の人物の名前を呼んだが最期、決して元には戻れないと理解した。絶対に呼んではいけない。思い出しては、見つけてはいけない。
「もう一度やろう」
「ゆっくりでいいよ」
「時間は沢山あるから」
「ほら呼んでみて征十郎」
「俺の可愛い可愛い征十郎」
首元に何かが纏わりつく感覚に、赤司は飛び起きた。辺りは真っ暗で、少し離れた場所にぽつんと置かれた二脚の椅子と一つの丸机がぼんやりと浮かぶように明るく見える。
今度は何処だ、ここは何処で、今は何時で、あれからどれくらい経っているのだ。
疲弊した心でぼんやりとそう思いながら瞬きをひとつしたその一瞬で、椅子の上に誰かが現れていた。丸机に頬杖をつくその横顔は自分と瓜二つだ。あのよく似た顔ではない、自分そのままの、全く同じ顔が椅子に座り退屈そうに頬杖をついている。
「(これは夢なのだろうか)」
ぼうっと自分の横顔を見つめ、赤司は緩慢に瞬きを繰り返す。どれくらいそうしていたのか、椅子に座ったその人がうんざりだと云わんばかりの大きな溜め息を吐いて、こちらを向いた。
じっとりと睨めつけるその眼差しは酷く苛立っているか、甚く不機嫌な時の自分のものだ。そんな顔をした自分が「起きてるならさっさとここに座れ」と苛立ちを隠しもしない高圧的な物言いをしながら、向かいの椅子を顎でしゃくってくる。
「……今度は誰だ」
掠れた声は小さかったけれど相手には届いたのだろう。きゅ、と片眉だけ上げて揶揄うような薄い笑みが唇に乗った。
その顔は赤司が今一番会いたい人物である工藤大和がたまに見せるものとよく似ていて、椅子を引く手が動きを止める。一度そう思うと、目の前の存在の端々に大和の匂いを感じ取ってしまう。自分が強者であり捕食する側であり支配する側であると確信している瞳、威圧的な空気、不遜な態度。相手が見せるそのどれもがあの男によく似た色をもって目の前にある。
「分かっているんじゃないのか?」
「……」
「僕はお前自身だよ。お前自身であり、工藤大和の一部でもある」
「……大和の一部?」
「お前を盗られないようにするために掛けられた保険さ。全く、お前の精神の弱さにはうんざりするな。だからいつまで経ってもお前は喰われる側なんだ、敗者め」
「ならお前も敗者だな」
「一緒にするな。僕はお前だがお前は僕じゃない。さっきも言っただろう、僕は大和の一部で胤だ」
「タネ?なんだそれは」
「コピーのようなものさ。一部分のコピー。だから僕はお前でもあり大和でもあるんだ」
「……」
「準備が整ったから、もうすぐ僕を媒介して大和が“此処”に来る」
「……えっ」
「お前と話に来たのはそれを伝えるためだ」
「“此処”って、一体何処に。この場?それともあの、俺によく似た男のいる、」
「そんなものただの扉である僕が知る訳ないだろう。ただ大和に会いたかったら、助けてほしければ絶対にアレの名前を呼ぶな。呼んだら最期だ、その“御守り”をもってしてもどうなるか分からない」
御守り、と服の袖から覗く右手首に結ばれた角打ち紐を示される。そこではじめて、その紐の色が変化していることに気が付いた。
血のような不気味に黒ずむ赤い色をしていたそれが、鮮やかに艶めく赤色へと変わっている。
「色が……」
「馴染んできた証拠だろうな」
「馴染むって」
どうしてかその言葉にゾッと背筋が冷える。馴染む。馴染んでしまって良いモノなのだろうか。
―――彼はそんなに『良いモノ』ではない気がするんです
警告でもするように黒子が放ったいつかの言葉が蘇る。
「大和が来たらお前は“選択”を迫られるだろう」
―――選ばなくちゃいけない時は、俺のことを選んで
「お前の今後を決めるものだ、後悔しない方を選べ」
「……」
「僕が言えるのはここまでだ」
それだけ言うと、また瞬きの間に自分と同じ顔をした男は消えてしまった。残された赤司は半ば呆然とした顔で、腕に巻き付く赤い紐をただ見つめていた。
* * *
誰かの気配を感じて意識が浮上する。肩に誰かの手が触れ、優しく揺すぶられる。
「征十郎、起きて征十郎」
優しく甘やかす柔らかな呼び声に背を向けるように体を丸め、毛布へと潜り込む。
まだもう少し眠っていたい。どうしてか酷く疲れているのだ。しっかり睡眠をとったはずなのに夜通し起きていたような倦怠感と疲労がある。
「征十郎、今日は映画観に行くって言ってただろ、早く起きて、征十郎」
ゆらゆら、ゆらゆら、毛布越しに何度か体を揺らしてきたその手が、「もうっ」と少し怒ったような声と共に毛布を掴み勢いよく剥ぎ取っていく。
朝の少しひんやりとした空気にさらされ赤司はやっと目を開けた。
「出掛けるって言ってたのに、昨日夜更かしでもしたの?」
「……してない」
「随分眠そうだけど」
「……うん」
「……起きてる?」
「……起きてるよ、おはよう、」
覗き込んでくる自分よりも鮮やかで美しい赤い瞳。でも俺はこれよりも艶やかな赤色を知っている。無意識に触れた右手の服の袖、その向こうに感じた硬い感触に赤司はハッと目を見開いた。
目の前の男の名前が喉元まで出掛かっていた。それをごくりと飲み下して逃げるように後退る。
「征、誰から何を貰ったの?」
「……」
「少し前からしてたけど、ここのところ臭いがどんどん強くなってる。すごく鼻につく、厭な臭いだ……何だろうな、血みたいな臭いもするし腐った臭いもするし、ねえ、征、何を貰ったんだい?」
「……」
「怒ってないからそんな怯えなくたっていい、征十郎、大丈夫、言ってごらん」
ひゅ、ひゅ、と喉から歪に漏れる空気が引き攣った音をたてている。じいっとこちらを探るように見つめる瞳から目を逸らせない。
「ほら、何を貰ったんだ?誰に、何を植え付けられた」
ふ、と鼻先を臭いが掠めていく。噎せる様な濃い鉄錆の臭いと、それに混じる妙に甘い臭い。胸の悪くなるようなそれが周囲に漂い出していた。顔を顰める赤司の前で似た顔の男も忌々し気に顔を歪めている。
ガシャン、と何か陶器のような物が割れる音が部屋の外、遠くの方から聞こえ、それと同時に神社の本坪鈴が鳴らされているような軽やかな金属音が狂ったように響いてきた。あの山奥の神社で聞いたものと似た、侵入者を拒むような音に赤司は目を見開いて扉を見つめる。
鈴の音の合間に誰かの足音が聞こえてきた。何かが折れる音が幾つも鳴り、禍々しく底冷えのする不穏な気配が漂ってくる。それはどんどん近付いて、とうとう部屋の前、扉の目の前まで来た。
赤司はいつかの夜を思い出した。あの時もこんな、何か恐ろしい空気が扉の向こうにあって、そうしてはいって来たのは大和だ。
「大和……?」
だからその時赤司がその名前を呼んだことには、きっと深い意味は無かった。あの夜と同じように感じて、あの夜と同じようにその名前を呼んだだけ。
ハ、と同じように扉の方を見ていた似た顔の男が振り返り赤司を見た。愕然としたような、恐れるような、泣いてしまいそうな、奇妙に歪んだ顔で赤司を見て「どうして」と呟く。
「どうして呼んだんだ、駄目なのに、ああ、征十郎、駄目だ、お前が壊れてしまう」
はらはらと赤い瞳から涙が落ちた。
「やっと見つけたのに、やっと会えたのに」
扉が勢いよく開く。そして噎せ返る様な血の匂いと吐き気のする甘い腐敗臭と共に、その男は部屋の中へと這入って来た。
「さあ迎えに来たぜ、征十郎」
楽園の収束地点
2021.09.06