04

自分とよく似た顔が頽れさめざめと泣きながら「どうして、なんで、」と繰り返し、縋り付くように手を伸ばしてくる。だがその手が赤司征十郎へ触れることはなかった。
触れる寸前、それ眺めていた男が大きく一歩踏み出し何かを踏みつける仕草をしたのだ。その途端、赤司へ近寄ろうとしていたその体は縫い留められたように動きを止めた。

「おい、持ち主に断りもなく触れるなんざ随分と礼儀知らずな鬼がいたもんだなァ」

ぐ、と男が足に力を入れれば、それに呼応するように鬼と呼ばれた赤司とよく似た顔の男の顔が苦痛に歪む。
一体何を踏んでいるのか、と恐る恐る体をずらし見たがその足元には何もない。あるのはただ床だけだ。いや、床だけではなかった。男の影がそこにある。ベッドの横に座り込みこちらへ手を伸ばす、その影が。

「違う、まだお前のものなんかじゃない……!」
「足掻くねぇ、もうほとんど俺のものなのに」
「違う、違う!征十郎、お願いだ、貰ったモノを捨ててくれ、きっとまだ間に合う、お願い」

お願い、と何度も言うその口の端からどろりと黒い何かが零れ落ちる。それを皮切りにじわじわと男の姿が変貌していった。鮮やかで美しい赤い瞳、その白目が反転し黒く染まり口から覗く歯が鋭く尖っていく。そして最後にその額から二本の赤黒く奇妙に歪んだ角が伸びていった。
人間ではないと思っていた。だがこんな異形だとは思っていなかった。幽霊か、それに似た何かだと思っていたのだ。

「征十郎、俺の可愛い“弟”、ねえほら、名前を呼んで、」

人ならざるその目でじいっと赤司を見つめながら希う姿を、男は影を踏みつけたまま愉し気に眺めている。赤司はどこかぼんやりとしてきた頭で目の前の異形とその背後の男を見ていた。
どこか靄がかかっていくこの感覚を似たものを知っているような気がした。意識の端からとろとろと、眠りに落ちるように解けて滲んで境目が無くなっていく、怖ろしくも心地良い感覚。

「もう知っているだろう、俺の名前を呼んで、ねえ、征十郎」

俺が名前を呼ぶだけで、この人はいつも嬉しそうな顔をした。俺の声で呼ばれるのが一等好きだと、何か素敵なものをもらった子供みたいな無邪気で幸せそうな顔。俺はそれを見るのが好きで、だからよく、特に意味もなく呼ぶときもあった。
いつからか俺たちにとって名前を呼び合うことはとても大切で特別なこととなっていった。その名前に口にしてはいけない想いも何もかも、全て込めて、大切な宝物を渡すように俺たちは互いを呼んだ。

そ、と導かれるままに口を開いてずっと自分の中に眠っていたそれを吐き出そうとした瞬間、息が詰まった。何かに強く首を絞められている。突然の息苦しさに靄がかっていた意識がはっきりとし、赤司は顔を青褪めさせた。
今、何かが流れ込んできた。自分の中に知らない何かが流れ込み、飲み込もうとしてきた。
首を絞める何かを知ろうと指で触れた途端、幻のように息苦しさは霧散していく。急激に酸素を吸い込んでしまい激しく咽ながら、赤司は右の手首が熱く痛むのを感じていた。

「選べよ、征十郎」

黙って赤司と異形のやり取りを眺めていた男が、優しい声で言う。涙で滲んだ視界でもはっきりと分かるほど男は甘く笑んでいた。何もかもわかっている顔で、こちらを安心させるような強い瞳で。
いつの間にか扉の向こうは静かになっている。何の音も聞こえてこない。
赤と黒の異形の瞳は苦し気に歪んだまま、それでも縋るようにじっと見上げてくる。
痛いほどの静寂が一瞬、その場に満ちた。
―――彼はそんなに『良いモノ』ではない気がするんです
いつだってその言葉が蘇ってくる。何も考えず何も疑わずに選べればどれだけ良いだろうか。
どちらを選ぶのが正しいのか分からない。どちらを選んでも『良い』方に向かう気がしないのはどうしてなのだろう。黒子テツヤの言葉がずっと引っかかっている。底冷えのする不吉で不穏な気配をよく感じていた。悍ましい悪夢そのものの笑みも覚えている。底なし沼の瞳の奥で蠢く得体の知れない何かは、きっとまだそこにいるのだ。

―――選ばなくちゃいけない時は、俺のことを選んで

「ほら」

男の背後で何かの影が揺らめく。
ぐるぐる堂々巡りする頭ではどちらかなんて選べない。だって、きっとどちらを選んでもその先にあるのは悪夢だ。
右手首の痛みも熱もどんどん増していく。そうして引き摺り込まれるように、赤司は男の名前を呼んだ。

「いい子だ、征十郎」

ずるりと何かが、黒々とした蠢く、


* * *


は、と何かに呼ばれるように目を開けた先にある見知らぬ天井に赤司は身を強張らせた。さ、と周囲に視線を巡らせ、そこがあの薄暗く気味の悪い和室ではないことを確かめると、そろそろと身を起こす。
それなりに広い和室に敷かれた布団の上に赤司はいた。床の間には瑞々しい花々が活けられ、障子からは柔らかな日が差し込み室内は明るい。あの妙な気味悪さがあった赤司の本家とは思えない穏やかな空気に、ここがどこだか分からないがきっと本家ではないと判断し赤司はゆっくりと体から力を抜いた。
と、足音が聞こえてくる。真っ直ぐこちらへ向かってくる足音、障子に影がうつった。

「あ、起きたな」

ひょい、と顔を覗かせたのは大和だった。

「……大和?」
「おー、体どうよ。痛いとことか無い?」
「無いが……ここはどこだ?」
「俺ん家」
「え、いつ……何で」
「お前のこと勝手に連れてこうとしたから連れ戻したんだよ」

布団の横に座り込んだ大和が緩い笑みを浮かべた。その瞳だけが冴え冴えと異様に輝いて見える。恐ろしいことが起こる前触れのような冷たく不気味な煌めきにすうっと血の気が引いていった。

「お前のパパは自分の家に何がいるのかは知らなかったみたいだけど、“ナニカ”がいるのには気付いてたみたいだな。それが自分の家に富と名声を齎しているんだろうことも、それが無償ではないってことも。お前の勘の良さはパパに似たんかなぁ」
「……俺が何で呼ばれたのか知ってるのか」

その赤司の問いに「生贄」とただ一言、なんてことない声で大和は答えた。

「話する前に片しちゃったから詳しくは知んねーけど、初代当主が鬼かなんかになったんだろ。で、そいつが可愛がってた“弟”に似た奴を生贄に渡せばその生贄が死ぬまでは一家は繁栄するって感じ」
「弟……」

そういえば、自分とよく似た顔の男に会ったような気がする。嬉しそうに笑って『おかえり』と言われて、そうだ、名前―――

「お前が選んだのは俺だよ、征十郎」

ぼうっと思考に沈みそうになった赤司を引き戻すように布団の上に放り出していた手首を掴まれる。そこではたと気が付いた。袖から覗く腕、右手首にもうすっかり見慣れていた組紐が無い。
解けるような結び方をしていなかったし、切れてしまうほど細くも古くもなかった。本家へ赴いた時までは確かにそこに結ばれていて、お守りのようにしていたのに、今は何もない。大和が解いてしまったのだろうか、取らないようにと言っていたくせに。

大和、紐が無くなってるんだ」
「ああ、もう必要ないから」
「必要ない?」
「もうすっかり馴染んでるから、目印はいらないだろ」

馴染んでいる、その言葉をつい最近どこかで聞いた。馴染んできたからだろう言われて、何かとても恐ろしかった気がする。
けれどそれがいつ、誰に言われたものなのか全然思い出せない。けれどその霞み薄っすらとしか見えない記憶に確かに染みついている。紐、そうだ、赤黒かった組紐が鮮やかな赤に変色していた。それを馴染んできたからだと言われたのだ。

「赤くなっていた」
「へえ、覚えてんのか。そ、赤くなってたはずだぜ、お前の中に染み込んで境目がなくなってきたから」
「……なにが」
「初めて会ったときにした話、覚えてるか?お前の魂が欠けてるって話。無理矢理あの鏡から引っ張り出すときに削れたってやつ」
「ああ」
「人は削れると崩れやすくなるんだ。その崩れたところに色んなモンが這入り込む。もともと好かれやすい性質の人間が欠けるとどうなると思う?聞かれなくても分かるか、あっという間に色んなのが群がって引き摺り込まれるんだ。お前があんなに頻繁に色んなのに遭遇したのはその欠けのせい」
「……」
「で、お前が引き摺り込まれずに今こうして暢気に生きてられんのは俺のお陰な訳。俺がお前の欠けた部分を補完してたから、あいつらは纏わりつくだけでお前の中には這入れなかったんだ」

不意に大和からネクタイを借りた日ことを思い出した。
―――俺がもう、這入ってますよ、の証

「いつ……お前、俺に何をしたんだ」
「俺ってさぁ、一目惚れするタイプなんだよねぇ。そんで独占欲も支配欲も強いタイプ。自分のモンに手出されるのってもう絶対許せないから手間暇かけて組紐作って隙間隠したし、何かあったとき用の目印にしたし。そうそう手出されることも無いって思ってたけど、今回は流石に連れてかれるかと思って怖かった」

きゅうっと猫のように細められたその瞳、薄ら寒い影が蠢く目。

「保険も掛けてたけどそれが機能する確証は無かったし、機能してもお前は俺じゃなくてアレを選んだかもしれない。現にお前は何度も名前を呼ぼうとした。俺を“喚んだ”後も。でもお前は俺を選んだ」

鮮やかな瞳が爛々と輝く。それ自体が発光でもしているかの如く不吉に、不幸を、破滅を呼ぶように。

「征十郎、もうお前は俺のものだよ」

沼底の奥深くに潜み蠢いていたものが身を擡げ、じいっとこちらを見ている。辺りには噎せ返る様な血の臭いと吐き気のする甘い腐敗臭が漂いだしていた。

壊死の手触り

2021.12.20 | 赤司くん誕生日おめでとう!あと一話、エピローグで完結となります。