“圏外”。
逃げるように入ったトイレの中、握りしめたスマートフォンの画面右上に表示されるその二文字に、足から力が抜けそうになってよろめく。
山奥でも何でもない住宅街で、圏外になる、なんてそんなことがあるのか。トイレのドアに凭れ掛かり、赤司征十郎は呆然と端末の画面を見つめていた。
呼び鈴を押してすぐに現れた使用人だろう男に案内された一室は、六畳ほどの和室だった。窓が無く、部屋の四隅に置かれた行燈型の照明がぼんやりと室内を照らしている。中央にぽつりと置かれた小さな卓袱台と座布団以外、家具も何も無い。
その妙な部屋で待っているように、と男は告げると障子を閉め足早に去って行った。部屋の前の廊下もその近辺にも窓が無かったせいで障子から入る光は極々薄く、まだ昼間だというのに光源が部屋の四隅の行燈しかない室内は薄暗くてどことなく気味が悪い。
はやく帰りたい。ふかふかとした座布団に腰を下ろし溜息を吐きながら、赤司はまた服の上から右手首に触れる。そこにあることを確かめるようにきゅっと手首を握りしめた時、ふと視線を感じて顔を上げた。
目の前には漆喰塗りの壁しかない。
シン、と耳の痛くなるような静寂。何の物音も聞こえない。いくら広く立派とはいえ、人のいるはずの家屋内がこれほど静かなことなどあるのか。
すうっと血の気が引いて、じわじわ、ひたひた、怖ろしさが忍び寄ってくる。心拍数があがり、ジッとしていられない。
待てと言われたけれどいつまで待てば良いのだろう。腕時計をしてこなかったせいで時間が分からず、ポケットに仕舞い込んでいたスマートフォンを引っ張り出そうとした時、また視線を感じた。
誰かが自分を見ている。
こんな部屋にはいられない。赤司は勢いよく立ち上がり壊さんばかりの勢いで障子を開け和室の外へ飛び出した。
「如何なさいました」
乱れた息のまま廊下から薄暗い和室内を見ていた赤司の背後から男の声がかかった。一瞬息が詰まり、飛び退るように振り返ればこの部屋まで案内した男が立っている。
足音も何もしなかったのに、何時の間に来たのだろうか。ずっとこの近くにいたのか?何の気配も無く?
混乱と恐怖を抱えたまま、赤司は数度口を開閉し、「お手洗いを借りても良いですか」と掠れた声を吐き出した。
「ええ、どうぞ、ご案内いたします」
こちらです、と廊下を曲がった先にあった扉を指し示す男に礼を告げ、逃げるように中へと入った。
そして、冒頭へ戻る。
「圏外……圏外?」
嘘だろ、と零れ出た声は泣きそうに震えていた。立っていられず扉伝いにずるずると座り込み頭を抱える。もう一刻も早くこの家から出たい。そもそもどうして自分が呼ばれたのかも分からないし、あの妙な部屋も何なのか分からない。
来なければ良かった。父に何を言われようと、来るべきではなかった。嫌な予感がずっとしているのだ。ここにいてはいけない、そう自分の中の何かがチカチカと警告を発している。
―――俺の名前を呼んで、絶対に助けに行くから
優しく囁く声がふと蘇る。そうだ、呼べば彼はいつだって助けに来てくれた。どこでも、どんな時でも、呼べば、
「大丈夫ですか」
彼の名を呼ぼうと口を開いた時、それを遮るように扉がノックされた。驚きに息が詰まる。
「……大丈夫です、すいません。今、出ますので」
今や無用の長物と化してしまったスマートフォンをまたポケットへ押し込み、赤司は立ち上がり溜息を飲み込みながら手を洗い扉を開けた。
あまりにも青褪めた顔をしていたのだろう、男は「体調が優れないようでしたら遠慮なく仰ってください、横になれる部屋へご案内いたしますので」と言い、赤司はその言葉に何がどうなっても用件が済むまでは家に帰してくれないのだと確信した。
「いえ、大丈夫です」
横になれる場所があの部屋よりも良い場所であるという確証は無い。
そもそも、この家の中に“良い場所”なんて存在するのか?
そうして投獄される罪人のような気持で先程の部屋、座布団の上にまた腰を下ろした赤司はふと話し声が聞こえることに気が付いた。どの方角からかはいまいち分からない、けれど壁の向こうから複数人の話し声が微かに聞こえてくるのだ。低く潜められたそれは男女入り混じっている。
「今代は素晴らしい資質を持っているそうですね」
「ああ、ここ何代かの中では一番初代様に近いそうだ」
「これでようやく上様も安寧を得られるかもしれませんな」
「しかしどうにも厭な臭いがしないか」
「忌々しい臭いが」
「邪なモノがついてはいまいな」
「調べるか」
「しかし下手に触れるとこちらの匂いが付きますよ」
「匂いがつくと上様が嫌がる」
「なに、多少ならば上様が綺麗にしてしまうだろう、問題ないのではないか」
上様、初代、今代の資質、厭な臭い。どうにも嫌な想像ばかりさせるような意味深な会話だ。
赤司は青い顔のままジッと身動ぎせずに聞こえてくるひそひそとした会話に集中する。
「ならばすぐに準備しよう」
「今代はどうする」
「初代様のモノを使おう」
「それほどか?」
「それほどですよ」
「今代の“征十郎”は、初代様と瓜二つですから」
唐突に表れた自身の名に赤司は勢いよく立ち上がった。壁の向こうの人々に聞こえるかもしれないだとか、そんなことに気を配ってなどいられない。今すぐにここから、この家から出なければならない、でないときっと、取り返しのつかないことになる。
赤司は勢いよく障子を開け、玄関のある方へ走った。案内された道はしっかりと覚えている。来た道の逆を辿るだけだ、間違えるはずがない。
背後で次々に障子や襖の開く音がする。しかし呼び止めるような声も咎める声も何も聞こえてこない。けれどこちらをじいっと見る視線を感じる。
全てから逃げるように赤司は走った。けれど、いくら走れど玄関は見えてこない。もうとっくに着いているはずだ。角を曲がる回数も、どこで曲がるかも、何一つ間違えていない。だというのに、玄関は一向に見えてこず廊下と部屋ばかりが続く。
ああ、もう嫌だ。助けてくれ、大和、
「征十郎」
大和、と名を叫ぼうとした瞬間、また遮るように声がかかった。己の名を呼ぶ声に赤司の足が止まる。
「征十郎」
もう一度聞こえたその声に聞き覚えは無い。けれど何度も何度も、その声に名前を呼ばれたことがある。
柔く、甘やかすように、めいっぱい愛の込められたその声で呼ばれるのは自分だけだった。自分だけがその声で呼ばれていた。それが嬉しくて、けれどだんだんとその甘やかす温度がいやになったのだ。俺は隣に立っていたかった。庇護下に置かれるのでも、背を追いかけるのでもなく、隣に立ち同じ景色を見たかったのだ。その抱えたものを共有したかったのだ、ずっと、ずっと。
「“おかえり”、征十郎」
心底嬉しそうに、自分によく似た顔が笑っている。
* * *
「征十郎、起きて征十郎」
ゆらゆらと体を揺らされている。瞼の向こうはもう明るいけれど布団の中はほどよくあたたかく気持ちよくて、まだ起きたくなくて声に背を向けた。
「こら、征十郎、遅刻するよ!」
起きて、ともう一度、今度は強く揺らされしぶしぶ目を開ける。気を抜けばくっついてしまいそうになる目でこちらを覗き込む顔を見れば、ちょっとだけ怒ったような兄の顔があった。
「昨日夜更かしするからだよ。ほら起きて着替えて」
「……うん」
手を引かれされるがままに身を任せれば、もう、と言いながらも乱れた髪を直すように梳かれる。その目は優しく撓み、甘やかす色しかない。
「征、おはよう」
「おはよう、」
名前を呼ぼうとしたところで、一気に意識が覚醒した。知らない。この、目の前で甘く笑うほとんど自分と同じ顔をした男の名前が分からない。全く知らないのに、どうしてこの男が自分の双子の兄だと今思っていたのだ。
そもそもこの状況は何だ。俺は今、赤司の本家に呼ばれてそこにいるはずなのにどうして自室で、寝て、起きているんだ。
赤司が混乱と怖れを多分に含んだ眼差しで目の前の男を見上げれば、男は赤司と同じ、けれどそれよりも濃く鮮やかな血の瞳をゆるやかに細めた。
「もう一度だ、征十郎。思い出すまでやろうか」
急速に意識が深くへ沈んでいく。そうして沈み切る直前、右の手首が痛んだ気がした。
陽当たりのわるい夢
2021.07.25