肝試しに飛び入り参加することとなった工藤大和とかいう男は赤司征十郎の友人だと紹介された。その時が、河合と大和の初対面のはずで、同じ学校ですらないらしいその男と接点は全く無いはずだ。だのに、まるで自分のことを知っているような口振りで男は哂っていた。
「なんなんだよ、あいつ!気持ちわりぃコト言いやがって」
クソ、とぶつぶつ言いながら足早に山道を登った河合は、ふと背後に気配を感じて足を止めた。置いてきた赤司たちが追いかけて来たのか、と振り返ったが、そこには暗闇しかない。ぼんやりと懐中電灯に照らされた砂利道には、誰の影もない。すうっと体温が下がる様な心地がして、一瞬足がふらつく。
いや、気のせいだ。きっと、肝試しというこの状況のせいで、少し過敏になっているだけ。そうに違いない。河合は己を鼓舞するように「んだよ」と毒付いてわざとらしい笑い声をあげ、また山道を登るべく神社のあるらしい方向へ向き直した。
そしてその目の前に、先程までは無かったはずの鳥居を見る。
「あ……?」
すっかり色の落ち、半ば朽ちかけたようなその鳥居の先には雑草で崩れかけ自然に還りつつある石段が続いている。
こんな近くまで来ていたら、もう少し前から鳥居に気付いたはずだ。いや、見えていたけれど周りの木と混同してしまって気付いていなかったのかもしれない。暗いし、足元に気を付けていたし、きっとそうだ。別に何も、怖ろしいことは起こっていない。
さっさと行って、バトンを取って、きっと道中で恐怖のあまり動けずにいるであろう赤司を笑ってやるのだ。お前がビビってる間に取ってきてやったぜ、と言って。
「別に何にも怖くねーよ、こんなの」
はは、とまた笑って、河合は鳥居を潜った。
* * *
赤く大きな鳥居を前に赤司は足を止めた。こんな鬱蒼とした山の中にある神社で、肝試しにも使われてしまうような場所だ。もっとぼろぼろになっているかと思っていた鳥居は、赤司の想像よりもずっと綺麗なものだった。きっとこの先がバトンの置いてある神社なのだろうが、懐中電灯の明かりでは上へと続く石段までしか見えない。
ここまで河合と合流することは出来ていないから、きっと神社で待っているのだろう。さっさと上ってさっさと山を出よう。廃墟のような朽ちた場所を想像していたが、きちんと手入れされているのか石段も綺麗なもので、雑草も生えていない。なんとなく拍子抜けしながら、赤司は鳥居を潜った。
「なんだか、思っていたよりも綺麗だな」
そう言いながら隣を見るが、そこに大和の姿は無かった。
「大和?」
鳥居の前にでもいるのかと振り返って、赤司は息を呑んだ。つい今しがた潜ったはずの鳥居が消えている。懐中電灯の先は、鳥居の変わりにどこまで続いているのか分からない石段を照らしていた。まだ数歩しか石段を上っていない。鳥居が見えなくなるわけが無いのに。
すうっと鳩尾が冷え、背筋を汗が伝う。あちこち懐中電灯で照らしてみても、大和は何処にもいない。何度か大和の名前を呼んだが、返事は無い。ああ、また、何か恐ろしいことが起こっているのだ。
かくん、と膝から力が抜けてしまって、赤司は石段へ座り込んでしまった。と、石段についた右腕に結ばれた組紐が目に入る。御守り、といって結ばれたそれ。
―――お前が連れていかれないように、御守り
大和はそう言っていた。先程まではあんなに恐ろしかったそれが、今は自分を守ってくれる唯一のように感じて赤司は組紐の上から自身の右腕を握る。
きっと大丈夫、きっと、これがあるから大丈夫。
腕を握る左手の甲に額をつけ、ゆっくりと息を吐く。これからどうすればいいのだろう。上ればいいのか、下ってみればいいのか。どちらを選んでもその先に何が待ち受けているのかは全く分からない。夜が明けるまでここで待てばいいのだろうか。そもそも、ここは何処なのだろう。
「帰りたい……」
なんだってこんなところに来てしまったのだ。そもそも肝試しなどすべきではなかったのだ。交流を深めるためになど思わず虹村修造へ抗議すればよかった。夜の山は危険が伴うなど、それらしい言い分はたくさんあるのに、どうして自分は黙ってそれを受け入れ、こんなものに参加なんてしてしまったのだろう。
ぐるぐる後悔したところで現状は変わらない。大和も来ない。
「おーい、そんなとこで何やってんだよ!」
右腕を握り蹲るように身を縮めていた赤司の背に、聞き知った声が掛けられた。上の方、石段を上った先から聞こえてきたその声は望んでいた大和のものではなく、先に神社へ到着しているはずの河合のものである。
は、と顔をあげた赤司は石段の先を見上げた。河合がいるのか、ここに。自分一人しかいないと思っていたのに。
恐る恐る懐中電灯を持ち上げ照らせば、先の見えなかったはずの石段の終わりが見え、そこに河合が立っていた。向けられた懐中電灯に眩しそうにしながら「早く来い、おせーんだよ」と不機嫌そうに言う姿は赤司の知る河合そのものだ。
知っている人間に会えた安堵にほうっと息を吐いて、赤司は立ち上がり石段を上った。
「さっさとバトンとって帰ろうぜ」
石段を上りきり並び立った赤司へ河合は言いながら、さっさと奥へと進んでいく。
境内は山道とは違い鬱蒼と茂る木が無いためか、月明かりが届きぼんやりと明るい。その月明かりに照らされ暗闇に半ば沈んだ、拝殿と思われる建物がその先にあった。鳥居の大きさに比べると幾分小さくも思える拝殿の前には本坪鈴と賽銭箱があり、賽銭箱の上にある黒っぽいものが恐らくバトンの入った箱なのだろう。
拝殿へ続く石畳の参道を歩きながら、赤司はまた言い知れぬ怖れを抱き始めた。見知った人間に安心して石段を上ったけれど、前を歩くのは本当に河合なのだろうか。
もし本当に河合だったなら、大和がいないことに、赤司ひとりしかいないことに何か言及するのではないか?どうしてお前ひとりなんだ、とか、あいつはどうした、とか。聞いてくるのではないか?それに河合ならば自分を待たずにバトンを取っているのではないだろうか。わざわざ待って、共に取りに行くだろうか?考えれば考えるほど妙な点ばかりが浮上していく。
不意に、先月の出来事が脳裏を過った。
―――ほら、よくあるだろ?“もう朝になったわよ”って言われて開ければ夜だったとか
「おい、そんなとこで何やってんだよ」
参道の半ばで立ち止まってしまった赤司へ、拝殿前まで辿り着いた河合が振り返りそう言った。何も答えられずただ黙って震える赤司へ、河合はもう一度言った。
「おい、そんなとこで何やってんだよ」
一言一句、同じ言葉だ。同じ口調で、同じ言葉が吐き出されるのを聞いた瞬間、総毛立ち声なき悲鳴が零れる。
「早く来い、おせーんだよ」
河合がそう言った瞬間、その背後にある拝殿の格子戸が勢いよく開いた。真っ暗闇のその中に、赤司は確かに何かを見た。何かが、みっしりと詰まっているのを見たのだ。
だがそれがなんであるか理解する前に強く右腕が引かれ、石畳に背を叩きつけられる。かは、と衝撃で息を吐き痛みに身を縮まらせる赤司などお構いなしとばかりに、ぎちぎちと手首が千切れてしまいそうな勢いで右手首が締め付けられていった。そこに何があるのか、なんて見なくても分かりきっている。『御守り』だ。
左脇の方からじゃりり、と参道脇に敷き詰められた玉砂利の擦れる音がして、何かが境内へ這入って来た。何か、禍々しく、悍ましい、名状し難いモノの気配に赤司は身動ぎひとつできずにただ息を潜める。そちらを見やることなど出来ないけれど、それでも視界の端に映るそこは、月明かりがあるというのにただただ闇が広がるばかりだった。何も見えない、けれど、何かがそこにいてこちらを見ている。
ゆっくりと広がり、侵食してくるそれが、参道の石畳に触れた、その瞬間。拝殿前に吊り下げられていた本坪鈴がガランガランと狂ったように鳴りだし、鈴緒が嵐に吹き荒らされるようにあちこちに揺らされる。その音は這入って来ようとするものを咎め拒絶するような響きを持っているように聞こえた。
その音が恐ろしくて、這入ってくるモノが恐ろしくて、赤司は逃げるように目を閉じる。
「お前はさぁ、なんでそうすぐ引っかかっちゃうかね」
壊れてしまいそうな勢いで鳴る鈴の音が響く中で、その声はいやにはっきりと赤司に聞こえた。まるで、すぐ耳元で囁いているように。
「全然警戒しないであんなもの潜って、こうなってんのも結局のとこお前の不注意のせいだからな」
いつの間にか手首を締め付ける感覚は無くなっている。待ち望んでいた声に赤司は恐々と目を開ければ、石畳に寝転んだ自分を上から見下ろすようにして傍にしゃがみ込んだ大和の姿があった。
「大和……」
「馬鹿な子ほど可愛いっていうけど、お前はもうちょっと気ぃ付けようね」
そういって優しくあやすように目を細め、赤司の汗に濡れた額を撫でた。強張った体からゆっくりと余分な力が抜け、そうして気付く。
先程まで感じていたあの恐ろしい沼底の気配は失せ、変わりにしんしんと冷え込むような気配と腐敗臭じみたものが拝殿の方から漂ってきているのだ。あの、みっしりと詰まったものが揺らいで、そこから溢れ出ようとしている。身を起こそうとした赤司に、大和は「動くな」と一言告げ、そのまま真っ直ぐ拝殿へと向かっていった。
「だから山って厭なんだよな」
うんざりした声は、けれど僅かに笑みを含んでいた。
* * *
山から飛び出て来た人影に、それまで騒がしかった場が一瞬静まり返る。きっと駆けおりてきた際に何度か転んだのだろう、服のあちこちを土で汚し腕や足に擦り傷をつくったその人は、赤司たちと山へ入って行った河合であった。
懐中電灯を握りしめ、真っ青な顔でがたがた震える尋常ではない様子の河合に、チームメイトたちがどうした、と口々に声をかける。それにまともに返事を出来ない河合へ、部長の虹村が険しい顔で言った。
「おい、赤司と工藤はどうした」
その言葉にびくんと体を震わせた河合は「知らねえよぉ!」と叫び、そばにいたチームメイトを突き飛ばして合宿所の方へと走り去ってしまった。河合、とその名を呼んだが振り返らない。虹村は他のチームメイトに後を追いかけるよう指示を出す。
「なあ、ちょっとやべーんじゃねえの」
赤司の携帯へ電話をかける虹村を見ながら青峰は黒子たちを見た。
「ちょっとじゃなくヤバいのだよ」
「でもマトっちいるしなんとかなるんじゃないんスか……?」
「一緒にいればなんとかなるかもしれませんけど、はぐれたりなんてしてたらマズいですよ」
「一本道ではぐれるもんっスか?」
「普通ははぐれないだろうけど赤ちんだし、どこで引っ張られてくか分かんないよ」
「……妙にこえーこと言うなよ」
「俺、マトちんに掛けてみる」
スマートフォンを引っ張り出した紫原に頷き、黒子は虹村の方へと向かった。虹村の方では、どうも赤司への電話が繋がらないようで、とりあえず山に入って二人を探そうということになっているようだ。
「……あ、マトちん?」
『―――ザ、ザザ』
「もしもし、マトちん?」
『ザッ―――……はい』
「あ、繋がった」
紫原の言葉に、虹村たちの方へ意識を向けていた彼らが集まった。スピーカーにされた電話から、雑音交じりに大和の声が聞こえだす。
『もうちょいしたら下りるから』
「赤ちんは平気なの」
『ん~平気だけど今日は様子見に泊まるわ、俺も。下に車待たしたままだから誰か帰るよう伝えといて。何事もないって言ってくれればそんまま帰るはずだから』
「わかりました。あの、虹村さんたちがそちらへ向かうようですけど、止めた方が良いですか」
『ああ、どっちでもいい』
電話の向こうから、ガチャン、と何かが割れる音とくちゃくちゃと粘着質な咀嚼じみた音がした後バタバタと走り回る様な音が聞こえてくる。
『じゃあ切るぞ』
プツン、と切れる直前、ガランガランと本坪鈴の鳴らされる音が聞こえて、場が静まり返った。電話の向こうからした聞こえるはずがないであろう物音たち。それを聞いてしまった彼らはただ青い顔で黙り込んだ。
* * *
はた、と気が付けば、赤司はボロボロで半ば朽ちている鳥居の前に座り込んでいた。目の前に転がる懐中電灯のぼんやりとした明かりに照らされた鳥居の向こうには、雑草で崩れかけた石段が続いている。ぼうっとそれを見つめていた赤司は、つい先程までのことを思い出し慌てて立ち上がった。転がっていた懐中電灯を拾い上げ、辺り照らす。
周囲を照らすが誰もいない。大和がいると思っていたのに、その姿はどこにもなかった。
「お、戻ったか征十郎」
名前を呼ぼうとした時、背後、鳥居の方から声が聞こえた。
思いもよらない方向からした音にびくん、と肩を跳ねさせて勢いよく振り返れば、崩れかけた石段を大和が下りてくる。手には白くて平べったい網カゴがあり、それが部内で時折使っているリレーバトンの容れ物だと分かった。
「歩けそう?」
「あ、ああ……大丈夫、だと思う。河合さんは?」
「先に帰ったよ。俺たちも帰ろうぜ」
「……そうだな」
来た時とは違い、共に並び立って歩きながら赤司は大和へ一体何が起きていたのかを聞くか聞くまいか迷っていた。
自分がしっかり覚えているのは、真っ赤な鳥居を潜った先に河合がいた、というところまでだ。その先は朧で、ところどころ薄く思い出せる場所はある。鈴の鳴り響く音だとか、真っ暗な拝殿だとか、何かそういう部分的なものだ。だがそこに何がいたとか、何が起きたとかはほとんど分からない。途中、大和が来た、ということだけは覚えているのだが。
「……聞いてもいいか」
「なに?」
「あの神社には、何かいたか」
赤司の問いに、きょとん、と大和は目を丸めた。それから少し赤司を見つめ、微笑む。
「なぁんにも」
なにもしらない夜
2020.07.19