04

合宿が行われている宿舎内、割り当てられた部屋の敷かれた布団たちの一番奥、自分の荷物を置いた場所で河合は布団の中で小さく丸まりながら震えていた。
歯の根が合わずかちかちと小さな音を立て、ふ、ふ、と細切れの息がもれる。季節は夏でエアコンの切れた室内は少しばかりむっとする暑さがあるというのに寒くて仕方がない。足の先からどんどんと冷え込みが強くなって、末端は氷水にでも触れたような痛さすら感じる。足先を丸めて、膝を折り畳んで、少しでも肌同士を触れさせてあたたかくしようとする河合の耳が自身の呼吸音以外を捉えた。

がちゃ、―――ばたん。とん、ごとん。

誰かが部屋の中に入って、恐らく入り口で乱雑に靴を脱いでいる。同じ部屋に割り当てられた部員の誰かだろうかと一瞬思ったが、まだきっと肝試しは終わっていない。終わっていたとしてもひとりで戻ってこないだろう。ならば様子を見に来た誰かか、だがそれなら入ってすぐ声を掛けるだろう、大丈夫か、どうしたんだ、そんなような言葉を。なら、誰が今、はいってきたのだ?
河合は身動ぎひとつせず息も潜めて物音にじっと耳を傾けた。
何の音もしない室内に嫌な汗がじわじわと滲み出てくる。入り口で物音がしてから何に音も聞こえてこないのは、どう考えてもおかしい。靴を脱いでそこに佇んでいる?それともこっそり、何の物音も建てずに移動しているのか?どちらにせよ、おかしいだろう。
もしかして、誰かが俺を驚かせにでも来たのか?金本だろうか、それとも小林か、それとも……。
ぐるぐると仲の良くないチームメイトを思い出しながら、河合はじっと耳を澄ませ続ける。
―――それとも、赤司が連れて来た工藤か。
脳裏を過るのは、獲物を甚振る酷薄な笑みと不穏で不吉な空気、何か恐ろしいモノを孕んだ気配。それと共に山の中で見た光景が強く映し出された。低く潜められた笑い声がずっと纏わりつく。ほら、オトモダチが待ってるぜ。行ってやれよ。お前のこと、待ってるぞ。なあ、ほら、お前のことずうっと呼んでる。
石段を上がった先、割れて草木があちこちから顔を出す石畳の参道の終着点である拝殿の前に誰かが立っていた。こちらに背を向けて、佇むその背恰好は見覚えのあるもので。こんな山の中の神社にいるはずがないのに、そもそも、あいつはもういないはずなのに、

「ゆるしてないからね」

布団の隙間から黒々とした目が覗いていた。


* * *


何事もなかったと言わんばかりの涼しい顔で下山してきた大和と、疲れ切った顔の赤司を囲んで事情聴取の真似事が行われた。一部分全く記憶の無い赤司と話す気のなさそうな大和に周囲はそうそうに聞き出すのを諦め、事が事だし河合も何があったのか酷く怯えた様子で宿舎へ戻ってしまったこともあり、肝試しは中止となった。
宿舎へ戻る道すがら、黄瀬はそっと大和へ近寄り「あのさあ」と潜めた声で話しかける。
声を掛けたものの、なんと続ければいいのか分からない。黄瀬はあのさ、の続きを考えながらそろりと隣を歩く男の顔を覗き見る。汗ひとつかいていない横顔の中で瞳だけが冴え冴えと光って見えて、ぎょっと目を剥き黄瀬は足を止めた。

「なに?」
「え、あ、」
「なんだよ、幽霊でもいたか?」

同じように足を止めた大和が、少し後ろで立ち止まっている黄瀬を振り返り笑う。その足元に伸びる黒い影に何かが潜んでいるような気がしてそこから近寄ることも動くことも出来ず、ただただ黄瀬は立ち尽くす。
蘇るのは、不気味で妙な物音とめちゃくちゃに鈴の鳴らされる音。あの音が一体何をする音だったのか気になって仕方がない。けれど知ってしまえば、そのまま引き摺り込まれて飲み込まれてしまう気がした。ほんの一歩ずれただけの場所にある恐ろしい世界に引っ張られて行ってしまう、そんな予感がするのだ。

「教えてやろうか、俺がしたこと。征十郎がみたものと河合がみたもののこと」

蛇が絡みついて締め上げていくように、徐々に息が詰まって苦しくなっていく。

「なあ、知りたい?」

ぐっと身を近付けて覗き込んでくるその瞳から目が逸らせない。冷たくて厭な汗がだらだらと伝って指先から体温が抜け落ちていく。ごくん、と喉の鳴る音がとてつもなく大きな音に聞こえた。

大和
「……ん~」

窘めるような響きを含んだ声で呼ばれた途端、つまらなさそうな顔をして身を引き大和は自分を呼んだ赤司のもとへ歩いて行った。
心臓がどきどきと強く脈打っている。青い顔のまま遠ざかっていく二つの背を見送りながら、黄瀬はあの男に関してはもう好奇心のままに行動するのはやめようと心に固く誓った。


* * *


「先輩、どうしたんだ」
「なに、お前も知りたいの」
「生死に関りがないかどうかは知っておきたい」
「死にはしないけどしばらく使い物にはなんないかもしんねーな」
「……凄い悲鳴だった」
「外まで聞こえて来たくらいだからな」
「何をみたんだ」
「さあ?今までの行いが返って来たんじゃねぇの。知んないけど」

こそこそ、ひそひそ、周りで眠るチームメイトたちを起こさないように小さく低く潜められた声を黒子は目を閉じたまま聞いていた。きっとこの部屋にいる何人かはそうしてただ体を横たえ目を瞑っているだけだ。
眠れるわけが無い。特に大和との通話内容を聞いていた者は。あんな異常としか言いようのない音をたてて、けれど何も無かったと言わんばかりの澄ました顔で山を下りてきて。先に山から下りてきていた同じ肝試しチームだった河合は真っ青な顔で宿舎へ戻って、そうして肝試しを中止し揃って戻れば凄まじい悲鳴を上げながら部屋から転がり出て来て。
裸足のまま転び出て来た河合は半ば泣き叫ぶように、赤司と共に玄関口に居た大和へ掴みかかり「あれなんなんだよ!お前俺になにしたんだよ!なあ!あれなんなんだよ、あいつ、なんでいんだよ!」と繰り返し口にしていた。一体何をみたのか、大和の胸倉を掴む手もハーフパンツから伸びる足もひどく震えていた。
なんとかしろよ、と唾を飛ばしながら喚く河合を無感情な目で見下ろしていた大和は「知らねーよ、全部自業自得だろ」と冷たく吐き捨て河合を突き飛ばし、赤司に部屋まで案内してと何も無かった顔で言う。呆然とした顔で床に転がったまま大和を見る河合など最早意識の外なのだろう、こういうとこって初めて、と楽し気な顔をしてみせる大和に周囲は付いて行けず妙に寒気のする居心地の悪い空気が場に流れていた。
あの後その場で泣き出してしまった河合をなんとか虹村や騒ぎに飛び出してきた顧問たちが宥め、連絡を受け迎えに来た母親に連れられ帰宅することとなったのである。顧問や監督になんやかんやと言われたが、部員たちも監督たちも河合に何が起こったのかほとんど分からずじまいで、なんとも後味の悪い説教であった。

大和、この紐、外さないのか」
「外していいの」
「……」
「邪魔じゃないなら付けといて。御守りみたいなのになるし、目印にもなる」
「目印?」
「そ、目印。それあればお前がどこでヤバいのに遭ってんのかすぐ分かるし、すぐ行けるから」
「ふぅん……。……これ、何で編んでるんだ」
「知りたい?」
「……いや、いい」
「あは、ただの紐だよ、俺の真心がたぁっぷり詰まったただの紐」

ふふ、と小さく柔らかな笑い声。

「……なんだか、お前がいうと少し怖いな」
「安心の間違いだろ?」

ふふ、くすくす、二人分の潜められた笑い声を最後に会話は止まり、誰かの寝息と不明瞭な寝言が聞こえるだけとなった。

恣意の悪性

2020.12.31