ジーンズにプルオーバーのパーカーという格好で合宿所前に現れた工藤大和に、黄瀬涼太は少しばかり顔を顰めた。
季節はもう夏となり気温は二十五度を優に超える日々が続いている。今日は特に天気が良く、日の沈んだ今だとて昼間の蒸し暑さがまだ残り、ただ立っていてもじっとりと汗ばんでくるような日だ。そんな中でジーンズに長袖のパーカーを着ている大和は、些か異常に思えた。
こちらへ歩いてきた大和に「暑くないんスか」と黄瀬は顰めた顔のまま尋ねたが、大和はうん、とただ頷く。確かにその顔は涼しげなもので、汗もかいていない。単に汗のかきにくい人というわけではなく、本当に暑さを感じていなさそうな気配に、黄瀬はますます顔を顰める。
「こわ……」
「なんだよいきなり。何にもしてねぇだろ」
「普通の人間はこんなアッツい時にそんな格好しないんスよ」
「風呂上がりだから」
「ええ?なんスかそれ、逆に意味分かんないんスけど」
「それより他のやつらは?もう山?」
「山の前で待ってるって。俺は案内役で、赤司っちは今キャプテンとお話中っスよ」
「ふーん」
「ねえ、マトっちって呼んでいいっスか?」
「勝手にそう呼んでたくせに今更許可とんのかよ」
「えっ、なんで知ってるんスか?赤司っち?」
「いや、紫原っち」
「紫原っちと連絡取ってんスか!?何の話してんの?」
「あいつもたまーに変なの拾うからその話」
「こっわ……心霊体験し過ぎでしょみんな……」
「あ、来ましたね」
「おせーぞ黄瀬!」
「うわなんでマトちんパーカーきてんの、あっつ」
「あいつは汗腺が死んでいるのか?」
山への入り口だと思われる場所で固まっていたバスケ部の一軍部員たちがこちらを見て口々に何かを言ってくる。「なんで俺が怒られるんスかぁ!」と騒ぎながらそのメンバーに合流した黄瀬とは反対に、大和は虹村修造と話をしている赤司征十郎へと近寄った。
「征十郎」
「大和、早かったな。虹村さん、こちらが先程話していた工藤大和です」
「飛び入り参加の工藤でーす」
感情の見えない顔で会釈した大和へ、虹村はよろしく!と笑った。
赤司がどういう説明で大和を紹介し、参加を承諾させたのかまだ分からない為、無駄なことは話さない方が良いだろう。一瞬、ドブのような臭いが鼻先を掠めた。
「よし、全員揃ったし始めるか。集合!」
集まったメンバーへ虹村は簡単なルール説明(山道を登った先に小さな神社があり、そこにバトンを置いているので一本持って帰ってくる)をし、チーム分け用の籤を引かせる。余り多い人数で行っても怖くない上に危ないだろうし、少なすぎても何かがあったら危ないということで三人一チーム、一年生から三年生までごちゃまぜで、同じ色の紙を引いた人が同じチームという分かりやすいものだ。
大和は他校の生徒だからということで赤司と同じチームに決定しているため、わあわあ大騒ぎしながら籤を引く彼らを少し離れたところから見ていた。籤を引き終えた赤司がこちらへやって来る。
「征十郎、腕出して」
「なんだ?」
首を傾げながらも赤司は右腕を大和の前へ出す。その腕へ大和はパーカーのポケットから引っ張り出した、黒ずんだように沈む赤色の紐のようなものを結び付けた。
「これ、」
「角打ち紐。俺が心を込めて編んだやつだよ、征十郎クン」
きゅうっと弓なりになった目の奥で、何かが蠢いてみえる。ゾッとして飛び退いた赤司に、大和は「お前が連れていかれないように、御守り」とあやすような優しい声で言うのだ。右腕の組紐はただ蝶結びにされているだけなのに、もう一生外せないもののように見えた。
少しずつ心拍数が上がっていく。本当に大和を呼んだのは正解だったのだろうか。これは本当に『御守り』なのか?少し余裕をもって結ばれたはずのそれが、急にきつく感じる。
―――彼はそんなに『良いモノ』ではない気がするんです
また黒子の言葉を思い出してしまう。どんなに無駄口を叩き合ったり、雑談を交わしていても、ふと空恐ろしくなる。そういう、得体の知れなさがずっとあって、それはこの先もきっとずっとあるのだ。
怯えたようにこちらを見る赤司を、大和はやんわりと笑んだ目で見つめ返した。
* * *
何組かが山へ入り、出てきていた。ぎゃあぎゃあ騒いではげらげら笑い、怯えを見せる人間を揶揄い、次に山へ入る人間の不安を煽り脅かす。周囲がある種異様な興奮状態の中、赤司は白い顔でじっと山を見ていた。
「赤司、お前ほんとに大丈夫か」
「死にそうな顔をしているのだよ……」
もう先に肝試しを終えた青峰と緑間が、今戻って来たチームから懐中電灯を受け取った赤司へそう声を掛けた。この春から何かと心霊的なものに脅かされているチームメイトが心配なのだ。この間も妙なモノに家の中にまで憑いてこられていたのだ。この山で何か憑れて来ないとも言い切れまい。
青峰たちにぎこちない笑みを見せ、何か言いかけた赤司の肩に誰かが腕を回す。
「だーいじょうぶだって!ただ山ん中の神社に行くだけなんだし!な、赤司」
赤司と同じ肝試しのチームとなった、三年生の河合だ。妙に馴れ馴れしく、プライベートなことまでずけずけと聞いてくる人種であるこの男が赤司はどうにも苦手だった。何かというと自分の方が優位であるというようなことを表したがり、部内でも時折誰かと衝突している。
河合へ曖昧な笑みを返し大和を見れば、彼もこちらを見ていたようで目が合った。感情の読めない平坦な、鏡のような瞳。そこに何かがふっと映った気がして、それを見たくなくて、赤司は些か不自然なほど勢いよく目を逸らした。
それじゃあ行こうぜ、と河合は赤司の背を叩きやいやい騒ぎ立てる部員たちに手を振り山へと入って行く。その後を追うように重い足取りで赤司は山へと入って行った。
暗闇に沈んだ山の中は、より鬱蒼としていて違う世界のように感じる。三つ分の懐中電灯の、丸いぼんやりとした明かりに照らされた場所しかほとんど見えない。月は出ているのに木々に邪魔されこちらにまで光が届かないのだろう。
山の中は不気味なほど静まり返り、自分たちの立てる足音しか聞こえない。すぐ下で騒いでいるはずの部員たちの声も聞こえず、この場所が本当に別世界のように思え、赤司は今すぐにでも引き返したくなっていた。
「にしても意外だなあ、赤司ってなんでも平気そうな顔してんのに怖いのダメなんだ?」
「ええ、まあ。なるべく関わりたくないです」
一歩先を歩きながら木々の隙間や頭上など、あちこちを照らし見ていた河合がにやにやと厭らしい笑みを見せる。
ぼんやりとした懐中電灯に浮かぶその顔に内心うんざりとしながら返事をすれば、黙って赤司の半歩後ろを歩いていた大和が邪な笑みを含んだ声で言った。
「河合さんだって怖いの苦手だよなァ?この前もホラー番組観てなかなかトイレに行けなかっただろ?ドア開けたらあいつがいるかも、って」
河合の足が止まった。
「その前だって、夜中にベッドの脇に立ってるの見たんだろ?お前は見間違いだって思い込もうとしてるかもしんないけど、それ、見間違いじゃないぜ」
「な、なに、」
振り返った河合の手に握られた懐中電灯が、ぐらぐらと揺れている。恐怖を宿しながら、それでも冗談だと笑おうとしたのかその顔は奇妙に歪んでいた。
「何言ってんだよ、つ、つーかさ、お前、年下なんだから、敬語使えよなあ!」
怖ろしさを振り払うように怒鳴った河合へ、大和は喉の奥で低く笑った。その音が何か悍ましいものに思えて、赤司は振り向くことが出来ない。二人の間に挟まれたまま、早くなっていく心拍数をなんとか落ち着かせようとゆっくりとした呼吸をただ心がけていた。
「あは、すいません、敬語苦手で。ほら、行きましょうよ河合さん。後が閊えちゃうし」
「わ、わかってるよ!うるせえなあ!」
大和の言葉に、半ば逃げるように早足で河合は山を登っていく。あっという間にその姿は遠ざかって行ってしまった。赤司はぼんやりと立ち尽くしたままその背を見送る。
そっと背中に何かが触れた。薄いTシャツ越しにあたたかな温度が伝わってくる。見れば、「俺らも行こうぜ」と大和が赤司の顔を覗き込むようにして微笑んだ。いつもの、なんてことない話をする時の穏やかな顔をした彼に赤司は知らないうちに強張っていた体の力を抜いた。
今のは一体なんだったのだろう。どうして大和は今日初めて会ったはずの河合のことを知っているような口ぶりであんな話をしたのだ。疑問は尽きずにぐるぐると巡るが、その答えを赤司は当然持っていない。
右腕に結ばれた組紐がきつく食い込んでいるような気がした。
どうして笑っているの
2020.07.06