取り合えずこれ渡しとくな、と言って工藤大和は首元からネクタイを引き抜き、赤司征十郎へと手渡してきた。これを一体どうしろというのだ。
結び跡のついたネクタイを手に困惑をあらわにする赤司に、にっこり笑って大和は言った。
「ドアノブに結んどけよ。それが証になるから」
「何の証だ」
「まだ内緒。あとで教えてやるよ」
「……これがあるとどうなるんだ」
「誰も這入って来れなくなる」
獲物を狙う蛇の目がきゅうっと細くなる。目を逸らせない。このまま、成す術もなく飲み込まれるしかないのだろう。赤司は大和の悍ましい目に恐怖を感じながらも、何か大いなるものに包まれていくような安心感もまた覚えだしていた。
と、隣のテーブルから小さな悲鳴が聞こえた気がして、赤司はハッと目を逸らした。
今、何を考えていた。今、何を感じた?あのままでいたら何かとても取り返しのつかないことになりそうで、赤司は震える体を氷の溶けて薄くなりつつあるアイスティーで宥める。落ち着け、と自身に言い聞かせ、一度息を吐く。
「とりあえず今日はそれ使っといて。明日、片付けっから」
「明日?」
「今日はオシゴトがあるのよ、俺」
ヤんなっちゃうわァ~と言いながらパパッと残りのバーガーとポテトを平らげ、夜連絡するからと大和は帰って行った。奇妙な空虚さを孕んだ静寂が満ちる。病室に大和が訪れ心の内のあちこちを引っ掻き回して帰って行ったあの日も、今と同じようなものがあった。台風や竜巻が過ぎ去って、空は晴れ渡っているが辺り一面はめちゃくちゃになってしまっているような、アンバランスで不気味な静けさだ。
なんだかひどく疲れてしまって、赤司はネクタイを握った手に額をつけるように卓へと伏せた。まだ冷たい汗の感触があちこちにある。まだ心臓は嫌な感じにどきどきしているし、あの陰鬱でどろどろとした目が脳裏に焼き付いて消えない。
「ヤバくないっスか?あの人ホントに神社の息子なんスか?黒子っちは寺生まれのTさんとか言ってたけどどっちかっていうとTさんに殺られる側じゃないっスか?ヤバない?」
「それな」
「……工藤君は、神社の息子さんですし、実際赤司君を助けてくれましたよ」
「HP1の状態だけどね~」
「それな」
「誰か赤司にベホマをかけてやるのだよ」
「いやベホマラーにして俺ら全員回復してほしいっス」
「それな」
「青峰君は思考放棄し過ぎです。……とりあえず、赤司君、お疲れ様です」
とんとん、と肩を優しく叩かれ、赤司は顔を上げ黒子へ向かって力無い笑みを見せた。
* * *
ギシリと階段の大きく軋む音が聞こえる。ベッドサイドのテーブルに置かれた小さなランプの明かりをつけたまま、赤司征十郎はスマートフォンを握りしめて布団の中で息を潜めていた。
ゆっくりと階段を上ってきたソレは、ズ、ズッ、と引き摺る音を立てながら真っ直ぐとこちらへと向かってくる。時刻を見れば、もう深夜二時を回っている。大和からはまだ何の連絡も来ない。連絡が来たからと言って何が変わるわけでも無いのだろうが、一人だけではないという気分になれるだけマシだ。
もういっそこちらから掛けようか、と震える指で連絡先を開こうとした途端、ブブッと端末が震え出す。工藤大和、と表示された名前に赤司は一も二もなく通話マークを叩いた。
『お、やぁっと繋がった。いや~お前んとこめちゃくちゃ電波悪いのなァ、全然繋がんなくてビックリした』
「……」
『十回は掛けたわ。ヤんなっちゃうね、全く。で、どう?元気?』
スピーカーから聞こえる大和の声に不覚にも泣きそうになってしまった。誰かの声がこんなに安心するとは思わなかったのだ。まだ扉の向こうからはズ、ズ、と音は聞こえているのに、この男の声を聞いてると訳もなくもう大丈夫だなと思ってしまいそうになる。
「元気じゃない……」
『あら、泣いてんの、赤司クン。やっぱかわいいねお前』
揶揄うような声に泣いてない、と返そうとした時、カチャンと鍵の開く音がする。ひ、と息を呑んだ音が聞こえたのだろう、大和は「ああ」と低く息を吐いた。まるでこうなることが分かっていたかのような、電話の向こうの状況が分かっているかのようなその反応だ。
ドアノブには、昼間に大和から受け取った彼のネクタイが結ばれている。これを結んでおけば誰も這入って来れないと言っていたが、鍵の開けられた今、それは意味が無かったことになるのではないか。赤司は恐怖に震えた声で「這入って来れないんじゃなかったのか……!」と電話の向こうの男を責めるように言った。
『大丈夫』
自信に満ちた、落ち着いた声だ。一体何が大丈夫だって言うんだ。そう問い詰めようとした時、ゴッと扉が鳴った。開けようとしたのに開かなかった、そんな音だ。赤司はそっと布団から顔を出し、扉を見た。
扉は閉まったままだ。そのノブに結ばれたネクタイが揺れている。
もう一度、鈍い音が鳴ったが、扉は開かない。
『開かないから、大丈夫だよ、赤司』
「……なんで、」
『言っただろ、結んどきゃ這入って来れないって』
ふふ、と潜められた笑い声が耳をくすぐった。
ガチャ、とノブが鳴る。ソレがノブを回しているのだ。開かない扉を開けるために。ガチャガチャと壊してしまいそうな勢いで回されるノブの根元で、ネクタイがゆらゆら揺れている。
そういえば、この男はこのネクタイが証になると言っていた。だから誰も這入って来れないと。
「なあ、証って言ってただろう」
『うん?』
「あのネクタイは、何の証になるんだ」
『あれはな、“もう、はいってますよ”の証』
「……何がはいってるんだ」
『あは、なにって、俺だよ。俺がもう、這入ってますよ、の証』
バンッ!
窓に何かが叩きつけられるような音が鳴った。続けざまにまたバン、バン、と鳴る。
赤司は気付いていた。それが、誰かが窓を叩いている音だと。それもひとりではなく、いくつもの手が強く叩き割らんとばかりに叩いているのだ。ノブはまだガチャガチャと鳴っている。じゃあ一体ナニが窓を叩いているのだろうか?
『赤司、カーテン覗くなよ。いくら誰も這入って来れないって言ったって、それはお前が何もしなければっていう話だからな。ネクタイは謂わば俺だよ。俺のかわりに、お前を守ってくれるもの』
「お前のかわりに……?」
最早息も絶え絶えな赤司は、大和の言っていることの半分も理解できない。そんな状況ではないのだ。
誰かが扉を開けて這入ろうとしていて、誰かが窓を叩き割って這入ろうとしている。こんなに大きな音を立てているのに、この家にいる自分以外の人間は誰も起きてこない。それはつまり、この音は自分にしか聞こえていないということだ。
『だから、カーテンもドアも、絶対開けるなよ。ほら、よくあるだろ?“もう朝になったわよ”って言われて開ければ夜だったとか、“もう大丈夫だよ”って知ってる声で言わ』
不意に声が途絶えた。は、と見れば画面は真っ暗で、どこのボタンを押そうが画面に明かりはつかない。電池切れかと一瞬思ったがほぼ容量一杯まで充電してあったからそれはないだろう。それなら一体、と思った時、部屋が静かになっていることに気付いた。ノブを回す音も窓を叩く音もしない。
終わったのだろうか、もう帰ったのだろうか?
不意に、パチンと今まで灯っていたランプの明かりが消えた。いつもならカーテン上下の僅かな隙間から差す月明かりが今は無く、室内は完全なる暗闇に包まれている。赤司は半ばパニックを起こしながらも静かにベッドへ身を伏せた。音を立ててはいけない気がしたのだ。扉の向こうに、ナニかの気配がするから。
赤司は扉をノックする音にハッと目を開けた。いつの間にか眠ってしまっていたようだった。だが辺りはまだ暗く、壁掛けの時計すら見えないためどれくらいの時間が経っているのか分からない。
「征十郎、もう朝食の時間を過ぎているぞ」
扉の向こうから聞こえた父親の声に反応しそうになって、口を噤んだ。
―――ほら、よくあるだろ?“もう朝になったわよ”って言われて開ければ夜だったとか
「征十郎、聞こえているのか?ここを開けなさい」
強めにノックしながらいう声はしかし、自分から扉を開けようとはしない。
「征十郎、返事をしなさい」「具合が悪いのか?」「征十郎」「ここを開けなさい!」
声は段々と大きく、わんわんと響くようになっていく。赤司は布団の中で自身を守るように身を小さく丸め、ただ震えながら時間が過ぎることを祈った。
朝が来るまで。朝が来るまでこのまま待てば大丈夫。自分が開けなければ、この部屋には誰も這入って来られない。だから大丈夫。
どんどんと扉が叩かれ、ガチャガチャとノブが鳴る。窓を叩く音もまた鳴りだしどんどんと激しくなっていく。本当に大丈夫なのだろうかと、このまま朝まで耐えられるのだろうかと思ってしまうほどの音に、「もうやめてくれ」と赤司は涙の滲んだ声で言った。その声に反応するように、さざめくような笑い声が聞こえてくる。
頭がおかしくなってしまいそうで、赤司はもう扉を開けてしまおうかと身を起こした。今ここで扉を開ければ、もう全部終わるのだろう。これから先、こんな恐ろしい目に遭うことは二度となくなるのだ。
もしかすると、それが一番良いのかもしれない。きっとそれが一番良い。
赤司はふらふらとベッドをおりて、扉へと近付いた。ノブで、ネクタイがゆらゆら揺れている。
「……工藤」
その名を呼んだことに意味はきっとなかっただろう。ただそのネクタイを見て、ただそれを貸してくれた人物の名を呼んだだけ。
だがその途端、扉の向こうの騒音が、今までとは異なる騒音へと変った。ばたばたと何かが逃げ惑うような足音に、ズルルと引き摺る音。何かが折れる様な音がいくつも重なり、くちゃくちゃと粘着質な咀嚼に似た音がして、重たい水気を含んだものが落ちる音がした。窓を叩く音は止んでいる。
何か、禍々しく、悍ましい空気をその向こうから感じ、赤司は扉の前から一歩後退った。
と同時に、バン、と扉が開く。
「ハロー、グッドイブニィイング赤司!」
パッと部屋に明かりがついて、ジーンズにパーカーと上着という極々普通の私服姿の大和が目の前に立っていた。ゴキゲンそうに笑って、赤司を見ている。
扉の向こうは薄暗い。しかし外の仄かな明かりが差し込んでいるのか真っ暗闇ではない。
「工藤?」
「明日でもいいかと思ってたけど、お前があんまりにも死にそうな声で呼ぶからさぁ」
「ドア、なんで、」
「そりゃあ、俺はもう這入ってるから。あーあー、泣くなよ赤司」
「泣いてない……!」
ぐずぐずと洟をすする赤司に、大和は少しだけ笑ってその濡れた頬をつつみ撫でた。その手のあたたかさと目元を拭う指の優しさに安堵を覚え、ずっと恐怖にさらされていた反動か頭がぼんやりとしてくる。
「よく頑張ったな、もう寝ていいぞ」
よしよし、と頭を撫でられ、ぎゅうっと抱き締められる。平時であれば何をするんだと振り払っていただろうに、心身ともに疲弊し摩耗していた赤司は抵抗せずにその腕を受け入れた。ゆっくりと意識が遠のいていく。
赤司は心底疲れ切っていた。だから扉が開く前に聞こえた音と、感じた空気の異質さをすっかり忘れて、大和がどうやってこの家に入ってきたのか、大和の立てる物音に何故誰もやって来ないのか、どうして誰も起きているような気配がないのか、疑問に思うこともなかった。
翌日、昨夜のことを聞いてきた黒子と紫原に指摘されるまで。
ふたつめの呪い
2020.05.06