階段の軋む音が聞こえてきて、息が止まった。
家の階段がこんな軋んだ音を立てているのを聞いたことは、自分の知る限りではない。だというのに、ギシッ、ギシリ、と古い家屋の痛んだ階段が立てる様な大きな音が扉一枚隔てた外から聞こえてくる。ドアの向こうに自分の知らない場所が広がっているような気がして、赤司征十郎は息を潜めて震えていた。
ギッ、ギシ、と大きな音を立てながら上ってきたソレが、ズ、ズ、と何かを引き摺る様な音を立てながら廊下を真っ直ぐ、こちらへ向かってくる。ソレが部屋の前で止まり、カチャンと軽い音を立てて部屋の鍵が開けられてしまった。すうっと扉が開けられる。何かが部屋の中へ這入って来た。
ソレは戸口に立ったまま、ベッドにいる自分を見つめている。ジッと、何の音も立てずに。それからまた引き摺る様な音を立てながら、ベッドへと近寄ってきた。ベッドの脇に立ったソレが、ジッと、こちらを見下ろしている。
起きていると知られると駄目だと本能的に察して、震えてしまう息を成る丈静かにゆっくり吐いて寝ているフリをしているうちに、意識が途切れた。
無事退院してから三日、赤司征十郎は目の下に薄く隈をつくった状態で退院後初の登校日を迎えた。
クラスメイトや教師達に声を掛けられその顔色の悪さを心配されながら半日を過ごし、ようやっと訪れた昼休み。赤司は病室で会って以来のバスケ部レギュラーたちと会していた。
「なんか赤ちん顔ヤバくない?」
「病院にいた時と同じくらいヤバいっスよ」
「また何かありましたか、赤司君」
青褪めた顔で目の下に隈のあるどこからどう見ても病的な顔をしているという自覚があった赤司は、少しだけ笑って、まあ、と頷いた。
ここにいる五人は赤司の身に起こっていたことを大体把握している。あの神社の息子とかいう工藤大和を赤司の元へ連れてくるにあたり、黒子から四人に大まかな流れを話されたらしい。
今日の昼食を口に運びながら、赤司はぽつりぽつりと退院してから今日までに起きたことを話し始めた。
「退院した日に、家の前に知らない男が立っていたんだ。多分親戚とかでもない、見たことのない男で」
黒っぽいストライプのよれたスーツを着た男だった。片手に草臥れた革の鞄を持っていて、少し猫背気味に背を丸くして立っていた。
「そいつが、俺の部屋辺りを見上げていた。何となく、厭な感じがして声は掛けなかったんだ」
男の横を通り抜けて逃げるように家の中へ入ろうとした時、『おぉ~い』と背後から声が掛かった。
直感的に、振り向いてはいけないと感じる。けれど体は勝手に背後を振り返り見ていた。ぽっかりと顔の部分が丸く切り取られたように黒い男が、すぐ真後ろに立って、こちらを覗き込むようにその無い顔を近付けている―――
「……それから、……。その日から、夜中にドアが開くんだ。それで、誰かが勝手に這入ってくる。……ジッと見下ろしてくるんだ、俺を」
沈黙が場を満たす。
それから青い顔をした黒子がきっぱりとした強い口調で「工藤君に連絡しましょう」と拳を握った。
「……それしか無いのか」
「それ以外だとどこかでお祓いを受けるくらいしか選択肢はないのだよ。大変なことになる前に連絡しておいた方がいい」
「……」
「え、そんなにその工藤大和クンってヤバい奴なんスか?頼るの躊躇っちゃう系?」
「ヤバいっていうかぁ……なんか、怖い感じ?俺達には全然、すげーいい人っぽい感じだったけど、なんか、赤ちん相手は違ったよね」
「完全に獲物を見る眼をしていたのだよ……」
「赤司君のような人が怯える姿はテンションが上がるって言ってました」
「こっわ……完全に狙われてんじゃねーか。ケツは大事にな」
「え、対価は身体で支払えとかそういう系なんスか?ヤバくない?同い年なんスよね?爛れすぎじゃない?」
「黄瀬君、ブーメラン刺さってますよ」
「は~?刺さってないですぅ、黒子っちマジそういうのやめて~」
やいのやいのと謎の盛り上がりを見せ始めた連中に、赤司は引き攣った笑みを少し浮かべた。
そういう感じだったらどれだけマシだっただろう、と病室での出来事をまざまざと思い出しながら、赤司は深く息を吐く。あの、悍ましい悪夢のような目。死臭のする沼底の中に、何か黒々とした気味の悪いものが潜んでいる。それが時折蠢いて、こちらを覗くのだ。
二度と男に会いたくないと思っていた。けれど、そうは言ってられないのだろうか。
「連絡してみるよ」
「そうですね、また意識不明になる前になんとかしてもらった方が良いですよ」
頷いた黒子に背を押されるように、赤司は連絡アプリを開いた。
* * *
「なんでこんな勢ぞろいしてんの?」
駅の近くのファストフード店の一角、凡そ時間通りにやってきた工藤大和は広めのボックス席にみっしりと詰まった男たちに困惑の声をあげた。
大和と会うという赤司に黒子が付いて行こうか、と声を掛けたところ俺も俺もと手があがり、気付けば黄瀬や青峰たちも行くことになったのだ。どこに座ればいい?とちょっと困った顔をする大和に、こんな顔も出来るのかと少しの驚きを感じながら赤司は通路を挟んで隣の四人掛けボックス席を示した。
「そっちで話そう」
「あ、その前に何か頼んできていい?」
「ああ」
赤司の向かいの席に鞄を放り投げて注文カウンターへと向かった大和を見ていた黄瀬たちが口々に「思ってたのと違う」「神社っていうより教会感が凄い」「わかる」などまた何時ぞやの謎の盛り上がりを見せ始めた。
自分でも気づかなかったがここまでずっと緊張していたのだろう、チームメイトたちの声を聞いていると段々力が抜けてくる。連れてきて良かったかもしれない、そんなことを思いながらアイスティーを一口飲んだところで、大和が戻ってきた。
ハンバーガーの包みを剥がしながら、「それで?」と大和は赤司を見る。
「今度はどうしたの」
「……どこから話せばいいんだ」
「お好きなところからどうぞ。つっても、まあ聞かなくても大体分かるけどな」
ばく、と大きく一口バーガーを齧った大和が、目だけを弓なりに細めている。僅かな嘲笑と、愉悦、それから失敗してしまった子供を見るような慈愛。なんだってこの男はいつもこちらが落ち着かなくなるような目つきをするのだろう。
赤司はその目を見ていられず卓上へ視線を落とし、ごくんと喉を鳴らした。それから、黒子たちへ話した内容をもう一度話始める。それは成る丈感情の抑えられた淡々とした口調だが、しかし、抑えきれない恐怖に微かに揺らいでいた。
「勝手に、ねえ……勝手になんてそうそう這入って来れないよ」
「……」
「馬鹿だなぁ、赤司。お前が招き入れたんだよ、そいつのこと。お前が連れて入っちゃってんの、分かってるよな、賢い赤司クンは」
ハッと顔をあげた赤司に、にんまりと悪魔が如き顔で笑う。
いつの間にか隣のテーブルは静まり返っていた。異様なほど静まり返ったそこで、大和だけが至極愉快そうな声で言う。
「いいぜ、赤司。俺が助けてやるよ、お前のこと」
駄目もとでもどこか寺か神社へお祓いを受けに行った方が良かったかもしれない。絶対に良くないことが起こりそうな現状に、赤司はひどく後悔していた。
幽暗と目が合えば
2020.05.02