04

「お前、もう飲み込まれてるぞ」と、不意に耳元で男の声が聞こえた気がして、赤司は振り返った。だがそこには誰もいない廊下が続くだけで、赤司は気のせいかと息を深く吐く。解消されず蓄積され続けている疲労と、睡眠不足で頭がよく働かない。
何をしていてもどこか感覚が薄く、音も薄い膜越しに聞こえるようで反応が鈍くなってしまう。そうして不意に不安になるのだ。今、自分は起きているのだろうか?眠っているのだろうか?これは夢か?現実か?

「どうしました、赤司君」

すぐ隣から聞こえた声に赤司はびくりと身を震わせた。夕暮れの日に染まる廊下を見つめていた彼は勢いよく声の方へと体を向け、それがこれから共に部室へ向かおうとしていた黒子だと気付き人知れず止めていた息を吸う。
何かに怯え、挙動不審になっている赤司に、黒子はぐっと眉間に皺を寄せる。ここのところずっと、“鏡”の話をしてから赤司はずっと様子がおかしいままだ。

「いま、……いや、なんでもない」
「……赤司君、決めるのは君だとは言いましたけど、でも、早く鏡を手放した方が良いです」

その言葉をどこかで聞いた。それも確か、黒子の口から。
いや、気のせいだっただろうか。夢の中の話だろうか?そんな気もしてくるし、そうでもない気もする。みんなからちゃんと寝ろと言われ、部活を休んで帰ろうとしたとき、黒子はこんなようなことを自分に言ってきた。はずだ。「黒子、前もそんなようなこと、言っていたよな」と確認するように問う赤司に、黒子は眉を寄せたまま「何の話ですか」と答えた。
夢なのか。黒子に命にかかわる前に鏡を手放した方が良いと言われたのは、現実ではなく夢の中?

「だれとお話してるの?」

そ、と薄い布越しに背に触れた硬く冷たいものに、赤司は短い悲鳴を上げた。逃げ惑う小動物に似た動きで冷たいものの正体を見た赤司は、困惑し唇を震わせながら「水緒?」と己に触れたものの名を呼んだ。あれ、と辺りを見回した赤司は自分があの白い部屋にいると分かり、さらに混乱に口元を覆う。
なんだ、何が起こっている?つい今の今まで自分は学校に居なかったか?隣にいた黒子は?いつ家に帰って、いつベッドに入った?いつ?
どうして何の記憶もない?
と、きょとんとした顔でこちらを見ていた水緒の手にあるカバーのかかった本が目に入る。絵本ほどの大きさのそれが何故か妙に気になって「それ、水緒の本?」と赤司はいまだ混乱した頭のまま聞いた。
水緒は一瞬何を言われたのか分からなかったのか瞬きを繰り返し、それから小さく笑う。

「これね、もらったの。僕が読んでみたいなって思ってた、魚の写真集」
「誰に、もらったの」
「くろこくん」

にっこり、寒気がするほど無垢な笑みに赤司の呼吸は止まった。
黒子。何故ここで黒子の名が出てくる?どうして水緒は黒子の名を知っているのだ。これは、夢の中じゃないのか?現実なのか?もう幾度目か分からない疑問がぐるぐると脳内を駆け巡った。


* * *


赤司は目を開けたとき、今自分がどこにいるのか分からなかった。見慣れない白っぽい天井と、白いパーテーション、誰かの話し声。身を起こしてみてやっとこの場所が学校の保健室で、聞こえてくる声が黒子と保険医のものだと気付いた。
何故ベッドで寝ていたのかは、黒子か保険医に聞けばいい。赤司はベッドを出ると、パーテーションの横を通りながら「あの」と声を掛けた。

「あら、起きたのね。どこか痛いところはない?気持ち悪いところとか……」
「いえ、どこも。あの、どうしてここにいるのか分からないのですが」
「倒れたんですよ、赤司君。覚えてませんか?」
「倒れた?いつ」
「ついさっきです。部活に行く前、廊下でいきなり倒れて……」
「廊下……」

つい先程、なら鏡の話をしたときのことだろうか、夢との境目が分からなかったときの。黙り込んだ赤司と黒子を少し不思議そうに見やった保険医は、「もし平気そうならこのまま帰って家でゆっくり安静にしてね。部活には出ちゃ駄目よ、それと気持ち悪くなったらすぐに病院へいくこと」と言い二人を見送った。
玄関まで見送るという黒子と共に歩きながら、赤司はずっと妙な感じがしていた。なにか、違和感がある。けれどそれが分からないまま二人は玄関まで来てしまった。

「では気を付けて帰ってくださいね、監督にはちゃんと伝えときます」
「ああ。あ、なあ、黒子」
「なんですか?」
「……お前は水緒を知っているか」
水緒……鶴賀君のことですか?知ってるもなにも同級生ですし……」
「同級生……写真集、渡したか?」
「ええ、まあ。この前読んでみたいって言ってたので、本屋で見つけたからお見舞いがてら……あの、彼の家、何なんですか?鶴賀君しか住んでなさそうな感じだし、ご両親って、」
「待て、待ってくれ黒子、何の話だ?家?」
「え、何の話って、鶴賀君の話ですよね」
「……なあ、黒子」

なにかずっと違和感を覚えていた。

「俺がした鏡の話は、覚えてるか」

どうして目が覚めているのに、水緒のことを覚えているのだろう。夢の中のことを、あの部屋で起きた出来事を覚えているのだろうか。
そしてなにより、どうして夢の中の人である水緒のことを、黒子はこんなに詳しく赤司の知らないことまで知っているように話すのだろう。おかしいな話ではないか?

「鏡?何の話ですか?」

遠ざかる羽ばたき

2019.11.10