05

何かから身を守るように床で丸まって眠る水緒を抱き上げ、そうっとベッドへ下ろす。布団をかけ、乱れて目元にかかってしまった前髪をよけたところで彼の瞼が微かに震えた。とろりと眠気を帯び僅かに焦点のずれた目が、ぼんやりと赤司を見つめる。「おかあさん、いるから、だめだよ」ぱたん、と今にも瞑ってしまいそうな速度で瞬きしながら水緒はそう言った。

「お母さん?」
「うん……この前から、ずっといるから……」

のろのろと身を起こした水緒がちらりとベッドの空いたスペースを見やる。「お母さんねえ、多分、さがしてるの」ぼうっとシーツを見つめたままそう言った彼の声を掻き消すように、ベッドの向こう、浴室へ繋がる扉の奥から誰かの悲鳴が聞こえてきた。


* * *


窓がないここは、明かりが消えると真っ暗になる。眩しさすら感じそうな白い病室染みた室内はすっかりと闇に沈み、自分の手のひらすらよく見えない。
『いつも』とは様相のことなるこの場所が、赤司にあの白い部屋だと何故か分かっていた。けれど何故ここに自分がいるのかは分からない。いつ眠って、起きて、また眠ったのか。どこからが夢なのか、もう赤司には何も分からないのだ。
夢から起きたと思っていたのに、まだ夢の中で、はたと気付けば違う場所にいて、また気が付けば違う場所にいる。少しずつ擦り減っていっていた彼の精神は、最早正常に機能しているとはあまり言えなかった。その証拠とでもいうべきか、当初は困惑し混乱していた彼も今や現状に何の疑問も疑念も抱かず、あるがまま受け入れている。

水緒……?」

けれど『いつも』とはあまりに異なる現状に、赤司も少しばかり困惑していた。暗い部屋は、何か嫌な記憶を呼び覚ますのだ。何もかも忘れるように過ごしてきた彼の中に確かにある、忌むべきものたちがざわざわとささめきあい、その存在を知らしめんとする。
水緒、と何度か名前を呼び、この部屋の主を求めるが返事も無ければ何の音もしない。シーリングファンの稼働音も聞こえず、あたりは耳が痛くなるほどの静寂に満たされていた。
少しずつ、脈拍が早くなっていく。長らく忘れてしまっていたあの恐怖がひたひたと忍び寄り、そろりと背筋を撫で上げていった。「水緒水緒、どこにいる!」半ば狂乱したように叫ぶ赤司の背後を、誰かが通り過ぎる。遠くでぴちゃん、と水滴の落ちる音が聞こえ、いつかに聞いたような悲鳴が辺りに響き渡った。
は、はっ、と細切れで引き攣った息を繰り返しながら、それでも赤司はそこから動けずにいる。
ガチャン、とドアの開閉音に似た金属音が聞こえた。けれどこの部屋にドアはひとつしかなく、そのドアも木製のはずで、開閉してもこんな音はたてないはずだ。もしかしたら、ここは自分の知っているあの部屋とは別の場所なのかもしれない。
辺りの空気が少し、変質してきた気がする。重たく纏わりつくような、気持ちの悪い温い空気にぞわぞわと全身が粟立っていく。何かがいる。背後に、
ぼた、とどろりとした重い水音がすぐ後ろで聞こえ、赤司は鋭く短い悲鳴を上げそれから逃げるよう足を動かした。少しもしない内に壁らしきものにぶつかり、それがどの辺りの壁かも分からないまま手で触れながら走る。もしここがあの白い部屋ならば逃げ場などない。それでも後ろにいたあれから、少しでも離れたいのだ。

「あ、?」

手が何かに触れた。恐る恐る辿れば、金属のような冷たい突起があり、そこでようやっと触れている物が扉のノブであると気付く。開けた先に何があるか分からないまま、赤司は勢いよく扉を開けその向こうへ身を滑り込ませた。ばたん、と閉じた途端足から力が抜け、扉に縋らないと立っていられない。
扉の向こうはあの部屋で見た扉の向こうと同じであった。狭い脱衣所だと思われる空間が、奥のすりガラスの扉から透けるぼんやりとした明かりで浮かび上がっている。
小さな音と共に、ガラスの扉が僅かに開かれた。「水緒、そこにいるのか……?」人影など見当たらないのに開いた扉に、赤司は震えた声で呼びかけた。そこが開いて、水緒が顔を覗かせてくれればどれだけいいだろう。
縋っていた扉から身を離し、赤司はゆっくりすりガラスへと近寄っていく。扉に手が触れた。
生臭い空気を扉の向こうから感じた瞬間、何かとても厭な感じが体を走り抜けた。
開けない方が良い。きっと、もう戻れなくなる。
そう分かっているのに、赤司は扉から手を離せずにいた。否、離れないのだ。彼は離したいと思っているのに、手は勝手に扉を押し開けていく。ゆっくりゆっくり、「あ、ぅ、いやだ……!」見たくないのに、目を閉じられない。乾いた眼球からじわじわ涙が滲み、溢れ出す。
ぼたぼたと頬を伝い落ちていく涙を、背後から伸びた指が優しく拭った。「あのね」あたたかな吐息が耳朶を撫でる。また頬に触れてきた白い小さな手は、あんなに冷たかったのが夢だったかのようにとてもあたたかい。
その小さな手が、とん、と柔らかな強さで背中が押し、赤司は浴室の中へと足を踏み入れた。

「食べちゃった、金魚」


* * *


案内された彼の部屋は、彼自身の内面を表すようにあまり物が無くすっきりと整頓されていた。今でも日々丁寧に掃除されているのだろう、埃ひとつ落ちていない。
カタン、と部屋の隅に置かれていたクローゼットの中から小さな音が聞こえ、そういえば、と思い出す。この中に仕舞ったと彼が言っていたのを思い出し、少しの躊躇いの後にクローゼットの戸を開けた。ことんと戸を開けた途端転がり落ちてきたのは手の平と同じか少し大きいくらいの桐の箱だ。
手に取ってみれば、それは見た目の割に随分と重い。開けるか否か暫し逡巡し、恐ろしい考えを頭を振ることで追いやると隙間に爪を引っ掻けて箱を開けた。
中にあったのは、きっとかつては美しかったのであろう繊細な装飾の施された丸い手鏡だった。変色し黒ずんだその鏡を手に取り裏返す。細かな罅や傷に覆われた鏡面に、一瞬赤いものが見えた気がした。赤い、ひらひらとした金魚の尾鰭のような、彼の髪のような―――。
ふ、と息を吐いて、鏡を箱に戻して蓋をする。桐箱をクローゼットに戻すか迷い、結局鞄の中へ入れた。これは然るべき場所で処理してもらった方が良い代物だろう。
処理したからといって彼が戻ってくることはないのかもしれないけれど、それでも何もしないよりはいいだろう。

来た時とは違いずっしりと重たい鞄を手に家を出たとき、黒子はふと振り返った。彼の、赤司征十郎の声が聞こえたような気がして。

あなただけよい夢を

2019.11.19 | これにて「泥濘」完結とさせていただきます。おや、と開始早々思われた方がいらっしゃるかもしれませんが、今作品の舞台は赤司征十郎のはじめての連載「秘密」です。少しでも楽しんでいただければ幸甚に存じます。