03

遠くに教会の鐘の音が聞こえる。
この部屋に来ると、途端に赤司は全てを思い出す。なのに目覚めたら、ここのことはまるで忘れてしまうのだ。記憶に残るのは、何か夢をみたということと、目が覚めたと思っている時に起きている何か得体の知れない途方もない怖ろしいことだ。それも実際に起こっているのか実際のところ、判断できていない。何せ、はたと気が付けばベッドで目を覚ますのだから。

水緒

白い丸テーブルのすぐそばに座り込み、スケッチブックに金魚の絵を描いていた少年が顔をあげ、嬉しそうに笑った。汚いことなど何にも知らないようなあまりにも無垢で、純粋で、それ故にどこか背筋の冷える笑顔を浮かべたその子は、この部屋の主だ。
彼に出会ったのは、この部屋に来て三度目のときである。彼はベッドの傍の床の上に、薄っぺらい毛布に包まって胎児のように体を小さくして眠っていたのだ。その姿を目にしたとき、赤司は直感的に彼があの幼さの残る声の持ち主であると分かった。
その時は彼に声をかけようとしたところで途絶えたけれど、四度目からは起きて、会話を交わすようになっていた。少年は自らを水緒と名乗り、たったひとり、ずっとここで過ごしているのだと言った。
害意を感じないどころか、どこか庇護欲をかきたてる少年に、赤司は少しずつ自分が惹かれていっていることに気が付いている。それがおかしなことであることにも。

水緒、今日は何を描いているの」
「この前の、食べられちゃった金魚」

仄暗い色合いで着色された赤い金魚が、黒い金魚に半ば喰われかけている。千切れて漂う尾鰭が、ぬらりと不気味に光って見えた。
少年の黒い艶々とした髪がさらりと揺れる様が、あの黒い金魚の尾鰭と重なる。顔を傾けた彼が、その尾鰭の隙間からじっと、こちらを見ていた。


* * *


「赤司、ちゃんと睡眠はとっているのか」
「隈スゴいっスよ~、赤司っち」
「赤ちん、変な顔色だけど大丈夫なの?」
「今日は部活休んだ方がいいんじゃねーの、赤司」

「赤司君、早く鏡を手放した方が良いです。そのうち命にかかわりますよ」


* * *


ハッと目が覚めて身体を起こした時、不意に手が何かひんやりとしたものに触れ、赤司は悲鳴を飲み込んだ。身を引きながら見れば、なんてことはない、隣で眠っていた水緒に触れただけであった。彼の体は、いつもひんやりと冷たいのだ。
枕に顔を埋め、すやすやと眠っている水緒を見つめながら、赤司は何故この白い部屋のベッドで眠っていたのか思い出そうとした。けれど何も思い出せない。この部屋には何度も来ているけれど、眠ったことはなかった。と、思ったところで、あれ、と赤司はベッドからおりようと床に下ろした足を止めた。
何も思い出せない。この部屋に来る前、いや、この部屋にいないときのことが何も思い出せないのだ。急速に口中の水分が干上がっていく。からからになった喉で、赤司は「水緒水緒、起きてくれ」と何度も少年の名を呼び、起こそうと揺すった。
けれど少年は小さく身動ぎするだけで、目を開かない。

水緒!」

シーリングファンの音がいやに響く室内に、自分の半ば悲鳴のような声が反響した。ぜいぜいとどんどん呼吸が荒くなり、汗が背を伝っていく。何か、とても厭な感じがしているのだ。ずっとずっと、今、目覚めてからずっと何かが起こっている気がしている。
と、視界を何かが掠めた。
ふっと過っていった、黒っぽいものに身が硬直する。水緒の体に添えていた手を剥がせない。今、何かがベッドの正面を横切って行った。黒っぽい、いや、深い赤、茶色、そんなような錆び付いたような色合いをしたそれが、今、背後にいる。
ふ、ふ、と浅く短い息を吐き出し、体を動かすことも目を閉じることも出来ず、赤司はただただ背後から身を突き刺す視線を感じていた。生ごみが腐ったような臭いが漂ってくる。それが背後にいるものから放たれていると気付いたとき、ぼた、と何かがベッドの上へ落ちた音がした。


* * *


自分の叫び声に赤司は目を開けた。喉を空気がおかしな音を立てながら通っていく。今自分がどこにいるのか分からず赤司はパニックを起こしたように身に被さっていた布団を跳ね除けベッドから飛び出すと辺りを見回した。
見慣れた机、クローゼット、サイドテーブル。ここは赤司自身の部屋だ。
それを理解した途端、足から力が抜け赤司はベッド脇に座り込んでしまった。体が震えている。何かとても、とても恐ろしい夢をみていた。そう思ったところで、今自分は起きているのだろうかと感じてしまう。飛び起きてもまだ夢の中で、鏡が、

「かがみ……」

赤司はふらふらと立ち上ると再び部屋中を見回した。鏡はクローゼットの中のはずだ。部屋の中に転がっていれば、きっとまだ夢の中にいるっていうことだ。今までがずっとそうだった、から、鏡の場所さえ把握してしまえば大丈夫。辺りを見回しても光るものはない。恐る恐る部屋の照明をつけて再び見回しても、いつもと変わらない、眠る前と変わらない部屋だ。
そこでようやく赤司はほうっと息を吐いた。ずるずると座り込んでしまいそうになるのを堪えてなんとかベッドまで辿り着き、彼は凍り付く。

何もないはずの枕の隣で、鏡がぬらりと光を放っていた。

誰も息をしない午後三時

2019.11.03