02

遠くに教会の鐘の音が聞こえる。少し濁ったようなひんやりとした空気に、病室のような白い部屋。青空の絵と大振りの向日葵。気が付けば、あの日の夢と同じ場所に赤司はいた。
あの夜、赤司は鏡の入った桐箱を麻紐で開かぬように結び、机ではなくもとあったクローゼットの中へと仕舞い込んだ。それから一週間、今日まで、特に妙な夢をみるわけでもなく何事も無く日々が過ぎ去っていった。
そうしてあのゾッとした出来事を遠い日の事と認識し始めた矢先、赤司は再びあの日と同じ妙な夢をみている。
あの時の夢と同じ部屋の角に赤司は立ち尽くしていた。これが夢の中だと分かっているし、意識ははっきりとしている。

「なんなんだ……」

自分の声が白い部屋に広がる。
シーリングファンの稼働音と自分の立てる音しかしない部屋の中をまたぐるりと見回し、あの時と何も変わらないのか、と思った時。ふと丸テーブルに置かれた白い深皿と銀のスプーンに気付いた。あの時は無かったものだ。
テーブルに近付き、皿の中を覗き込む。何かスープでも入っているのかと思えば、薄く濁った水と二匹の金魚が入っていた。赤い尾鰭を優雅に揺らめかせて泳ぐ金魚を、少し大きな黒い金魚が追いかけるように後をついていく。黒い金魚が赤い金魚に近付いた、と思えば、不意に黒い金魚は揺れる赤い尾鰭に喰い付いた。そのままどんどん喰らい付き、飲み込んでいく。
赤い金魚が小さくなっていくのを半ば呆然と見ていた赤司の耳元で、「金魚、食べられちゃった」と小さな声が囁いた。まだ幼さの残る少し高い少年の声に、赤司はハッと顔を上げ辺りを見回すが、自分以外誰もいない。

「誰かいるのか」

しん、と静まり返った部屋に自分の声が響く。ベッドの向こうの扉は閉じられたまま動かない。
ざわざわと波打ち始めた心を落ち着かせるように、ふっと小さく息を吐いて赤司は部屋の奥の扉へと歩いていく。どこにでもあるような、ごく一般的な銀色の丸いノブがついた木の扉。なのに、何故かすごく重くて厭な感じがする。

「誰か、いるのか」

もう一度そう声を掛け、返事が無いのを確かめるとノブへ手を掛ける。少しずつ脈拍が早くなっていく。ぐっとノブを回し、ともすれば固まりそうになる腕を動かし扉を開けた。
背後からの明かりで照らされた一畳ほどの狭い空間はどうやら脱衣所のようで、奥のすりガラスの扉の先はきっと浴室なのだろう。壁際に布のかかった木の籠が置かれているだけで、それ以外は何もない。物音も気配もなく、扉を閉めようとしたとき、ふと生臭い空気が鼻孔を掠めていく。何か、とてもいやな予感がそわそわと足元から迫ってきた。
何かがある。ここには、何かが隠されているのだ。
大きな音を立てながら勢いよく扉を閉め、けれどそのノブから赤司は手が離せないでいた。向こうからノブを回されるのを恐れるように、きつく握りしめたまま動けない。

「今日はいつまでここにいてくれるの」

音も無く近寄った誰かが、耳元でそっとそう尋ねてくる。どこか寂しそうな響きを孕んだ、幼くて少し高い、少年の声。あたたかな吐息が耳朶を掠めた気がして、鳩尾が冷えていく。
そ、と誰かが、何かが服の裾を引いた。


* * *


荒い震えた息を吐きながら、赤司は顔を覆った。手も微かに震えている。何か、とても恐ろしい夢をみていたような気がするのに何も覚えてない。ただ、何かに裾を引っ張られたことだけは覚えている。
少しずつ震えも呼吸も落ち着いてきて、彼はぐったりとベッドヘッドに凭れ掛かったまま顔を覆っていた手を下ろした。その時、何かが視界の端でちらちらと光っている。
始めはスマートフォンの連絡アプリの通知か何かかと思った。だが、そもそもあれは机の上に置いたままだ。じゃあ、?
そろそろと視線を光の方へ向け、ひゅっと喉が鳴る。月明かりを反射する、あの丸い鏡がサイドテーブルの端に置かれていたのだ。桐箱と麻紐は開かれたクローゼットの前でばらばらに散っている。
なんで、どうして、ぐるぐる疑問符が駆け巡り、赤司は震える手で鏡を手に取った。ベッドからおりて力の抜けそうになる足を動かしてクローゼットへ向かう。笑えるほど震えた手で桐箱に鏡を入れようとして、それが見えた。曇りひとつない鏡面に、青褪めた自分の顔と天井が、薄い月明かりにぼんやりと浮かぶシーリングファンが映っている。
彼の部屋に、シーリングファンなんてついていない。


* * *


「大体、そうなればもう気付けば朝なんだ。そしてちゃんとベッドにいる。どこまでが夢なのか分からない」

ふうっと息を吐いた赤司征十郎を前に、黒子テツヤは結構大変なことが起きているのではないかと薄ら思っていた。
いつだって”完璧”を体現したような男が、最近妙に疲れた様子を見せているし、今日に至っては珍しく目の下に薄く隈をつくっていたものだから黒子は彼に尋ねたのだ。どうしたんですか、具合でも悪いんですか、と。赤司は少しの間言葉の意味でも考えるように妙な間を開け、すっと一度視線を外してから少し躊躇いがちに五日ほど前から毎日妙な夢を見るんだ、と言った。
聞いてみれば、とんだオカルト話である。部屋から見知らぬ鏡が出てきてから妙な夢をみるだなんて。何か嫌な夢をみて飛び起きれば、仕舞ったはずの鏡が出されている。それを仕舞おうとして、何か恐ろしいものを見て、今度こそ目が覚める、なんて。
それなりに色々な本を読んできた黒子は、もう絶対に十割の確率で鏡が怪しいと踏み、「その鏡、神社かお寺でお祓いなり供養なりして手放した方が良いんじゃないですか」と目を伏せたまま微動だにしない赤司に言った。

「手放す……」
「ええ、だってその鏡を見つけてからずっとその変な夢をみるんですよね。それって結構ヤバいと思いますけど」
「ああ、分かっているんだが……」

何か良くない物なのかもしれないと分かっていても、赤司は何故かその鏡を手放そうと考えたことはなかった。手放してはいけないとさえ思っていた。

「まあ、赤司君が決めることですけど、でも僕はその鏡は危ないんじゃないかと思いますよ。普通に考えておかしいですから」
「……そうだな」

ぼんやりと赤司は自室のクローゼットへ仕舞ってあるはずの鏡を思い出しながら頷いた。きっと、あれを手放せば妙な夢に悩まされることもなくぐっすりと眠ってしまうのだろう。でも、どうしてだか手放してはいけない気がするのだ。―――あれがないと、あの子に会えない。
ふと浮かんだその考えに、赤司は自身に疑問を抱いた。あの子に会えないと今、自分はそう思ったのか。
あの子って、一体誰のことだ?

底なし夜の遠泳

2019.10.14