彼の家は意外にも学校のすぐそばにあった。空き家が点在する長い坂道を登ったところにある大きな家。それが彼の家らしいのだが、どうにも人が住んでいるようには見えない。なんというか、静かすぎるのだ。それに生活感が全く感じられない。人が住んでいる家はなんとなく、その家の雰囲気が滲み出ているものだ。しかし彼の家は全然そんなものを感じられず、空き家のように見えた。
何年も触れられていないようなチャイムを押したが、家の中で静かに響くだけで何の反応もない。もしかすると本当に赤司君の家に住んでいるのかもしれない。でも彼は一人暮らしだと言っていたし、ああもう。考えるよりも行動だ。
開くわけないと思いながら重そうなドアを引くと、「あれ」ガチャン、と驚くほどすんなりと開いてしまった。鍵がかかっていないだなんて不用心というかなんというか。だが鍵が開いているならば中に誰かがいるかもしれない。
「お邪魔します」
形だけの挨拶をしてなかに入れば、玄関にはローファーが一足だけ置かれていた。彼のものだろうか。
ローファー以外何も置かれていない玄関を抜けて、ぐるりと家の中を周る。人が生活している気配というか痕跡が全くと言っていいほどない。辛うじてああ人が住んでいるのだなと思えたのは台所と風呂場だけ。しかし埃や煤はなく綺麗なところをみると、定期的にきちんと掃除はしているのだろう。なんだか、不気味だ。
人の気配を感じられないまま二階へとあがったのだが、二階は一階とは違い廃墟同然だった。掃除もされていない廊下は埃が積り汚い。人が歩いたような形跡もなく、きっと数年は放置されていたとみていいだろう。ということは、一階のどこか、まだ僕が見ていないところがあるということだろうか。
探していないところ。見逃していたところなんて、あったか?
そういえば彼は窓がないと言っていた。部屋には窓がないと、赤司君がいらないだろうと言った、と。いや、でもまさか。
そろそろと階段を下り、もう一度丹念に家の中を調べていく。
「あ、」
居間の奥にある部屋の更に奥。本棚の間に隠れるようにして、もう一つの部屋へ繋がるドアが静かに佇んでいた。
ドアの僅かな隙間からひんやりとした空気が漏れている。ノブのすぐ上に鍵穴、そしてドアと枠の間を繋ぐように後から付けられた鍵穴のついた掛金錠が三つ。何をそんなに隠したかったのか、よほど大切なものを仕舞っているのか、異様なほど厳重に閉ざされているそのドアは、今、掛金錠が全て開けられていた。
ある種の確信をもってノブを回せばとやはり鍵は開いている。誰かがこの先にいる。そしてそれはきっと。
ドアの向こうは暗くて奥までは見通せない。けれどその闇の向こうのずっと先までコンクリートの階段が続いているのは分かった。どこかに電気のスイッチがあるはずだと周辺を見回せば、棚と壁の隙間に小さなスイッチを見つけた。パチリと灯った電球は少々頼りないものの見えないよりはましだろう。
そうして階段を下り続け、入り口のドアが随分と遠ざかったところにまたひとつ、ドアがある。きっとこのドアの鍵も開いているのだろう。
侵入を拒む冷たい金属のドアを押し開けたとたん、冷えた空気が身を包んだ。ひんやりと纏わりつく空気。薄暗い、白い部屋。あの絵で見たとおりの閉塞的な部屋だった。
物のほとんど無いし部屋の中で、壁に掛けられた青空の絵画がいやに大きく圧迫感を抱かせてくる。その隣で花瓶に活けられた向日葵たちは瑞々しく光って見えた。そうしてテーブルの向こう、冷たい床に死んだように横たわる人影。ひゅうっと吸い込んだ息が喉を鳴らす。
「鶴賀君っ?」
ばくばく。心臓が嫌な音を立てる。熱くもないのに汗が滲む。反応はない。
しかしゆっくりと体が上下していることに気付き、ああよかったと力が抜けた。驚いた。とても、驚いたのだ。
「大丈夫ですか、鶴賀君、具合悪いんですか?」
ぐったりと床に伏したまま静かな彼に近寄り、顔を覗き込む。目元にかかった髪をそうっと払ったところで、ゆっくりと彼の瞼は持ち上がった。ああ、よかった、なんともなさそうだ。「くろこくん?」ぱちりぱちりと瞬いて起き上がった彼へ今日ここに来た口実でもあるものを渡したところで、ふと気になった。
「どうして床で寝てたんですか?ベッドがあるのに」
ドアのところからは見えない奥には大きい立派なベッドが置かれていた。ベッドがあるというのに、何故わざわざ固い床の上で寝ていたのか。しわひとつない白いベッドは妙に不気味に映る。
「あのね、ベッド、おかあさんいるから」
彼はちらりとベッドを見やり、少しだけ居心地が悪そうに眉を下げる。
「お母さん、ですか?」
彼は一人暮らしだと言っていなかっただろうか?両親は今はいないと。それに、この部屋には彼一人しかいないように思える。何の音もしなければ彼以外の人の気配もしない。
だが彼はゆっくりと頷くと口を開いて、「うん、おかあさん。この前からずっといるの。時々いるのは知ってたんだけど、あかしくんが来るときはいないくて……見なかったから。でもこの前からずっといる。あかしくんが来ても、ずっと。だからベッドでは寝たくても寝れないの」とあのぼんやりと焦点の合わない透明な瞳でベッドを見つめている。
彼は、一体何を言っているのだろう。いつだって彼の言葉は掴みづらいけれど一際不可解な言動に知らず眉がよる。ふと生臭い、嫌な匂いが鼻を掠めた気がした。この無菌室のような部屋で、そんな匂いがするはずないというのに。
* * *
もうすぐ練習が始まるというのに、いつまで経っても黒子っちが姿を見せない。ふつふつと嫌な予感が湧いてくる。
最近の黒子っちはどこかおかしかった。いつも何かを考えていてぼうっとしていて、かと思いきやひやりとするほど鋭い視線を赤司っちへと投げかけていたりして。黒子っちと赤司っちは今まで仲が良かったから最初は喧嘩でもしたのかと思っていたけれど、二人とも普通に話していることもあり喧嘩しているというわけではなさそうだった。
しかし黒子っちはどこか赤司っちを敵視しているような、悪人を糾弾するようなそんな目で見ているから、もっとわけがわからなくなる。だからといってきっと俺が首を突っ込んでいい問題じゃなさそうで、少しずつ部の雰囲気はぎすぎすしていっていた。
俺はいつか黒子っちが辞めちゃったりするんじゃないかなんて不安で、そんなことないとは思うのだけれど、現にこうして連絡もなく時間通りに現れなかったりするとどうしようもなく不安になるのだ。
そわそわと連絡アプリの通知が来ていないかスマートフォンの画面を付けたり消したり、アプリを開いて読み込んだり消したりを繰り返していると青峰っちが鬱陶しげにこちらを見てきた。自分でもうざいのはわかっているけれど、でも落ち着いてなどいられないのだ。
何度か連絡しているのだがどれひとつ返ってこない。本当に、どこにいるんだろう彼は。もう一度電話をかけてみようかと指を添えた途端、ぶるぶると震えだした。「わっ」着信だ。ハッとして見れば、そこには今しがた掛けようとしていた人物の名前が出ていた。
「も、もしもし!?もうどこにいるんスか心配したっスよ!」
半ば怒鳴るように一息で言った後、はたと気付いた。酷い雑音に紛れて誰かの絶叫と荒い息遣いが聞こえる。変だ。絶対何か変。こんな声、普通聞こえてくるわけないじゃないか。
「……黒子っち?」
不安がじわじわと侵略し始める。何かが起きている。何か、とても良くないことが。
ひゅっと息を吸う音が向こうからして、ひどく震えた声が助けてくださいと言った。電話の主は黒子っちで間違いない。そのまま黒子っちは震えた、今にも途切れてしまいそうな小さな声で要領を得ない言葉を吐き出していく。
「黒子っち落ち着いて、どうしたんスか」
何か事件にでも巻き込まれたのだろうか。ひゅうひゅうと荒い息がどうしようもなく怖い。一度沈黙を保った彼が泣き出しそうに囁く。「殺される」怯え引き攣った言葉にひやりと背筋が冷えた。
彼は今なんて言った、殺される?
「い、今、今どこにいるんスか!」
「地下、あの、鶴賀君の家の、地下です」
「ぁ、え?鶴賀って、」
がしゃんと音がした。電話の向こう側じゃない。
ハッとして振り返れば、いつの間にか来ていた赤司っちが驚いたように目を見開きファイルを床にぶちまけていた。いつの間に来ていたのだ、いや、それよりも。どうして赤司っちがそんな驚いているのだろう。
わけがわからなくてじっと見ていると、赤司っちは一度床に目を伏せぎろりと俺を睨んだ。
「黄瀬、誰と話している」
冷え切った凍る声にびくりと肩が跳ねた。どうしてこんなに怒っているのだろう。
答えない俺に赤司っちは苛立たしげに舌打ちをして足早に近づいてくる。そうして俺の手から携帯を奪うとちらりと画面を見、耳に押し当てた。「黒子、お前は今何処にいる」「わかった」たった数秒の会話。否、会話とは呼べないかもしれない。
赤司っちは携帯を俺に投げ返すと用は済んだとばかりに踵を返す。そして近くにいた緑間っちに何かを言い、真っ直ぐ出口を目指した。
一体どこに向かっているのか、なんて聞かなくても分かる。黒子っちがいるという家に行くのだ。赤司っちは彼のことを知っていて、それなりに深い交流もある。じゃなきゃ、あんな反応はしないはずだけど、でも、一体どんな関係だっていうのだろう。友達というには苛烈な眼差し。
「赤司っち!鶴賀の家にいくんスか」
貫く視線は見たことがないほど冷え切っていて、鋭い。酷く重たい空気が流れ、「だとしたら?」低い声が這う。
「なら、俺も行く」
すっと細まった酷薄そうな目に浮かぶそれがなんなのか、俺にはよくわからなかった。
* * *
彼の家は案外近いところにあった。赤司っちは何の迷いもなくドアを開け上がり込んで行く。置いて行かれては困ると俺も上がり込んで、息を飲んだ。
異様な空気。妙だ。人の気配が全然しない。それどころか人が住んでいるというような痕跡もほとんどないのだ。埃こそ落ちていないものの、廃墟同然のように思える。
赤司っちは不気味な家の中を勝手知ったるとばかりにどんどん奥へ入っていって、一番の奥の部屋の更に奥、本棚の前で立ち止まった。古い本が息を潜める棚たちの間。そこに扉は佇んでいた。まるで隠されるようにあった扉は中途半端に開いていて、そこから冷たい空気が這い出していた。
黒子っちがこの先にいるっていうんだろうか。
随分下まで続くコンクリートの階段。この家は、一体何なのだろう。扉のところにあった三つの鍵も、この人気の無さも、ひんやりと重く纏わりついてくるこの冷たい空気も、全てが気持ち悪い。赤司っちはちらりと俺を見ると、本当に行くのか?と聞いた。
「行くに決まってんじゃないっスか」
本当は今すぐに踵を返して体育館へ戻って青峰っちたちとバスケをしていたい。けれど、黒子っちが、友達が助けてを求めているのだ。いつも落ち着いてて大人びている彼があんな死にそうな声で助けてって言うなんて、よっぽどヤバいことが起きてるっていうことだ。ここで帰れば、絶対に俺は後悔する。きっと、ずっと忘れられなくなる。
赤司っちは目を伏せ、「そうか」と頷いた。
電球の薄ぼんやりとした明かりだけを頼りに長い階段を下ったその先に、また扉があった。重たそうなその扉は今度はきちりとこちらを拒むように閉じられている。早鐘を打ち始める心臓をどうすることも出来ぬまま、扉は開いた。