鶴賀という名字の人間で、俺が知っているのは一人しかいない。知っているというのは少し違うかもしれない、ただしくは“聞いたことがある”だ。
鶴賀水緒、俺たちと同じ二年生だけど、もうずっと学校には来てない生徒。幽霊がみえるだとか、頭がおかしいだとか、“そういう”病院に入院してるだとか、そういう噂話を聞いたことがあるけれど実際に会ったことは無い。そんな人と、赤司っちと黒子っちはどこで知り合ったのだろう。黒子っちも青峰っちたちも、バスケ部のレギュラーの中には誰も鶴賀水緒と同じクラスではないからそういった接点もないし、赤司っちと仲が良ければそれこそあっという間に噂にでもなってそうなのに、今まで赤司っちと鶴賀水緒の名前をセットで聞いたことはない。
いつの間に、こんな、家に来るほど仲良くなったのだろう。
それに、ひとつだけずっと引っかかっていることがある。彼に関する話は全部ただの噂で、どれが本当か、本当のことがあるのかすら全然分からないけど、ひとつだけ。
この家に来てから思い出したのだ。
去年の冬、鶴賀水緒>が死んだ、そんな話を聞いたと。
扉を開けた途端、ひんやりとした空気がもったりと纏わりついてくる。空気が少し異常に感じるほど澄んでいて、なんだか気分が悪くなる。それに部屋の中が静かすぎるのも不気味だった。誰の声も、気配も感じない。本当にここに黒子っちはいるのだろうか?
赤司っちは部屋の中を見回すと、真っ直ぐ奥に進んでいってしまった。
「黒子、どこだ」
奥から赤司っちの声が聞こえて、そっちへ行こうと白い部屋に踏み込んだ、途端。
「ぅっ」
ぞわり。
なんだ、この、ひどく嫌な感じ。おかしい。この部屋は異常だ。澄んでいるのに澱んだ空気に吐き気がした。暑くも無いのに汗が噴き出してくる。妙に瑞々しい向日葵と大きな青空の絵画が、余計にこの部屋の異様さを際立たせているように見えた。床に転がっているバッグは恐らく黒子っちの。そのそばに点々と続く赤は、果たして誰のものか。
ドアの前から一歩も動けない。これ以上、入ってはいけない気がするのだ。ああでも、黒子っちを助けないと。
また一歩、踏み出して、耳鳴りが襲う。きん、と耳の奥で張り詰めた音にとっさに目を閉じた。閉じる寸前、視界の端を何かが掠めた気がする。黒い、いや違う、あれは、深い赤か、茶色?どこかに向かったそれが、赤司っちでないのは確かだけれど誰なのか、そもそも人なのか?
恐ろしくて目が開けられない。
「黒子、返事しろ!」
赤司っちの声が聞こえてくる。黒子っちはまだ見つかっていないのか。ああ、どうしよう、目を開けられない。嫌な予感しかしないのだ。ふと鼻腔を生臭いような匂いが掠めた。何か、生ゴミが腐ったような妙な甘さをもった吐き気のする臭い。
こんなところでどうしてこんな臭いがするのだろう。こんな生活感も何も無い部屋の中で、一体何の臭いだ、と糸を辿っていた俺に誰かの視線が突き刺さった。
誰かが見ている。
赤司っちなら声をかけるはずだ。黒子っちもそうだろう。じゃあ、もしかして、鶴賀?
ごくりと生唾を飲んで、おそるおそる、瞼を押し上げる。
「あれ……?」
いると思っていた人はおらず、それどころか、誰もいない。俺の気のせいだったのだろうか?いやでも、確かに、「黒子!」慌てたような赤司っちの声がして、「黄瀬!」続いて俺を呼ぶ声がした。ハッとして声のするほうへ足を動かす。
寝室と思われる場所を通り過ぎたその奥からだろう。ベッドの前を過ぎたとき、あの赤茶色が、また視界を掠めた。
「っ!」
今のは、人、だった。しかし振り返ってもそこには何もない。白いベッドがただ静かにあるだけ。
なんなんだ、この部屋は。
震えが止まらない。そのまま逃げるように飛び込んだ狭い部屋は、どうやら脱衣所のようだった。むわりとあの腐ったような生臭い匂いがまたする。あれはここからしていたのだろうか。
「赤司っち……?」
見えた背中は風呂場にしゃがみこんでいる。そうして声に振り返った赤司っちの向こう、バスタブの中にぐったりと横たわる人が見えた。あれ、「黒子っち!!」血の気の失せた青白い顔。焦点の定まっていない目が、ふらふらとどこかを見ていた。
「く、黒子っち大丈夫っすか!?」
「声をかけても多分無駄だ」
そう言った赤司っちの顔がいやに冷たくて、息を飲んだ。なんで、そんな顔出来るんだ。
「見たんだろ、黒子」
何を見たとは言わなかった。無感情な目。なんとなく、臭いがきつくなった気がする。息が出来ない。どうして彼はそんな平然としているのだろう。感じていないなんてことはないはずなのに。
「黄瀬」哀れむような、しかし突き刺すような赤がじっと窺う。「苦しいか?」緩く弧を描いた唇がいやに綺麗で、寒気がした。
「染み付いた匂いは、なかなか落ちないものなんだ」
ふうっと息を吐いた赤司っちが、一度瞬きをして、また笑う。何を言ってるのか全然わからない。いや、わかってはいけない気がした。そうしてまた哀れむような目で俺を見てから、すっと手が伸ばされる。何だろう、と思ったときには、ばちん。
暗転。
* * *
ベッドの隣、部屋の奥にひっそりとおかれたクローゼットをぎしりと開く。耳を押さえ、立てた膝に顔を埋める水緒の姿が変わらずにそこにあった。きちんと俺の言うことを聞いていたようだ。
「水緒」
なるべく優しく声をかけ、手首に触れる。大きく体を震わせた彼がおそるおそる顔をあげて、安心したように細い息を吐いた。強く耳を押さえていた手が外され力なくぽとりと落とされる。まだどこか怯えたように俺の背後にちらちらと視線を投げる彼の柔らかい髪を撫で、今は大丈夫だということを伝えた。
「でももうここは危ないから、俺の家へおいで」
「あかしくん、の?」
「そう。これからはずっと一緒にいられるよ」
ぱたりぱたりとひどくゆっくり瞬きをした彼は、小さく頷いて目を伏せた。
「じゃあ、もう出ようか」
「眠たいよ」
「少しだけ我慢してくれるかい?早くいかないと向日葵たちが起きてしまうから」
「……うん、わかった」
白く冷たい手をそっと握り、引く。立ち上がった彼は浴室を一瞥しまた目を伏せた。
冷えた顔からは何も窺えない。視界の端を掠める赤茶色にそろそろ行かなければ、と踏み出した。扉を閉める直前、黒子のカバンの横に血の痕が見え、けれど何も見なかった振りをする。
冷たい空気に満ちた部屋に、がちゃん、と錠の落ちる音が大きく響いた。
聞こえるはずのない教会の鐘の音に意識が浮き上がった。キン、とした甲高い耳鳴りが徐々に大きくなっていく。
ああ、うるさい。
見上げた天井は見慣れたものではなくて、こういうとき僕はまだにこの部屋に馴染めていないのだと実感する。彼が僕のために用意してくれた部屋は、暖かくて静かだ。だけれど、少し、居心地が悪い。この部屋はなんだか妙な気配ばかりするし、日に数度なる錠の音が、まるで僕にここから出て行けといっているようで嫌になる。彼はここにいてくれと言うけれど、この部屋は僕を歓迎してはいないのだ。
ここに来てから、隣に彼がいるのは本当に当たり前になった。彼が学校に行っている間を除いても、ほとんどずうっと一緒。彼の体温を感じながら、またそっと目を閉じた。彼が目覚めるまで、もう一度眠ろう。絡まったままの指に少しだけ力を入れてみる。相変わらず冷たい彼の指先。彼の指が温まることはないのだろうな、とゆっくりと沈む意識の中で思った。
誰かが頭を撫でている。引き摺られるように瞼を上げれば、いつのまにか起きていた彼が真っ赤な目を優しく細めた。
「おはよう、水緒」
すっかり着替え終わってしまっている彼の姿に、随分と眠ってしまっていたことに気付く。ふわふわと霞む視界の中でじんわりと赤が溶け出していて、なんだか、金魚みたいだ。
「ご飯出来てるよ」
するりと頬を撫で、そのまま流れるように僕の腕を引き起き上がらせる。引かれるがままベッドから滑り降りて、真っ白なクロスが敷かれたテーブルの前に座らされた。
目の前には丸い深皿がひとつ。あの時みたい。
しかし覗き込んでみてもそこに金魚はいなく、美味しそうなスープが揺れているだけだった。いただきます、と一言呟いてひんやりしたスプーンを握りスープを掬う。「あれ、」しかしスープを掬ったはずのスプーンの上には、ぴちぴちと蠢く赤い金魚が横たわっていた。真っ赤な金魚の尾ひれは、食べられてしまったかのように不自然に千切れている。
びちん、びちん、と徐々に動きが遅くなる金魚に慌ててスプーンを皿の中に戻した。途端にひらひらと泳ぎ出した赤い金魚の後ろを滑るように黒い金魚が追いかけていく。
「食べないのかい?」
あの時と同じことを言った彼が、不思議そうに僕を見つめる。だから、「食べるよ」もう一度真っ赤な金魚をスプーンで掬い上げた。ぬらぬらと光る金魚は僕に食べられるのを嫌がっている。でも、皿の中にいたっていずれ黒い金魚に食べられてしまうだろう。どちらにしろ食べられてしまう運命なのだ。
舌の上で暴れる金魚を、噛まずにそのままそうっと飲み込む。つるりと喉を落ちていった蠢く感覚に目を伏せる。気持ち悪い。取り残された黒い金魚が、うろうろと彷徨っている。
「美味しい?」
真っ赤な目がまた優しく細められる。彼の瞳の中に真っ赤な金魚のひれをみつけて、なんだか不思議な感じ。
ひらひらと揺れる尾ひれ。今僕のお腹の中にいる金魚のひれが当たっているような、くすぐったくて気持ち悪い感覚に顔が歪んだ。「水緒?」そっと肩に置かれた手はあたたかいのに、相変わらず冷たい。
「食べちゃった」
「え?」
「金魚」
きょとんと目を丸めて、それから彼はそうかと小さく眉を下げて笑った。だから僕も笑った。僕は金魚を飲み込んでしまったけれど、彼は金魚じゃない。だって彼は、まだ僕のそばにいてくれるもの。
皿の中では黒い金魚が赤い金魚を探して彷徨っている。
「ねえ、水緒」
髪を滑る彼の指が、火傷してしまいそうな程あたたかくなっていることに気付いた。
「すきだよ、あいしてる」
ふと見上げた先で笑う赤色。あれ。僕は金魚を食べてしまったけれど、彼は金魚じゃないはずだ。
ただ過ぎた日々にもずっといる
rewrite:2021.3.28 | 全編加筆修正、これにて「秘密」完結となります。