図書室へ本を返しに行く途中に通りかかった空き教室で、黒子はあの日見た彼の姿を見つけた。窓のすぐそばに置かれた机の前で黙々と手を動かし続ける姿に、今度は一体何を描いているのだろうかとふつふつと興味が沸いてくる。
かたかたと喧しく騒ぐ立て付けの悪い扉を引くと、窓が開いていたのかふわりとカーテンが舞った。ひらひら舞う白いカーテンの向こうで彼がこちらを振り返ったのが見える。さらさらと揺れ動く艶やかな髪が靡くカーテンの隙間から見え隠れして、その姿がやけに美しく思えて、ぞわりと何故か背筋が震えた。
その震えにこの部屋に入ってはいけないと一瞬、黒子は感じた。だが足はふらりと引き寄せられるように室内へと入って行く。そういえば前もこんな風に彼に見蕩れたなと片隅で思い出しながら、扉を閉めれば途端に風は治まってカーテンはふわりと余韻を残しながら元の場所へと戻って行った。
「こんにちは」
じいっと黒い瞳が黒子を見つめる。ぼんやりとした眼差しは、驚くこともなく、ただただ黒子を捉えるだけでそこにはなにも見えない。
黒子の言葉が聞こえたのか否か、しばらく何の反応もせずにぼうっと見つめてきた後に彼はゆっくりと目を細め、あの消えそうな静かな笑みを湛える。
「こんにちは、くろこくん」
「はい。……今度は、何を描いているんですか?」
彼のいる窓辺の机に歩み寄れば、この前見たスケッチブックよりもずっと大きいものが置かれていた。そばには色鉛筆とパレットと筆が散らばっている。床に置かれたカバンからは様々な絵具が入ったケースが覗いていた。
紙一杯に描かれた薄暗い色合いのその絵は、部屋のように見える。鮮やかな青空の絵と妙に瑞々しい向日葵以外、白っぽい色で統一されたその閉塞的な部屋はさながら病室であった。
「これは……?」と思わず尋ねた黒子に彼は赤い色鉛筆を握ったまま、「部屋だよ」と囁くように答えた。その目は焦点がずれていてどこを見ているのかわからない。「僕の部屋を描いてみたの。物が少ないから、ぜんぜん、楽しくないけど」そう言って絵の中に描かれたテーブルの上に重ねるように赤を滑らせ、彼は何かを描いていく。
ひらひらと揺れる不自然に千切れた尾ひれ。金魚だ。彼と初めて会った日に見たあの歪な金魚。
「金魚ですか?」
「そう、金魚。前、いたから」
彼の言葉はどうにも掴みにくい。それこそ本当に、ひらひらと泳ぐ金魚のようだ。
「鶴賀君の部屋には、窓がないんですか?」
「うん、青空がいるから。いらないよねって」
「いらない?誰かがそう言ったんですか?」
「うん、あかしくんが」
なんでもないことのように、さらりと彼は言う。僕がいると窓、割れちゃうから。そう付け足すように落とされた言葉も不可解だけれど、なにより、“あかしくんが”ということが黒子には引っかかった。
また“あかしくん”だ。
先日初めて会った時にも赤司の名が出て、随分と親しげなようだったがバスケ部の練習開始時刻が迫っていたこともあり詳しいことは聞けなかった。いや、聞こうと思えば聞けたのだが、その時に見た彼の笑顔がなんだか怖ろしくて、部活動を理由に黒子はその場を去ったのである。第六感とでもいえばいいのか、確固たる理由は無いが聞いてはいけない気がしたのだ。
友人というにはあまりにも妙な関係を匂わせる発言に、黒子はしばらく黙り込み、するすると描かれていく金魚を見つめる。
「……鶴賀君は、一人暮らしですか?」
「うん、今はひとり。おとうさんとおかあさん、いたんだけど、今はいないの」
寂しかったけど、あかしくんがいるから寂しくないし、怖くないよ。
あの消えそうな微笑みとはまた少し違う、透明な笑みが彼を彩った。そわりと見えない指先が背筋をくすぐり心臓へと這って、彼のもつ独特な空気がじわじわと体内を侵食していくような、あまり気持ちの良くない、けれど同時に心地よくもある奇妙な感覚が纏わりつく。
いけない、と直感が告げていた。
けれどその矛盾した感覚がぱりぱりと正常な思考を剥奪していくものだから、その直感すら無視してしまいそうになる。
「くろこくんもひとり?」
黒い色鉛筆が踊る。赤い金魚の上に黒を重ねていた彼が、僕を捉えた。
「いえ……」
「そう、じゃあ寂しくないね」
黒い金魚に赤い金魚が食べられていた。気味の悪いぎょろりとした目が、じっとこちらを見つめている。揺れる黒い尾ひれは美しい形をしていた。
尾ひれをなぞる白い指先をぼうっと見ていると、かたかた音を立てる扉が一際大きな音を立てた。白いカーテンが舞い上がり視界が一瞬白で埋め尽くされる。一体誰が来たのだろうと振り返って、後悔した。
ひどく不愉快そうに歪んだ顔。圧倒的な殺意がその眼差しだけで自分を殺そうとしていた。赤司君、とその名を呼んだ声は掠れ本人に届いたかどうかも怪しい。がたりと騒がしい音を立てて扉が閉められカーテンが落ち着くころには、赤司は黒子を串刺しにしていたものとは打って変わった優しい眼差しと穏やかな顔で彼へと近付いていく。
「探したよ、水緒」
図書室にもいないと思ったらこんなところにいたのか、と彼に近寄りながら赤司は目を細めた。今まで見たことのない、慈愛に満ちた美しくあたたかな微笑み。するりと極自然な動作で彼の髪を梳いて、頬を撫でる。
恋人同士のような甘い仕草。なのに漂う空気は重く澱んでいる。あの白い部屋に感じた閉塞感を黒子は感じていた。
* * *
最近彼は難しい顔ばかりする。そして何か言おうと口を開いては、やめるのだ。一連の動作に僕が首を傾げると、決まって彼は優しい微笑みを浮かべながら頭を撫でる。なんでもないよ、と。彼がなんでもないというのだから、きっとなんでもない、たいしたことじゃないのだろう。でもそのたいしたことじゃないことでも、毎度毎度途中でやめられると気になってしまうものだ。
じわじわとのぼってくる耳鳴りに息を吐き、冷たい床に頬をつける。体温が抜け落ちていくのを感じながら、そうっと目を閉じた。静かな部屋は向日葵が吐く雑言と、青空の刺さるような視線で満ちている。
向日葵も最近酷く機嫌が悪い。多分、彼がここにいる時間が増えているからだ。彼がここにいるときはみんな優しいいい子になる。向日葵は別人のように大人しくなるし、青空は目を閉じて黙りこくる。降ってくる空気も温かくて優しい。
彼がいると、僕は生きやすくなる。彼はどうなのだろう。僕のそばは生きやすいのだろうか。瞼の裏で、いつだか彼が囁いた約束がくるりとまわった。ずっとそばにいる。それって、僕のそばが生きやすいということでいいのだろうか。僕は馬鹿だから、よくわからない。くろこくんもそうだ、彼も僕のそばにいる。
ついこの前知り合ったばかりの彼は僕にとても優しい。彼の優しさは、僕がいつも受け取っていた優しさとは少し違う。くろこくんがくれる優しさは少し冷たいのだ。ひんやりしていて、ちょっとだけ苦い。僕が受けとっていた優しさはあたたかくてひどく甘いものだったから、新鮮な、不思議な感じ。くろこくんはよく「このままじゃいけません」とどことなく強張った怖い顔をして言うけれど、反対に彼は「変わらないでいいよ」と優しく笑う。
一体僕はどちらの言うことを聞けばいいのだろうと毎回悩んで、結局いつも彼を選ぶのだ。彼は正しいから。くろこくんは正しいのかよくわからない。
向日葵が不自然に言葉を切った。ざわりと冷たい空気が震えて、停止する。どうしたのだろう。彼にこんな反応はしない。誰か、知らない人でも入ってきたのだろうか。そういえば、鍵、かけていなかったかもしれない。ああ、怒られちゃうかな、いやだなあ。
「鶴賀君?」
滑る音はどこかで聞いた覚えがあった。どこで聞いたんだろう。向日葵が大きな溜息を吐く。「大丈夫ですか、鶴賀君、具合悪いんですか?」目の前に誰かがいる。ゆっくり瞼を押し上げれば、ゆらゆら揺れる淡い青。澄んだ水面にぼんやりと僕が浮かんでいる。
目元にかかった髪を優しく払った彼が、じいっと僕を見つめていた。
「くろこくん?」
「はい」
どうして彼がここにいるのだろう。鍵は多分かかっていなかったのだろうけれど、その前に、彼が僕の家を知っていたというのが不思議でならない。誰かに聞いたのかな。
「今日、」僕の目の前に腰を下ろし部屋を見回す。「渡したかったものがあったんですけど、見かけなかったのでお休みかと思いまして」がさりと鞄を漁る。「これ」すいっと差し出されたのはカバーが掛けられた本だった。なんだろう。
ぱらりと捲ると、色鮮やかな魚たちがわらわらと泳ぎまわっていた。「あ、これ……」僕が読んでみたいと言っていた写真集。魚だけを撮ったもので、昔本屋さんで見ていいなあと思ったものだった。
「昨日本屋で見つけたので、もしかしたらと思いまして」
「わあ、ありがとう」
「気に入っていただけましたか?」
「とっても!」
「それは良かったです。あの、聞いてもいいですか?」
「なあに?」
「どうして床で寝てたんですか?ベッドがあるのに」
「ああ。あのね、ベッド、おかあさんいるから」
「え?お母さん、ですか?」
「うん、おかあさん。この前からずっといるの。時々いるのは知ってたんだけど、あかしくんが来るときはいないくて……見なかったから。でもこの前からずっといる。あかしくんが来ても、ずっと。だからベッドでは寝たくても寝れないの」
「そう、ですか。……あの」
ぺらりぺらりと魚たちを追いかけていると、彼のひどく真剣な声が落ちてきた。たまに聞く、あの声だ。
「話、変わるんですけど……最近いつ学校に来ました?」
どうしてそんなことを聞くのだろうと思いながら、分からないと首を振る。よく覚えていない。いつから行っていないのだろう。彼にやんわりと止められるようになってから、行っていない。
「どうして来ないのか、教えてもらえますか?」
「うん。ええとね……あかしくんが、行かない方がいいって言ったから」
「赤司君が?」
低くなった声にどうしたのかと思って顔をあげると、刺すような目が。ただただ僕を貫こうとしていた。
「あ、」
くらり、ふらり、目が、視線が。青がぎちりと縛りつけ締め上げていく。
やだ、やめてよ。
耳鳴りがする。青空が、じっとり僕を睨みつけている。
なんで、何にもしていないのに、どうしてそんな目をするの、「あなたは」向日葵がざわめきだす。ひやりとした青空が僕を絡めとり、逃げ場を失くそうとする。
「やだ、や、あかしくん、たすけて」いつにもまして攻撃的な青空が、目が、「ほら危ないよ、逃げないと!」けたけたと愉しげに笑い哂う向日葵たちが、死んでしまえと囁きだす。ああ、やだ、やだ、
「たすけて、あかしくん」
あなたしかいないのに、どうしていないの。