02

最近彼は床で眠ることが多くなった。薄っぺらい毛布にくるまり、胎児の如く身を縮め眠る姿はまるで自身を何かから守るように見える。何か、なんてわかりきっているけれど。
冷たい床に腰を下ろし、薄い瞼の奥でくるくると動く眼球を眺める。彼は今、何の夢を見ているのだろうか。「水緒」早く起きないと遅刻するよ、と冷えた頬を撫でる。
彼はついこの間からきちんと登校するようになった。といっても教室に顔を出すことはない。保健室か図書室、もしくは空き教室で読書や絵を描いたりして暇を潰しながら、たったひとりでぽつりと、俺がやってくるのをただずっと待っているだけ。

水緒

彼と過ごす時間が増えてとても嬉しい反面、嬉しくなくもあった。もし彼が俺以外の人と仲良くなってしまったらなんて思うと、ひどく気分が悪くなる。
彼は俺のものだ。俺以外と触れ合う必要はない。そう思ってしまう俺は間違っているのかもしれないけれど、これは彼のためでもあるのだ。

「ぁ、あかしくんだ……」
「おはよう」

おはよう、と掠れた声で囁いた彼はぼうっとどこかを見ている。眠たげに伏せられた睫毛が、ふるふると震えていた。「あかしくんは、」平坦な声はいつもより少し翳りを帯びている。「あかしくんは、ずっといるの」どこに、とは言わなかった。どことなく非難しているような色が見えて、体温が下がる。
彼は全てわかっているのかもしれない。
なんて、ありもしないことを考えてしまう。「何か変な夢でも見たのか?」目を閉じてしまった彼の頭をなるべく優しく撫で、そのままつるりとした頬に指を滑らせる。睫毛が微かに震え彼は小さく、あなたが消えた、と囁いた。透き通ったガラスに似た硬質な冷たさを宿したその声の温度に息が詰まる。掠れた小さな声でそう呟いた彼の表情は読めない。

「夢だよ」
「うん」
「俺はずっと、傍にいる」
「うん」
「……ほら、着替えておいで。朝御飯は準備してあるから」

彼を抱き起こし、巻きつけられた毛布を剥がしていく。されるがままの彼はぼんやりと飾られた向日葵と青空の絵を眺めていた。


* * *


赤司が最近妙だ、とバスケ部一軍レギュラー陣の間でひそやかに囁かれていた。
休み時間の度にどこかに出かけては機嫌良さげに戻り、昼食も今までは部員たちと共に食べていたのにそれが一切なくなったのである。妙に楽しそうというか嬉しそうにいそいそとどこかへと行っては戻ってくる、その姿は今までのどこかつまらなそうな冷えた目ばかりをしていた頃からは想像もつかない。
一体何があったのか、彼女でも出来たのか、それにしては何の噂も浮いてこない、とバスケ部員たちは首を捻るばかりで一向に答えまでは辿り着けずにいた。

「赤司っち、ホント最近どこでご飯食べてるんスかね」

パックジュースを啜りながら、黄瀬はぽつりと開いた部室の一角を見つめた。そこは少し前まで赤司がいつも座っていた定位置である。
大して答えを気にしていないような声音で発せられたその言葉にその場を沈黙が流れ、ただものを咀嚼する音だけが落ちていった。
「多分ですけど」運動部に所属しているにしては小さすぎるように見える弁当箱をつついていた黒子が箸を置いた。お茶のパックを手に取り、一口に飲み込んで「資料室の隣の空き教室じゃないですか」と黄瀬を見た。つるつると音を立てながらパックジュースを啜っていた黄瀬が動きを止め、青峰も不思議な顔をして黒子を見る。

「なんでそんなこと知ってんだよ」
「この前見ました。そこでパン食べてましたよ」
「一人でっスか……?」
「いえ、よく見てないですけどもう一人いたと思いますよ」
「二人で食べてたってことか?赤司と仲良い奴なんていたっけ?」
「さあ……でも赤司くんと仲が良かったら名前くらいは出回ってそうなんですけどね」

そういえば随分と優し気な柔らかい顔をしていたな、とちらりとだけ見た顔を思い出しながら黒子は残りの昼食をせっせと平らげていった。


* * *


部活前に立ち寄った図書室の奥まったところにあるテーブルで、誰かが眠っているのを黒子は見つけた。隠されるようにぽつりと寂しく置かれたテーブルに伏せるその人影の傍には、数冊の本と、ノートに色鉛筆。開け放たれた窓から時折吹き込む風にふわりと髪が流れ、落ちた。
静寂に満ちるその光景がひどく美しく見え、ついで彼は誰なのだろうと疑問に思う。つい数分前にホームルームが終わったというのにその前からいて、さらに寝ているということはかなり前からいたということ。サボり、だろうか。
黒子はなるべく足音を立てずに眠るその人へと近付いていく。
ノートだと思っていたものは、どうやらスケッチブックのようであった。開かれたままになっているそれに描かれていたのは、真っ赤な金魚と、それを追いかけている黒い大きな金魚。仄暗い色で着色されているせいか、薄汚い水を通して見ているようなそんな不思議な感覚を見る者に抱かせる。黒子はそこに描かれた写実的で今にも泳ぎだしそうな金魚をそうっと指でなぞった。真っ赤な金魚の、ぷつりと食べられたかのように途中で切れている尾ひれがどこか不気味で、しかし美しくもあって、なんだか、不安定だ。
不自然に切れた尾ひれを意味もなく指でなぞる。ざらりとした紙の感触に混じって、一瞬なにかぬるりとした、「……っ」ひゅうっと息を飲む音に黒子ははたと我に返った。
音の方を見れば、今の今まで寝ていたはずのその人が驚き怯えたような目でこちらを見ている。青白い顔。揺れる黒はあまりにも澄み切っていて、その無垢さは何か寒々しさすら感じてしまうほど。

「……だれ、ですか?」

少し掠れた声は警戒に満ちていた。目の前の人間が自分に危害を加えるか否か、それだけを判断しようとする動物じみた色。しかしぱちりぱちりと睫毛がぶつかりあう度に徐々にその色が抜け落ちていって、結局純粋な疑問だけが残されていた。

「ええと、はじめまして、黒子です」
「あ、はじめ、まして……?鶴賀、です」
鶴賀……?」

たどたどしく紡がれた聞いたことのあるようなその名字に、はてどこで聞いたか、と瞬き考える。
そうしてふと今まで聞いてきたいくつかの話が脳裏を掠めていった。鶴賀、たしかそう、精神的にどこかおかしいだとか気が触れただなんだとか、そんなような……。色々あって学校に来なくなったと聞いていたのだけれど、なんだ、来ているじゃないか。
名前を言ったきり身を固くし俯いてしまった彼に、どうしようか、と思考を繋げていく。関わったことがないので、別段彼にこれといった感情を黒子は抱いていない。会話は繋がっているし別段彼に対して思うことは何もない。そのことをどう伝えようかと感情の現れにくい水の瞳を少しだけ細める。
くるくると思考を回しながら、目の前で怯えたように身を縮める姿はなんだかとても悲しく、寂しく思えてくる。なんとかしなくては、とよくわからない使命感がじくじくと僕を支配するものだから、「あの」そうっと泳ぐ金魚に指を這わせ、「綺麗な金魚、ですね」優しく、優しく。

「え……?」

顔を上げた彼はぱちりと瞬いてじっと黒子を見つめた。どこまでも透明なその眼差しはそこはかとない居心地の悪さを与えてくる。
そうしてしばらく黒子を見つめた後、彼は柔く微笑んだ。今にも消えてしまいそうな儚く柔らかな笑顔だった。「ありがとう」嬉しそうにふわふわと笑う彼は、「この金魚ね、」とスケッチブックに触れる。

「お皿の中にいたの」
「お皿?」
「うん、あかしくんが持ってきたお皿」

あかしくん。確かに彼はそう言った。

「泳いでて、一匹、こっちの金魚が黒いのに食べられちゃって」

すいっと彼の指が泳いで、赤い金魚が黒い金魚に食べられたと赤い金魚をつつく。「でもあかしくんは金魚なんていないよって言うし、」スケッチブックに爪を立て「見たら金魚もいなくなってた」がりがりと彩られた場所を引っ掻いていく。
がりがり、ざりざり。その音は妙に耳に障る。丸い爪に掻かれて剥がれた細かな色が、彼の青白い指先に纏わりつき汚していくのを眺めながら、何かそわそわとした落ち着かなさを黒子は感じ始めていた。ここにあまり長居してはいけない。
けれどどうしても気になることがあった。

「あの、赤司君って、赤司征十郎君ですよね?」
「うん……知ってるの?」
「はい、友達です」
「おともだち」
鶴賀君も赤司君の友達ですか?」
「……わかんない。でも」
「でも?」

「あかしくんは、ずっと傍にいるって」

そこにあるのは、無垢に透き通った寒気のする幼子の笑みだった。

いびつの結晶化