※赤司征十郎と閉じ込められている子の夢現話
僕しかいない室内は静かなはずなのにひどく煩かった。ここには無い窓の代わりにかけられた青空の絵画たちと傍に飾られた向日葵が、ひそひそざわざわ騒めいている。
ここに送られてくる空気はどれもこれも息の根を止めんとばかりに冷たくて、上手く吸い込むことが出来ない。吸っても吸ってもその冷たさに突き刺されて吐き出してしまって、ただ苦しくてじんわりと涙が滲む。助けて、「たすけて、あかしくん」上手く息が出来ないんだ、死んでしまいそう。
必死に荒い呼吸を繰り返し少ない酸素を取り込もうとするけれど、ざわめきが邪魔して集中出来ない。死んでしまえばいいのに、と無様にもがく僕に囁き続ける向日葵はいやらしく笑っていた。同調するように空気の温度はどんどん下がっていって、なんとか僕を廃棄しようとする。
頭がくらくらする。聞こえる嘲笑が僕の中から酸素を次々と奪っていくものだから、ああ、くらくら、ゆらゆら。意識が沈んでいこうとする。「やめてよ」耳鳴りが僕の体温を根こそぎ盗んでいく。「あかしくん、たすけてよ」ゆっくりと底の見えない沼へ沈んでいく意識の向こうで、彼が優しく笑いながら僕を見ているような気がした。
家の近くに君臨する嘘くさい教会の鐘の音が、沈んでいた僕の意識を浮上させる。どろりと降る酸素は変わらず冷たい。キン、とピアノ線が脳に突き刺さりじわりじわりと耳鳴りの音量を上げていく。歪む僕の顔にまた向日葵が蔑むような笑みを見せ、それを冷たい床に片頬くっつけたままじっとりと見上げれば嫌そうに目を逸らす。僕は向日葵に嫌われているのだ。
冷え切った体をゆっくりと起こし、少しずつ息を吸い込み、深呼吸をする。凍った空気が徐々に体内に入り、肺を締め付け痛みだけを置いていく。まだ薄く濁ったままの視界が、白いテーブルに置かれた深いお皿と銀色に輝くスプーンを捉えた。今日のご飯は何だろう。耳鳴りは途切れない。
重たく怠い体を引き摺って椅子の上に身を投げる。固い椅子は僕に座られることをいつも嫌がりぎしぎしと騒ぎ立てるけれど、なんだかんだいって優しいから振り落とすことまではしない。そんなところが向日葵は嫌いなようで、ほらまた何か言ってる。
体同様重たい瞼を押し上げてお皿の中を覗き込めば、綺麗な二匹の金魚がすいすいと泳いでいた。赤い尾ひれがひらひらと揺れ、それを追いかけ捕まえようともう一匹、黒い金魚が滑っていく。薄汚れた水の中で息をしつづける金魚が、まるで僕のように思えてしまって、少しだけ笑った。
「食べないのかい?」
金魚をぐるぐる追いかけていた僕の頭を誰かがそうっと撫でる。耳の形を辿った指は泣きたくなるほど優しくて、ひんやりとしたその指先は彼のものに違いない。そもそも、僕に触れる人など彼以外に居ないのだけれども。
そうしてとうとう始まってしまった金魚の共食いをただ為す術もなく眺めていた目を動かせば、優しい微笑みをたたえた彼が僕を見つめていた。「あかしくん」金魚が食べられてるの、どうしよう。彼は不思議そうに瞬いて「金魚?」お皿を覗き込んだ。
揺れ動く彼の燃えるような赤が、尾鰭やお腹を喰い千切られ飲み込まれていったあの金魚と同じ色に見えてしまって、「あかしくんも食べられちゃうの?」不安になる。彼がいなくなってしまったらそれこそ本当に、僕はひとりぼっちだ。助けてくれる人も優しく撫でてくれる人もいない。それは、いやだなあ。彼はおかしそうにくすりと笑って「食べられないよ」とまたそうっと僕を撫でた。
「ほら、冷めてしまう前に食べて」
彼は僕にスプーンを握らせた。彼がわざわざ用意してくれたものだとしても、ちょっとばかり金魚は食べたくないなあと思って冷たいスプーンを拒絶する。冷めてしまうって、お水はもとから冷たいのに変なことをいう。「食べたくない?」どこか具合が悪いのかと彼は僕のおでこに触れ、首筋に触れ温度を確かめる。温かい手。冷え切った指先とは大違いだ。
「金魚は食べたくないよ」くすくす、向日葵が控えめに笑った。彼が来ると向日葵も椅子も、みんな大人しくなる。もしかしたら彼に怒られないようにいい子を演じているのかもしれない。ひんやりとしていた意地悪な空気だって、今は暖かい。ずっとこうだったらいいのに。
スプーンをつき返された彼は困ったように眉をさげ「金魚はいないよ」とお皿の中にそれを突き刺した。そんなことないよ、だってほら、「あれ?ほんとだ」おかしなことに黒い金魚は姿を消していて、かわりにくたくたの野菜や小さく切られたお肉の入った美味しそうなスープがきらきらと光っていた。変だなあ、あの金魚はどこにいったんだろう。
「食べられる?」
「うん」
安心したとばかりに顔を綻ばせた彼は僕の向かいに腰を下ろしたまま、スープを啜る僕をただ眺める。
相変わらず面白くなさそうにざわめく青空をちらりと見て、どうすれば静かになるのかななんて考えてみるけれど、僕のちっぽけな脳味噌じゃあ何も思いつくことは出来なかった。不満げな向日葵が僕の背中に文句を投げつける。彼がいるからその声は小さい。
「あかしくん、今日はいつまでここにいてくれるの」
ずっといてくれればいいのに。でも彼にも色々やることがあるようだから、あんまりわがままは言えないのだ。「水緒が眠るまでいるよ」赤い目がきらきら光って、あのゆらゆら優雅に揺れた尾ひれのように見えた。
* * *
けたたましい電子音で目が覚めた。隣に誰かいる。視界を掠める赤に、そういえば昨日久しぶりに彼が泊まっていったのだと思い出した。繋がったままの手のひらに、また思い出す。昨日、なかなか寝付けなかった僕の手を握って一緒に寝ると彼は言ってくれたのだ。握ったままでいてという僕の我が儘を彼はちゃんと聞いてくれて、まだ聞いてくれている。
彼がいるからかいつもより空気は優しく温かい。ゆっくり吸って、吐いて、重たい瞼をちゃんと正す。音の在り処を探せば彼の枕元で、電子音の正体はどうやら彼の携帯電話のようだった。
「あかしくん」少し痛いくらい強く握られた手を揺する。僕のものよりも長くて相変わらず冷たい彼の指はぎっちりと食い込んでいて、多少揺すったところで外れることはなかった。「あかしくん」眠っている彼はあまり好きじゃない。そのまま二度と起き上がって来ない気がして、怖くなる。「起きて、あかしくん」電話が鳴ってるよ、はやくしないと怒られちゃう。
あれ、でも、僕は彼が怒られているところを見たことがない気がする。
向日葵も青空も、みんな彼には従順だ。怒られるのも責められるのも、いつだって僕ばかりで、それを考えるとなんだか少し変だなあと感じる。「あかしくん、はやく起きて」大きくて綺麗な彼の手にちくりと少しだけ爪を立てる。伸びた爪が柔らかな肌へと飲み込まれて、彼の眉間に皺がよった。
「……どうしたの、水緒」
痛いだろう、と掠れた声で僕を優しく窘めた。そして握る力をほんの少し弱めて僅かに潤んできらきらした真っ赤な目を細くし、そうっと頬を撫でる。輪郭を辿る指の動きがくすぐったい。
「お腹減った?」
「ううん、あのね、電話、鳴ってたよ」
「ああ……ごめん、煩かっただろ」
また頬を撫でられる。じんわりと溶かすように目元も優しく撫でられて、なんだかだんだんと眠たくなってしまう。うとうとしだした僕に彼は低く喉で笑って、僕から手を離した。そしてつい先程とは打って変わって沈黙を保つ電話に触れ、「ああ、もうこんな時間か」面倒そうに呟き放り投げた。
繋がったままの手に視線を這わせ、こんな時間ってどんな時間だろうと重い頭を働かせていると、ぎゅうっと苦しいくらいに抱き締められる。彼に初めてこうして抱き締められたとき、僕はその温かさにただただ驚いて、ちょっとだけ泣いてしまった。そんなことをされたのは初めてだったし、未知の感覚が少し怖かったのだ。懐かしいな。
微睡みながらそんなことを思っていると、体が離され少し冷たい空気が入り込んできた。離れていく温度にちょっとだけ息が詰まる。「どこ、いくの?」ぽろりと声が落ちて、拾い上げた彼が眉をさげる。
「学校だよ」
随分と久しぶりに聞いた気がする。学校、ずっと行ってない。そうか、いつも彼がいないのは学校があるからか。
「ねえ、あかしくん」
向日葵が僕の脳を見透かして、また馬鹿なことをと嘲笑う。
「僕も行く、学校」
驚いたように、でも少し嬉しそうな不安そうな嫌そうな、よくわからない顔で彼は笑った。
* * *
水緒の手はいつも死んだように冷たい。じっとり暑い夏の日もその温度は変わらず、汗ばむこともなかった。といっても、彼の部屋はいつも過ごしやすい温度を保っているから余程のことが無い限り汗をかくことも無いのだけれど。
ふわりと安定しない、いつ転ぶか不安になる夢心地の足取りで隣を歩く小さな体。転んで怪我をしないか心配で、冷たい手を握る力を強めてなるべくゆっくりと進む。
彼と知り合って間もなかった頃、学校は嫌いだとひどく怯えた姿をみせていたのに何があったのか彼は自分から学校に行くと言った。俺が行くなら行く、と。
「あかしくん」
くん、と手が引かれる。真っ黒い澄み切った無垢な瞳が不安そうに歪んでいた。
やはり怖いのだろう。学校で何があったのか調べてみたけれど苛めらしい苛めもなく、よく分からなかった。だがあれだけ怯えていたのだから何かがあったのだろう、この子にしか見えない、聞こえない何かが。
「帰る?」
「……ううん、あかしくんといる」
随分と可愛いことを言ってくれる。泣きそうに瞳を揺らめかせながら首を振るその姿に、今すぐ家に帰って閉じ込めてしまいたくなってしまうではないか。それをゆっくりと飲み込み抑えこみ、優しく手を引いてゆっくりとまた歩みを進める。
そして異変が訪れたのは校舎が見えてきてからだった。どんどん荒くなる息に、可哀想なほど青い顔。痛いほどの力で強く食い込んだ指先が、けれど離せとばかり手の甲に爪を立て始める。全身でもって縋るように体を寄せ呟くように何度も俺の名前を呼ぶ声は振るえ、その眼は焦点が定まっていない。
彼は一体何に怯え何を感じ何を見ているのか。
「水緒」
「あ、あかし、くん」
「大丈夫?やっぱり帰るかい?」
今にも落ちそうな涙を指先で拭い、目尻を辿る。彼は緩く首を振り俺の手の甲に爪を立て、それでも行くと言った。「あかしくんがいるから、まだ優しいから」だから行く、と震えた声。
彼の言うことはよくわからないことが多い。でもあかしくんがいるからとささやかな笑みと共に零された言葉に、胸をとてつもない優越と愛おしさが満たしていく。ああ彼には俺しかいない、彼の寄る辺は、俺だけなのだ、と。