黄瀬とテツに誘われ飲みに行く道すがら、黄瀬が駅から出てくる大和の姿を見つけた。赤司の初七日以来見ていなかったから約一ヶ月ぶりだ。
仕事帰りなのだろうスーツ姿の背は、なんだか以前よりも随分と痩せたように見える。線が細くなったというか、薄くなったというか、なんというか、テツみたいなのだ。テツみたいに見失うような薄さではないのだけれど、どことなく似ている。
ふっと目を離した途端消えてしまいそうな、儚い、とでもいうのだろうか。
大和は赤司と同じく、いつもやたらと存在感があってそこにいるだけで人目を惹くような、何もしていなくてもむやみやたらと目立つ人間だった。
だというのに今は全然違う。変わらず人目を惹くけれど、ただ、違うのだ。ここにいるのにここにいないような、そんな希薄さがある。
「よお」
とんっと叩いた肩の細さにぎょっとした。こいつはこんなに細かっただろうか。俺や黄瀬ほどではなかったにしろ筋肉質で、華奢さとは無縁の男だったのに。
「ああ、青峰か。久しぶりだな」
力強くて真っ直ぐな目だけは俺の知る頃と何も変わっておらず、少しだけ安心した。
「黄瀬も久しぶり」
浮かべられた柔らかな笑みをその綺麗さにまた驚いた。もともと整った顔をしているとは思っていたけれど、なんだか前よりもそれが増している気がする。何もかも全て削ぎ落としてしまったような、けれど心から満たされているような、不思議で、どこかざわざわとさせる美しさがそこにあった。
少しだけ近況報告や他愛ない話をした後、黄瀬が飲みに誘ったが、大和は早く帰らないといけないとどこか幸せそうに目を細めて首を振った。
何かが引っ掛かる。
あの日の強張った横顔と、今の顔。この変わりようは何なのだろう。この男ではなかったら誰か支えてくれる良い人でも見つけたのかとも思うところだが、こいつの場合、それは絶対に有り得ないことだ。あれだけ執着し合っていた相手のことをそう簡単に飲み込み、割り切って、過去とすることが出来るわけがない。
だとすれば、今のこれはいったい何なのだ。
まさかペットでも飼い始めたか?アニマルセラピーなどと言われるぐらいだから、と思っていたところで、手を振り去って行くその背に一瞬あの見慣れた赤色を見た気がしてはっと目を見開いた。
なんだ、今の。
「青峰っち」
強張った声に振り返り見れば、自分と同じような強張った顔をした黄瀬が俺とテツを見ている。
「マトっち、さっき今日は香水付けてないって言ってたっスよね」
「あ?ああ……」
そういえば黄瀬が急に、香水を付けているかどうかと聞き出したことを思い出す
「マトっちからさ……赤司っちと同じ香水のにおいがした」
それは、一体どういう意味だ。もう一度見た歩道にはもう大和の姿はなかった。
* * *
征十郎は日没とともに現れて、夜明けとともに去って行く。短い間しかここにいられないけれど、その短い間だけでも触れ合えるのはとても幸せだ。
「ただいま」
鍵を閉めながら奥へ声を掛ければ足音が聞こえはじめ、振り向きざまにぎゅうっと抱きしめられた。この約一か月でもうすっかり慣れてしまった冷ややかな体温に安堵すら覚えてしまう。今日も征十郎はここにいる、俺の傍にいるのだ、と。
彼のにおいにほうっと息を吐きながらもう一度ただいまと告げてすりすりと柔らかな髪にほほをすり寄せる。いつも通り返事の代わりにもう一度ぎゅって抱き締めてくれるのかと思っていると、おかえりと耳朶に微かな吐息と共に随分と懐かしい声が聞こえてきた。驚きに硬直する俺の耳に、くすくすと笑う優しい声が届く。
今、なんで、どうして、とぐるぐると疑問が頭を巡って思考が止まる。
「征十郎……?」
恐る恐る身体を離して、上擦った声で名前を呼べば、なあにとあの頃と寸分も違わぬ柔らかく慈しむような声で返される。それからもう一度、おかえり大和、と俺のことをとびっきり甘やかしてくる時の笑みを征十郎は見せた。
嗚呼、どうしよう。ぐっと息がつまり熱い塊がせり上がって視界が滲みだす。
彼はそんな俺に困ったような優しい微笑みを見せて、そっと壊れ物に触れるように目尻に触れた。
「征十郎」
「うん」
「征、」
「うん」
「征……っ」
「ふふっ、大和は随分泣き虫になったね」
「……お前のせいだろぉ!」
満足げに微笑む征十郎をぐずぐずの顔のまま睨みあげれば、より一層嬉しそうに笑みを深くされる。
俺の中が征十郎のことでいっぱいいっぱになっているのが一等お気に入りという大層なご趣味の征十郎はは、こんなふうに彼のせいでぐずぐずのだめだめになっている俺を見るといつもいつも至極嬉しそうにしていた。今も征十郎は幸せそうにくふくふ笑っている。
お前のせいで俺はめちゃめちゃになっているのにって思うけれど、征十郎が幸せそうにしているとこが俺は一等好きなので結局まあいっか、となってしまうのだ。
それからベッドに入るまでも、入ってからも延々と、今までのものを埋めるようにたくさんの言葉を俺たちは交わした。
征十郎とこんなにも会話を重ねるのはもしかしたら初めてかもしれない。今までは言わなくても伝わることが多かったからか、二人でいるとよく黙ってくっついていることが多かったのだ。
懐かしい彼の声が、慈しむように俺の名前を呼んでくれる。たったそれだけで堪らなく幸せになって笑みが零れてしまう。
「なあ」
「ん?」
「どうして急に話せるようになったんだ?」
その一瞬、征十郎の顔が悲しげに歪んだ気がした。けれどすぐにあの穏やかな笑みに紛れてしまい分からなくなる。誤魔化すようにどうしてだろうねとと言う顔がどことなく辛そうで、それ以上追究することは出来なかった。
握った指先は相変わらず凍りついていて温まることはなく、触れ合った皮膚はどんどん熱を吸い込むだけで一向に俺の熱が移りることはない。けれど幸せだと思う。
心音の聞こえぬ胸に頭を寄せ、目を閉じた。
「おやすみ」
額に冷たい唇が触れた。もうじき、夜が明ける。
* * *
今日は征十郎の七七日忌の法要があった。征十郎が死んでからもう四十九日も経ったのだ。
家に帰れば征十郎がそこにいて触れられるからか、なんとなく実感がわかず不思議な心地がした。
「久しぶりにあいつらに会ったぜ」
夕飯に買ってきた弁当をつつきながら、向かいに座る征十郎を見上げた。
仲良くなった頃からそうだが、征十郎は俺が何か食べていると決まっていつもどことなく楽しそうな顔で食べ終わるまで眺めている。俺が美味しそうにいっぱい食べるから、といつだか聞いたときに言っていたのを思い出しながら、飲み込んだ。
「皆元気そうだった。緑間は少し?せてたけどな」
「そう」
「……もう一ヶ月以上も経つんだな」
そうだね、と頷いた征十郎の目元には長い睫毛が淡い影を落としている。
どことなく漂う雰囲気がおかしい。いつもと違って緊張しているような、強張っているような、何か言いたくない事でもあるような。
どうしたのかと見つめていると、征十郎は一度ゆっくり息を吐いてから俺を見た。何かを決めるときの強くて鋭い眼差しに、知らず背筋が伸びる。
「大和」
「なに?」
「所謂四十九日っていうのは、霊がここにいられる期限のようなものなんだそうだ。この世とあの世を自由に行き来出来る期間が四十九日で、五十日目にはここを去って、もう二度と戻らない。知ってたか」
征十郎の言葉にすうっと血の気が引いて体温が下がっていく心地がする。何の話をしているのかいまいちよく分からなかった。いや、分かりたくなかった。
「いや……」
征十郎は少し言い淀むように目を彷徨わせた後、ゆっくりと口を開いた。
「僕は、もうここには来られない」
何を言われるのか分かっていた。けれどそう言われた瞬間、音が消えて一瞬目の前が暗くなる。
「や、やだ、嫌だ。そんなの、俺は、」
何度あの喪失感を味わえというのだ?俺だってどこかでは分かっていた、ずっと征十郎がここにいるわけはないなんてこと、こうして口にされる前から。
けれど、どこかで信じてもいたのだ。征十郎はずっとここに、俺の傍にいてくれるんだって。なのに、また俺だけ置いてどこかへ行ってしまうだなんて、そんなの耐えられるわけがないのだ。
「大和、まだ僕の話は終わっていない」
強い、有無を言わせないような声が押さえつけてくる。
「大和、もし、もしも僕が、お前を連れていこうとしたら、お前は来てくれるか」
昔に聞いたことのある言葉だった。願うように揺れるその赤い瞳も見覚えがあった。首から下げたままのペアリングに征十郎の指が触れる。
あの時の言葉が今漸く解ったような気がした。解ってもなお、俺の答えは昔から変わらない。
頷いた俺の頬に触れた彼の手は、あんなに冷たかったのが嘘のようにあたたかかった。
君のために終わらないおはなし
rewrite:2022.04.11