02

少し飲み過ぎてしまったかもしれない。少し頭が揺れるだけでぶれる視界に溜息を吐きながら思うように動かない指で鍵を回す。
ただいま、と口にしそうになって飲み込んだ。習慣とはなかなか消えないもので、返事のない挨拶は虚しいだけだとわかっているくせについ口にしそうになる。
靴を脱ぎ捨てそのまま廊下に崩れそうになる足をもたもたと動かし、ソファへ倒れ込んだ。ひどく眠たい。ひんやりとしたソファが火照った身体に心地よくて、このまま寝てしまおうと溶けるように意識を手放した。
そうして、夢をみる。
強く、突き刺すように真っ直ぐ俺を見つめる赤い瞳はくるくると色々な感情を浮かべ、何よりも如実に言葉を語っていた。その瞳を見つめるのも、その瞳に見つめられるのも堪らなく好きで、ふと気付けばただ互いに見つめていることさえあった。
その征十郎の目が、じいっと俺を見ている。珍しく、少しだけ迷うように揺れている赤はわずかな不安と、期待と、確信が混ざり合った不思議な色をしていた。なに、と瞬けば征十郎はふうっと息を吐いて、微かに笑う。

『もし、お前を連れていこうとしたら、お前は来てくれるか』

それがどこで、いつなのか、征十郎は言わなかった。ただじっと願うように俺を見つめている。
そっと服の上から優しく、けれど押さえつけるように首から下げていたペアリングに手を触れさせた征十郎が、その時何を願っていたのか俺にはよく読めなかった。
それでも俺の答えはいつだって変わらない。それを一番よく知っているのは、他の誰でもない征十郎だ。

不意に、頬に冷たさを感じて意識が浮く。夢だと分かっていても、征十郎がいるそこにずうっと浸っていたかったのに、意識はどんどん覚醒していく。
薄く目を開けると目の前に誰かの影が見えた。起きたばかりで焦点の合わない目が、見慣れた燃えるような赤を捉える。

「……征十郎?」

すっかり掠れ消えかけた声で焦がれる名を呼んで手を伸ばす。まだこれも夢なのだろう。それでもいい、もう一度触れられるのならばなんだって良いのだ。

「征十郎」

ゆっくり触れた肌の刺すような冷たさが、これが現実だと強く指し示してきた。驚愕と困惑に息を飲む俺の手に彼の大きな白い手が重なる。いつだってあたたかかった手は凍るほど冷たく、それ以外何も感じさせない。
この冷たさは、死人の冷たさと同じだ。
でも、触れた肌は泣きたくなるほど冷たかったけれど、それでも、俺を見つめる眼差しも愛でるように髪を梳く指も、呆れる程優しいままで何も変わっていないのだ。何ひとつ、変わっちゃいない。
その事実につん、と鼻の奥が痛みを訴え視界がゆらゆら揺れだして、赤が滲み、はたりと落ちる。驚いたように目を丸くした征十郎が、困ったように眉を下げて微笑み頬に触れてきた。
次々と落下していく涙を丁寧に拭っていくその指の変わらぬ柔さに、余計胸が痛んだ。彼がいると弱くなる。泣いてしまう。もう二度と泣くまいと思っていたのに。

「征十郎」

目の前に征十郎がいる。あの日喪ったはずの存在が、ここにいる。

「征十郎、」

縋るように腕をまわして、何度も名前を呼んだ。
夢なんかじゃなく、確かにここにいて、また触れられる。それだけで、あとはもうどうでもよくなってしまう程俺にとって彼は必要だった。
突き刺すような冷たさも聞こえぬ鼓動も、そんなこともう、どうでもいいことなのだ。彼がここにいてくれるなら、これが本物かどうかさえ、今の俺にはもう関係のないことに思える。

「おかえり、征十郎」

ぎゅうっと強く抱きしめれば、同じだけの強さで抱き返してくれる。宥めるように背中を撫でる手の大きさに、安心してまた涙が溢れた。

「   」

ふと耳元で空気が動いた気がして身体を離すと、征十郎は少しだけ苦しそうに笑っていた。

「征十郎?」

今、なにか言ったか、と変わらず美しく煌めいている赤い瞳を見つめれば、彼もただ薄い微笑みを広げたまま見つめてくる。寂しげに揺れたその奥に、眉を寄せた時。

「   」

確かに唇は動いたのに鼓膜は震えず、何も聞こえない。あのくすぐったい程優しい慈しむような声は聞こえてこない。あの甘くとけるような声が呼ぶ俺の名を、もう二度と聞くことはないのかと思うと堪らなく悲しくなった。
ここに征十郎はいるのに。
縋るように手に触れ握れば、ちゃんと握り返してくれる。涙は止まらなくて、征十郎はまた困ったような顔をしてから俺の濡れた頬を拭った。
赤い瞳が揺れている。柔く触れてきた唇は冷たく、けれど慣れ親しんだ変わらぬ柔さを持っていた。俺が泣き止むまで、征十郎は何かを伝えるように何度も何度も、ただ触れるだけのキスを繰り返した。


* * *


遠くから聞こえてくる電子音に、無理矢理眠りから引き起こされた。
手探りでアラームを止めて、小さく息を吐く。重怠い身体は思うように動かず、ぬるい布団の中で緩慢に寝返りを打った時ふと隣に何も感じなくて薄目を開けた。

「征十郎……?」

いない。
冷え切ったシーツは彼の体温と同じだけれど、彼とは違い突き放すような無機質な冷たさがあった。何度か名前を呼んでみるけれど、物音もしなければ気配もしない。
消えてしまった。
昨日、二度と触れることはないと思っていたあの赤い髪に触れ瞳を見つめたというのに、確かにそこにいたはずなのに、何処にも見当たらない。まるで最初からいなかったとでもいうように、全て夢だったとでもいうように、跡形もなく消えてしまった。
ベッドの上に座り込み呆然と部屋を見回す。
もしかしたら、あれが本当に最期だったのかも知れない。別れを告げに来たのだろうか、これが最後だと、これで終わりだ、と。
優しく触れてきた指の感覚と触れた唇の冷たさを思い出してしまった頭が鈍く痛んだ。あんなに嬉しかったのに、今はどうしようもなくとても悲しい。息を吸う度にきりきりと絞めつけるような痛みを感じて強く目を閉じた。
早く準備しなければ遅刻してしまうと分かっているけれど動けなかった。滲んだ視界でも見つけてしまった鬱血痕にベッドへ倒れ込んだ。
記憶の中に確かにある愛おしそうに細まった赤い瞳がするりするりと絡みついて、身動き出来なくさせてくる。あんまりだ、確かにここにいたという痕跡だけこんな形で残していって、なんて酷い。
胎児のように丸くなって、ともすれば叫んでしまいそうになるのを堪える。もう今日はどこにも行きたくない。ただ眠って、何もかも忘れてしまいたい。
ぐずぐずに崩れた声のまま会社へ休暇を告げ、そのまま遠くへ投げ捨てた。
幻影を追い払うように目を閉じて、逃げるように意識を沈ませていく。
そうして夢を見る。
暑い夏の日に出掛けた海で、俺たちは海水に浸かるでもなくただふらふらと海岸沿いを歩いて、他愛もない話をしていた。征十郎が笑って、俺も笑って。相手がいればそれだけで俺たちは満ち足りていた。
大和、と優しく征十郎が俺を呼んだ。いつか、俺はこの声を忘れてしまうのだろうか。


ひやりとしたものを頬に感じ、その温度にぬるま湯に浸っていた思考がずるりと引き上げられる。引っ張られるままに少しだけ瞼を押し上げた。
随分と長い間眠ってしまっていたようで、ぼんやりとした視界に映る室内はすっかり暗くなっている。一体今は何時だろう。朝に会社へ電話したきりずっと寝ていたせいでひどく腹が空いて、流石に何か食べようとベッドから身体を起こし、息を飲んだ。

「なんで……」

日が沈んだ薄暗い室内で赤い宝石が煌めいていた。
そこだけが色を持ったように浮き上がってさえ見え、はっきりと鮮やかなその色。征十郎、と音にならぬ声で呼べば、またあの少し困ったような微笑みを浮かべてから、唇を寄せてくる。
ぞっとする程冷たく柔らかな感触が薄い皮膚越しに伝わってきた。夢のように消えてしまったはずの男が、また、目の前にいる。

「征十郎?」

夢でないのかと確かめるように呼べば頷き唇が触れた。触れ合うだけの戯れのようなキスからは苦しくなるほどに彼の愛を感じられて、また堪らなくなる。
ぬるい温度を頬に感じて、困ったように笑う彼の顔を見て、ああまた泣いているのだと気付いた。一度喪うということを知ってしまってから、涙腺は壊れてしまったようでいうことを聞かない。
頬を氷の指が滑る。

「征、おかえり」

二度目の嗚咽混じりの言葉に、征十郎は嬉しそうに目を細めてただいまと抱きしめてくる。慣れ親しんだ彼のにおいに安心して、目を閉じた。

「どこ行ってたんだよ」

いなくなったと思えばふらりと現われて、また消えて、それから帰ってきた。返事はないけれど抱きしめる力が強くなった。少し痛いくらいの抱擁に愛おしさが募る。
きっとこの関係に先はない。けれど、無駄だと分かっていても、それでも歯止めは効かないのだ。そんなもの、とっくの昔に壊れてしまっている。

「なあ、もうどこにも行くなよ」

ここに、ずっとここに居ればいいのに。無理だというなら俺も連れていってほしい。置いていかれるなんて耐えられないのだ。いつかの問いに、俺は頷いただろう、どこまでも一緒に行くと。なのにどうして置いていくのだ。
首筋に触れた唇が微かに動いた。ごめんと言ったように感じたのはきっと気のせいじゃないだろう。薄暗く沈んだ部屋に引き攣れた嗚咽だけが響いていた。

ふやけた指で傷つけて

rewrite:2022.04.08