02

が買ってきてくれたもちもちとした手触りのクッションは、丸まればその上で眠れるくらい大きく結構居心地が良い。三週間近くも経てば、大体の人間はその場の環境に慣れてくるのだろう。俺ももう床での生活に慣れてしまった。簡易トイレにだけはいまだに慣れないが。
さらりとしたもちもちに頬をくっつけたままうとうとしていると、錠の開く音がしてが部屋に入ってくる。

「夜ご飯だよー」

今日は小さな一人用の土鍋とお椀が置かれた。餌のような食事だったのはあのはじめの一度きりで、それ以降は俺もと同じものを食べている。朝と晩の二度、というのは変わらないけれど美味しいものが食べられるというのはそれだけで色々と保たれるものだ。
俺のペット生活(のようなもの)が始まった日、買い物から帰ってきたに俺は自分の思うことを話した。それを受けて、は俺に“おしゃべりする許可”と前と変わらない食事を出すことを約束してくれたのだ。食事も、床に直置きではなくミニテーブルを用意してくれることとなった。
そうしての決めたルールはいくつか変更になったが、俺が床で寝ることは変わらなかった。何かこだわりがあるらしい。

「今日は月見うどんにしたの。この前お出汁のパック貰ったでしょ?」
「良い匂いだね。あ、うさぎ」
「お月見といえばうさぎだから」

つやつやの温泉卵の横にうさぎ型の人参がふたつ並んでいる。
から椀を受け取り、小さく切られたうどんをスプーンで掬い口に運ぶ。良い匂いの通り、口に含んだうどんはしっかりと出汁がしみ込んだ美味しいものだった。本当は箸で長いまま啜りたかったけれど、これもまた何かのこだわりで俺にはスプーンの使用しか許されていない。まあ、何も使えないよりはずっと良いが。
先に食事をすませているに見守られながら、あと少しで食べ終わろうというとこで扉の向こうから甲高い電子音が聞こえてきた。電話だ。

「……出なくていいのか」
「いい」

一気に機嫌の悪くなってしまったにどうすることも出来ず、椀に残ったつゆを飲む。

、聞いてもいいかい」
「なあに?」
「俺の電話って、どうしてるんだ?」

もともと家でと居るときはスマートフォンにあまり触ることはなく、帰ってきたらリビングのテーブルに置いていた。だからきっと、今もそこにあるのだと思う。高校生の頃ほど頻繁ではないが黒子たちや玲央たちとメッセージのやり取りをしていたし、ゼミやサークルなんかの連絡も入っているのではないかと思うけれど、それはどうなっているのだろう。
パスワードは知っているだろうからが対応してくれているのか、それとも放置されたままなのか。
ふと思い出すのは、黒子の苦々しい顔と黄瀬の青褪めた顔だった。きっと、今の状況を知れば黒子は「だから言ったのに」とまた顔を顰めるのだろう。

「征十郎くんに電話なんてないでしょ?」
「えっ」
「犬は電話なんて使わないよ。アニメや漫画じゃないんだから」
「……そうだね」
「誰と連絡取りたかったの」
「いや、そういう訳じゃない。ただ少し気になっただけなんだ、ほら、電話の音がしたから」
「……そんなこと気にしなくていいよ。征十郎くんは僕のことだけ考えてればいい」

空になった食器を手に、は部屋を出て行く。錠の下ろされた扉の向こうで、また電子音が鳴り響いていた。


* * *


昨日の夜からの機嫌は良くないままで、今日の朝ごはんは魚肉ソーセージとキャベツを切って混ぜ合わせただけの調味料も掛かっていない大変ヘルシーな一品のみだった。
食事の際に使用していたテーブルも今は用意されず、床上に皿を置かれてしまった。

、スプーンをもらってもいいか」
「どうして?」
「どうしてって……」
「犬はスプーンなんて使わないよ」

冷え切った眼差しでそう言うと、は部屋を出て行った。
こうして用意してくれているだけ良い、そう言い聞かせるようにしてキャベツと魚肉ソーセージを指で摘み口に含む。キャベツの仄かな甘みとソーセージの塩けになんだかすごく悲しくなってしまった。一体自分はここで何をしているのだろう、と。
最後までに付き合うと決めているけれど、それでも時々ひどく逃げ出したくなる。
といると、楽しくて幸せだと感じることが多い。こんなにも自分を好いてくれる人はきっとこの先現れないのではないかと思うほど彼は俺を愛してくれているし、俺の欲しかったものを与えてくれる。
けれど同時に、どこか深いところに引きずり込まれていくような恐ろしさがあるのだ。深い奈落に足を掴まれて引きずられていくような、いつの間にか底の見えない沼に足が嵌っていてゆっくりと沈んでいくような。
空になった皿を置き、タオルケットを頭から被る。クッションの上で小さく丸まって、はやく時間が過ぎればいいと目を閉じた。


いつの間にか眠ってしまっていたようで、優しく背を撫でられる感触に目が覚めた。
タオルケットをまくって顔を出せばが穏やかに微笑んでいる。背を撫でていた手が、くちゃくちゃになった俺の髪をゆっくりと撫でた。

「おはよ、征十郎くん。髪すごいことになってる」
「うん……」
「朝はごめんね、八つ当たりしちゃった」
「気にしなくていいよ」

もう一度ごめんね、と言ったが今にも泣いてしまいそうな顔をするから、思わず腕を引いて胸に抱き寄せた。二人分の重みに体がクッションへずぶずぶ沈んでいく。

「もちもちだね」
「ああ、結構寝心地良いんだ」

ちょっとだけ笑ってから、涙の滲んだ顔を隠すようにはぎゅうっと抱き着いてきた。タオルケットを引っ張り上げて二人で包まり、抱き込んだ細い背を彼が先程そうしてくれたように優しく撫でる。

「征十郎くん、出たい?」
「……どうだろう。どっちでもいいかな」
「昨日の電話ね、黄瀬くんからだったんだ」
「うん」
「僕が出たら、お返事がありませんが元気にお過ごしでしょうかって、すっごい丁寧に聞かれて」
「ふふ、あいつもちゃんと敬語使えるんだな」
「……会いたいんだって」
「俺に?」
「征十郎くんに、会いたいって伝えておいてって」
「……そう」
「もし会えるなら連絡くださいだって。会いたい?」

俺は彼らに会いたいのだろうか。会った時、何を聞かれるかはもう分かっている。それに俺はなんと答えるべきなのだろう。
彼らは俺に聞きたいことや話したいことがあるのかもしれないけれど、俺には無い。何も無いのだ。

「分からない。多分、どっちでもいいんだと思う」
「じゃあ、会うって伝えておく。終わったらデートしよ」
「……久しぶりだな」
「ちゃんとオシャレしてね」
が選んで」
「じゃあお揃いにしてもいい?」
「もちろん」

楽しみだとくふくふ笑うにつられるように、俺も笑った。もう間もなくこの異様な生活も終わるのだろうと思うと、心底安心するのと同時にどこか寂しく思える。
きっともう、俺は随分と沈んでしまっているのだ。

えいえんは満ちないからうつくしいのか

rewrite:2022.05.26