01
※赤司征十郎が犬になったりならなかったりする話
※「心中」のその後



寝返りを打とうとして全身に伝わる硬い感触に目を開けた。少しぼやけ滲んだ視界に、二人で選んだ大きなクローゼットの下半分が見える。
妙だ。
いつもベッドに寝転がったときは上半分しか視界に入らなのに、と思ったところでじんわりと右半身から染みるような冷たさを感じハッと目が覚めた。体の上にかかった眠る前に被った物とは違う、確かのお気に入りのふわふわのタオルケットに疑問が浮かぶ。そして視界の端に椅子の足が見え、俺がベッドだと思っていたここがフローリングの上だと気付いた。
落ちたのだろうか、寝相は俺もも悪くないはずなのだが。随分前から床に転がっていたのだろう、体を起こすとぎしぎしとした違和感と痛みが広がっていく。
息を吐きながら体を伸ばしベッドの上にの姿を探したけれど、どこにも見当たらない。寝ていた跡だけがある少し乱れたシーツを撫でるとひんやりとした冷たさしか伝わってこなかった。休みの日は結構のんびりと遅くまで寝ているがもう起きているのなら、もう十時を過ぎているのだろうか。
サイドテーブルの時計を見ようと立ち上がった時、ひやりとした何かが足に触れた。

「……ん?」

金属の輪が付いた黒い丈夫そうな鞣革が足首に巻き付いている。輪の先にはそれこそ外飼いの犬を繋ぐような無骨な銀の鎖が、クローゼット横の奥の壁まで続いていた。俺が足を動かすたびに音を立てるそれに思考が止まる。
五年ほど前、の本心や願望を聞いた時のことが脳裏をよぎった。

―――誰にも会わないで、僕の帰りだけを待っててほしい。
―――征十郎くんが、僕がいないと生きていけない人ならもっといいな。

一気に目が覚めた。これを用意したのがならば、俺はこれから、何をされて何が出来なくなるのだろう。
外れやしないだろうか、と巻かれた革を弄っていると寝室のドアが開きが顔を出した。

「あ、起きてたんだ。おはよう」

にっこりとした可愛い笑みはいつもと何も変わらない。それがなんとも怖ろしかった。
挨拶も出来ず座り込んだまま固まる俺など気にせず、は少し深い丸皿を手に寝室へ入ってくる。俺の目の前に丸皿を置くと「朝ご飯だよ、食べてね」とにこにこしながら俺の髪を撫でた。
丸皿の中には小さく切ったハムや野菜類、卵を適当に入れて適当に火を通しただけのようなものが乗せられている。いつもそれなりに手の込んだものを作ってくれていた彼の、野菜炒めというにはあまりにもおざなりなそれにますます混乱と戸惑いが深まっていく。

……?」
「こら、ダメでしょ。征十郎くんはワンちゃんなんだからおしゃべりできないんだよ」

ワンちゃん。あの日の話した願望を、彼は本気で現実にする気なのだ。

「今日から征十郎くんは僕のかわいいワンちゃんだよ。トイレはあそこで、お風呂は僕が入れてあげる。ご飯は一日二回。分かった?」
「大学は」
「もう、征十郎くん!僕はお話していいって言ってないよ」
「……」
「ワンちゃんは大学なんて行かないでしょ?お家で飼い主の帰りを待って、可愛がられるのがワンちゃんのやることなんだから。だから征十郎くんも僕がお出かけしてるときは良い子でお留守番しててね。寂しくないように僕のぬいぐるみ貸してあげるから」

ベッドから熊と兎のぬいぐるみを引っ張ってきて俺の隣に並べるの顔に、冗談の色はどこにも見当たらない。

「あとで寝るとき用のクッションとか買ってくるから、それまではこっちのクッションで我慢しててね。じゃあほら、ご飯食べよ」

丸皿を示されるが、箸もスプーンもどこにもない。まさかそのまま、顔を突っ込んで食べろというのだろうか?俺が、犬だから。
事態を飲み込みたくなくてただ丸皿とを見ていれば、「征十郎くんは甘えん坊さんなの?今日はいいけど、僕がいないときはちゃんと自分で食べるんだよ」と言いながら、ごちゃ混ぜの炒め物をそのまま指で掬い俺の口元へ運んだ。

「あーんして」

恐る恐る、顔色を窺うようにの手に乗るものを口に含んだ。ハムの塩気以外何の味付けもないそれは、本当にペットにでも食べさせるようなものに思えた。

「うん、えらいえらい。いっぱい食べてね」

口に含んだものを飲み込んだ俺の頭を撫で、また掬い運ぶ。皿中身が無くなるまで続いたそれに、ひどく疲弊してしまった。
サンドイッチやハンバーガーなどのもともとカトラリーを使わないような食事ならいい、けれどこんな、普通だったら箸なりフォークなりで食べるようなものを手掴みで食べさせられるのは、何かが削られていくようだ。俺はこれから毎日、の気が済むまでこれをしなければいけないのか。
されるがままにウェットティッシュで口元を拭われ、また頭を撫でられる。可愛いペットに触れるような、柔らかで優しい手つきに胸がそわそわと落ち着かない。
どう考えても異常なのに、が笑っていて、楽しいと思っているのならそれでもいいのかもしれないと思う自分がいる。誰よりも俺自身を好いてくれている彼の想いに少しでも応えたい、同じだけとはいかなくても、俺のできる精一杯で彼を愛したいと思うのだ。

「じゃあちょっとお出掛けしてくるから留守番しててね」

俺の肩にふわふわのタオルケットを掛けなおして、手の甲で一度頬を撫でては部屋を出ていった。
扉の閉まる音とは別の金属音に、鍵を掛けられたことに気付く。いつの間にか外付けの鍵まで用意して、一体いつからこんなことを考えていたのだろう。
あの日、は言った。僕だけ見ててほしい、僕だけのことを考えてほしい、と。同時に、それが無理なことも分かっている、とも。だからちゃんと言葉なり行動なりで痛みの伴わない愛情表現をしていこうと約束した。
それは高校に入学するまで、上手くいっていたように思う。多少の恥はあったが、自分の気持ちは日頃から伝えるようにしていたし、なるべく誰かと二人きりにはならないように気を付けたし誤解されそうな行動は取らないようにもしていた。は俺に手をあげるようなことは無くなったし、あれから爪を剥がそうとは一度もしなかった。
けれど、高校に入学して少し。生徒会副会長とバスケ部部長を任されてしまってからまた俺との関係は少しおかしくなっていったのだ。
俺は生徒会の仕事や部活動で帰りも遅ければ休みの日も少なく、なかなかとの時間が取れなくなっていた。中学の頃はがバスケ部に顔を出してマネージャー業を手伝ってくれたり、互いの家へ出向くことで、なかなか時間が取れなくても共に過ごすことが出来ていた。
しかし高校では、部活への顔出しも部外者は基本的に立ち入らないことが暗黙の了解となってしまっており、またお互い寮生活となりそれぞれ同室者もいたために、二人きりで過ごすことはめっきりと減ってしまった。昼休みのちょっとした時間に一緒にいるくらいで、あとはメッセージアプリや電話でやりとりするくらい。
きっと、それがいけなかったのだ。
高校に進学して半年ほどたった日、教室で待つを迎えに行くと、誰もいなくなった教室で彼は泣いていた。見ているこちらの胸が苦しくなるような顔で泣いて、泣きながら俺の頬を打った。
それから高校三年生になるまで、自身を刻むように俺を殴りつけることが増えていった。時には切りつけてくることもあり、一時は部員たちの前では着替えられないほどあちこちに怪我があったくらいだ。
部活と生徒会を引退した頃からまた一緒にいる時間が増え、よく笑うようになり、は落ち着いていった。大学に入って同棲をはじめてからはもうすっかりあの頃が遠い昔のことのように思えていたのだ。
けれど、の中では違ったのだろう。
大学も卒業が近付けは卒論やインターンで忙しくなるだろうし、就職してしまえば今のようないつも一緒にいる生活は出来ない。どうすれば多くの時間を俺と過ごせるのか、は必死に考えたのだろう。その結果が、きっとこれなのだ。
こんな生活を続けることはできないとは分かっている。分かっていて、それでも限界までそうしていたいのだろう。それなら、その限界まで付き合うのが俺の役割だ。
じっとりと背筋を冷やしていた恐怖心が引いていく。こんなにも俺に一生懸命なが愛おしく思えて仕方がなかった。が置いていったクッションに頭を乗せて、彼のお気に入りのぬいぐるみを抱き寄せ目を閉じる。
が帰ってきたら、せめて話はしたいと伝えよう。

ぬるくあやふやな新世界

rewrite:2022.05.23