Cemetery

※主人公:チャーミングな何様俺様天才(自称)様な人外説のある男(諸説あり)

ぼんやりしたエチュードが夏前の夜空に散らばる

▼ 牧野慶

ふいに肩にかかった重みに視線を移すと大和さんが眠っていた。先程まで読んでいた本は膝の上で開かれたままになっていて、落ちてしまわないうちに栞を挟み脇へ置く。少しだけ彼の髪を撫でて、空いた手にそっと触れた。長い指に自分の指を絡めて握りしめると落ち着く彼の体温がじんわりと伝わって、心がふわふわとした柔らかいものに包まれていく。それは大和さんといるときはいつも感じるものだった。彼はどうだろう、私と一緒にいるとき、この綿あめにも似た感覚を味わったりすることがあるのだろうか。私みたいに幸せで幸せで堪らないと、心の底から感じたりするのだろうか。大和さんはよくに「お前といると幸せすぎて死にそうになる」なんてすごく優しく笑うけれど、それが私みたいにずっとずっと奥底から思っているのかというとどうだろう。大和さんは解りやすいけれど、とても難しい。考えていることがすぐ顔に出るけれど、肝心なことが何も解らなかったりする。「あなたは難しい人ですね……」ふいに脳裏を過るのは自分と同じ顔の人間だった。大和さんとよく色々な話をしている宮田さんだったら、もしかしたら私なんかよりもずっと彼のことを知っているのかもしれない。そう思うと急に心がひんやりとして、迷子になった幼子のような恐ろしさと寂しさがいっぺんにやってきた。鼓膜を撫でる静かな寝息は何の答えにもならない。私は彼のことなど何一つ知らないのかもしれない。彼のことなら何だって知っていたいと思うし、誰よりも私が一番の理解者でいたいと思うけれど実際にはどうだ。持て余した感情の行き場はなく、飲み込み無理にでも消化するしかないのだろう。そっと彼の頭に自分の頭を寄せる。「ねえ、大和さん。私は、これから先もずっとあなたの傍にいたいです。誰になんと言われようと、あなたの隣は私の場所であってほしい」いつものように馬鹿だなと言ってほしかった。俺にはお前しかいないよって、俺の隣はこれから先ずっとお前のものだって笑ってほしかった。けれど彼の返事はなく、ただ穏やかな寝息だけが、否定も肯定もせず鼓膜を揺らすのだ。
rewrite:2022.03.10

雲間にて刺す

▼ 宮田司郎

目が合ってしまった。洞穴のように真っ暗で何も映していない虚ろな目がじいっとこちらを見ている。逃げようにも足は動かず、目を逸らしたくても逸らすことが出来ない。声を出そうと口を開いても出てくるのは引き攣れたような息だけで、瞬きも出来ず乾き始めた眼球がひりひりとした痛みを発している。ふと何か冷たいものが足に触れた。ぞわりと背筋が凍りつくような冷たさに恐怖心がどんどん広がり、大和、とここにはいない、いるはずのない彼の名前を音もなく呼んでしまう。その時、「見るな」突然視界を何かが遮った。あたたかい手と覚えのあるにおい。「大丈夫、ゆっくり息吸って……吐いて」優しい声にゆっくりと力が抜けていった。「そう、いい子だ」体が軽くなったと思った途端、またあの張り付くような寒気を感じ目元を覆う彼の手に自分の手を重ねた。「目、そのまま閉じてろよ」緊張感を纏った声に頷くと守るように覆っていた手が離れていき、肩を掴まれぐるりと体の向きを変えられそのまま手を引いてどこかへ向かっていく。背にちりちりと焼けるような視線を感じる。きっとあの目が自分をじっと見ているのだ。けれどそれ自体が追ってくることはなく、纏わりつくような寒気も徐々に薄れていった。ふ、何か生温いものが顔を撫でたと感じた時、急に歩みが止まる。「目開けていいぞ」ちらりと振り返って見たが、もうアレはどこにも見えない。それに安堵すると同時に沸いた疑問に口を開いた。「どうしてあそこにいたんですか」しかもあのタイミングで。「どうしてってお前が呼んだからだろ。約束したの覚えてねーのか?お前が呼んだらすぐに行くってやつ。すぐ来ただろ?」その約束は覚えている。けれどあれが聞こえて、更にはあんなに早く現れることが出来るだろうか。……いや、考えるだけ無駄だ、彼にこの世の常識なんてものが通じないことは嫌と言う程知っている。「そうですね」彼が出来るといえば出来るし、聞こえるといえば聞こえる。そういう風になってしまうのだ。彼が神なんてものを自称するかぎり。
rewrite:2022.03.11

確かな名前はまだない

▼ 宮田司郎

雨が嫌いだった。纏わりつくような空気も濡れる足先も不愉快で、何より雨音がどんな音もかき消してしまって、ここにいるのは自分一人なのだという思いを強くするから。そして雨音は、嫌な思い出をたくさん連れてくる。こちらの事情などお構いなしにあれやこれやと投げ付けていくのだ。だからずっと雨は嫌いだった。「(……雨だ)」ようやく仕事が終わり帰ろうと思った矢先、ぽつりぽつりと雨が降り始めた。今日は朝からずっとどんよりとした雲が立ち込めていたし、天気予報でも雨と言っていたから降るとは思っていた。けれど、は持って来なかった。次第に大きく多くなる雨粒を窓枠に肘を付きながらでぼんやりと眺め、何分ぐらいで来るだろうと考える。雨に気付いて一本だけ傘を持ってすぐに家を出て、きっとが汚れることも構わずに近道をして走ってくるのだろう。自分以外誰もいない室内は雨の音ばかりで少し息苦しい。窓枠に乗せた腕に額をくっつけて、そろそろと這い出して来る思い出達から意識を背ける。じっと動かずに、何も考えないように意識を沈ませていくのだ。と、不意に廊下から軽快な足音が聞こえ、ノックもなく扉が開かれた。「司郎、迎えに来たぞ」少しだけ息を切らせた大和が笑う。「仕事はもう終わってんだろ?」「ああ」「じゃあ帰ろうぜ」閑散とした廊下は雨音に満ちている。けれど彼がいるから息苦しさは感じない。「しろー、早く」ばさりと傘が広がり、表面についていた雨粒がきらきらと散っていった。雨の日にこうして彼が迎えに来るようになったのはいつからだったろうか。気付いた頃にはもうこうして彼が迎えに来て、一つの傘で帰ることが習慣のようになっていた。「今日はちょっと寄り道しようぜ、久しぶりだしな」傘の中で聞く声はいつもよりずっと近く聞こえる。触れ合った布越しの温度や楽しげなその声に、ぐらぐらと底で揺れていたものは次第に姿を消していった。「あまり遠くには行かないぞ」雨は嫌いだった。けれど、今はそれ程嫌いではない。
rewrite:2022.03.11 | 文字書きの為の言葉パレット(@x_ioroi)「靴・傘・寄り道」

一等席の悪夢

▼ 宮田司郎

「貴方は、俺が貴方のことを心からしていたということを知っていますか」大和さんはきょとんと目を丸めた。その無防備な顔に今までどれだけ苦しめられたのだろうかと思うと、愛しいと思うと同時にどうしようもない苛立ちが湧いてくる。大和さんは困惑を滲ませながらも何かを拒絶するように目を伏せ、それから少しだけ首を傾けて俺を見た。彼のこの仕草は防御の姿勢だ。厚い壁を作るときの前触れで、こういう時は絶対に線を越えさせない。近付けさせず、心に触れさせないのだ。「知っていたでしょうね、貴方は聡い人ですから」そしてとても鋭い人だ。俺のを突き破って本当を見つけてしまうくらい。大和さんは黙って俺を見ている。一瞬痛そうに眉が寄ったのが分かった。それは微々たるもので、彼をいつも見ていた俺だから分かるものなのだ。そう思うと少しだけ嬉しくなって笑みが浮かぶ。今、彼の心をほんの少しでも苦しめているのはこの俺なのだ。「貴方は酷い人だ。俺がこんなにも、貴方の為ならば何だって出来るくらい貴方を愛していると知っているくせに、何にも知らないふりをして平気で近付いてくる」それがどれだけ苦しいものなのか考えたこともないのだろう、きっと興味もない。この人の興味が俺に向くことはないのだ。しかし大和さんは友人として俺を愛してくれてはいる。それを分かってしまっているから、余計に痛くて堪らない。本当に、今すぐめちゃくちゃにしてやろうかと何度思っただろう。「俺がいつも何を考えているか、少しは考えたことがありますか?無いでしょうね、貴方は誰のことも知ろうとしない」もし彼が俺のことを少しでも知ろうとしていたら、きっと今こうして向かい合うこともないのだろう。指先が金属に触れる。もうお開きだ。「俺は貴方を、心底愛していましたよ」ああさらば愛しい人よ、どうか最後まで見届けてほしい。その美しい瞳に全てを焼き付けて、死ぬまで忘れないでいてくれたらどれだけ嬉しいことだろう!「だから絶対に、俺のことは覚えていてくださいね」そうしてどうか、毎晩俺の夢に魘されますように。
rewrite:2022.03.11 | 文字書きの為の言葉パレット(@x_ioroi)「愛・嘘・指先」

目を閉じたまま家に帰れない

▼ 宮田司郎

あの恐ろしい騒乱の三日間が、今では遠い昔の夢のことのように思える。それほどあの場所でのことは非現実的で、とてもじゃないけれど現実で起こったとは思いたくない地獄のようなものだったのだ。今でも時折、あの場所でのことを夢に見るけれどもうあまり恐ろしいとは感じなくなった。それは多分、俺の中のどこかがあのことを現実ではないと思っているからなのだろう。『遠い昔の夢のこと』になっているのだ、きっと。「司郎、そろそろ行こう」テレビを眺める司郎の肩を叩きながら、ルームキーを手に取る。この2泊3日のささやかな旅行は司郎の希望によるものだった。「忘れ物はない?」「ない」彼と何処かに出掛けるのはもしかするとこれが初めてかもしれない。村に居た頃は、外に出掛けるのは仕事以外には無かったように思う。なんとなく、村から出ることはあまり良くないことのよう思えたのだ。「司郎、何か飲み物いる?」こじんまりとした駅内には俺たち以外に人はいなかった。頷いた彼に缶コーヒーを手渡し、ベンチに並んで座る。今まで彼とこんなにゆっくり過ごせたことはあっただろうか。あの村にいた頃は、夜にほんの僅かな時間を共に過ごせるくらいの余裕しかなかった。「司郎、また来ようよ。今度はゆっくりいろんなところを周りたいな」空になった缶をゴミ箱へ放り投げながらそう言うと、彼は小さな笑みを浮かべてそうだな、と頷いた。彼は前よりも少しだけ笑うようになって、それが俺はとても嬉しい。「もし、」『まもなく電車が参ります、黄色の線より―――』ホーム内に響き渡った放送で彼の言葉が遮られる。そして不意に訪れた静寂は、幾許かの気味の悪さを孕んでいた。続きを促しても彼は黙り込んだまま線路へ視線を落としている。その横顔にあの日の影を見た気がして、内側がざわめき出した。「司郎」電車が入ってくる。彼は空ろな目で線路を見つめ、そしてぐらりと傾いた。いつの間にか握られた手に引かれ、自分の体も傾いていく。酷く他人事のような現実味のない死を前に、嗚呼、と息がもれた。
rewrite:2022.03.11 | 文字書きの為の言葉パレット(@x_ioroi)「黄色・他人事・騒乱」

夕立の匂いを連れて歩くひと

▼ 宮田司郎

彼は時々おかしくなる。いつもやたらと力のある瞳は空虚になり、顔から表情が抜け落ちて纏う空気がどろりと濁るのだ。そういう時の彼は対峙した者に真っ暗で未知の洞穴を覗いているような不安と恐怖を抱かせる。丁度、今の俺のように。川の中をふらふらと歩いている彼にギョッとして思わず病院まで連れてきたけれど、対処の仕方はまだいまいち分かっていない。それも仕方がないだろう、こんな風になった彼を見るのはまだ三度目なのだ。前の時はどうしていただろう、と記憶を辿っていると診察ベッドに座っていた彼が唐突に口を開いた。「時々、何やってんだろうなって思わないか?」ぼんやりと外を見つめる横顔は冷たく彫像のようだった。「何でこんなところでこんなことしてるんだろうって思うだろ?それで、何もかも無意味なことに思えてくる。そうなったらもう何もしたくなくなって、死んじまいたくならないか?好きだったものの味が分からなくなって気に入ってた曲がただの雑音に聞こえると、何かもう嫌んなっちゃうだろ」今にも目を閉じてしまいそうなひどくゆっくりとした瞬きは、微かな苛立ちと疲労を感じさせる。「でもこの世からおさらばしてもすっきりさっぱり消滅出来ずに天国だ地獄だ、て先が続いたらもう絶望的だよな。最悪だよ、何処まで俺を疲れさせるんだって話だ。嫌になるよな、そう思うだろ、なあ?」どろどろと沈んでいってしまいそうな声はゾッとする冷たさに満ちている。彼の言葉に何と返せばいいのか、そもそも何か返事をしたほうがいいのか分からずただ黙って彼を見ていた。「帰る」そしてまたもや彼は唐突にそう告げ、立ち上がった。「大和」出て行こうとする彼があまりにも不安定に見え、ゆらゆらと揺れる腕を掴んだ。力のない手は不安を煽る。「今日は早く帰るから、夕飯、待っていてくれ」無感動で無表情であった目が漸く緩やかな弧を描いた。「分かった、待ってる」細い糸を繋ぎ止めるような脆い約束事だ。しかし彼を留めるには十分であろう。
rewrite:2022.03.14

ほとんどの夜は冷たくて静か

▼ 宮田司郎

指先が何かどろりとしたものに触れギョッとし、本から目を指先に向ける。マグカップに触れたはずの指は一体何に触ったのだろうか。カップに何か付いていたかと見てみても何もなく、変わらぬつるりとした光を放っている。気のせいだったのだろうかとマグカップのコーヒーを飲みながら時計を見た。もうとっくに予定の時間は過ぎているというのに大和はまだ来ない。仕事が終わらず戻って来られないのだろうか。そういえば今回はそこそこ大変な仕事だと言っていた。彼が一体どんな仕事をしているのかは一切聞いていないが、度々体に結構大きな傷をつくってくるところを見るとあまり歓迎出来ない類のものなのだろう。興味が無いと言えば嘘になるが、あまり彼を困らせることはしたくない。だから聞かずに黙って帰ってくるのを待つのだ。そうしていれば彼は決して自分から離れることはないと分かっているから。不意にノックの音が響き、沈みかけていた意識が引き戻される。はい、と返事をしてドアに目を向ければ、とてもじゃないが人間だとは思いたくないものがそこにあった。恐らく顔だと思われる部分は崩れかけ、本で見た奇形児の頭部を彷彿とさせる。それは口を開閉させ何かを言っているようだが、聞こえてくるのは喉の奥で息が詰まっているような奇妙な音だけだった。ひたりとした嫌なものが背筋を這っていく。夢でも見ているのか、大和を待つ間に寝てしまったのかもしれない。窮屈な体勢で眠ったせいで妙な夢でも見ているのだろうと目の前の信じ難い光景から目を逸らそうとした矢先、短い破裂音が響き、「悪い司郎、遅れた」倒れていくそれの向こうに待ち人である大和が立っていた。「最後のがどこ行ったかと思ったらお前のとこでめちゃくちゃ焦った、何もされてないよな?」どろどろと溶けていくそれを何の躊躇いもなく踏み付けながら傍までやってきた大和はいつもと変わらない。「……大和?」「ん?」「どういう、ことだ?」収拾のつかなくなった頭でそれだけ尋ねると、彼は少しだけ困ったように笑いながら「これが俺の仕事」と答えた。
rewrite:2022.03.14 | 文字書きの為の言葉パレット(@x_ioroi)「仕事・時間・奇形」

おなじ音を持つ異形

▼ 宮田司郎

誰かがぼんやりと眞魚川を見下ろしている。黄色みの無い肌が日光を受け淡く光って見えた。手足も日本人離れした長さを誇っているし、おそらく外国人観光客だろう。こんな何も無いところでも、ほんの時折酔狂な人間が観光をしにやって来るのだ。目の前の男もその類なのだろうと漠然と思いながら通り過ぎようと足を動かしたと同時に、男が振り向いた。矢を思わせる鋭く真っ直ぐな視線に一瞬息が詰まる。「なあ、ここは羽生蛇村か」随分と流暢に日本語を話した男は人差し指で足元を指す。「……ええ、そうですが」男は驚いたとばかりに眉を上げオーマイガーと呟いた。「おいおいマジかよ。今って二〇〇三年?」「ええ」「ワーオ!すっげえ!」一体何なんだこの男は?妙な人間に絡まれてしまったかもしれない。早く病院に戻りたいのだが男はまだ何か聞きたそうに目を輝かせている。「まだ何か」「あー、ドクター?この村でイッチバン偉い人のところに案内してくれない?」にっこりと笑ったその目は有無を言わせない強さがあり、つい先ほど顔を合わせた神代家当主を思い出させる。何でもかんでも自分の思い通りに事を運び、その為には手段を選ばない人間の目だ。断ったところで無理矢理案内させられるだけだろう。「来い」またあの家に行くのかと思うとそれだけでうんざりしてしまう。礼を言いながらついて来た男は上機嫌に辺りを見回していた。「パッと見は普通の村だな……でもイヤな臭いがプンプンする」笑いを含んだ声はゾッとする冷ややかさを持っている。男を見れば、彼も俺を見ていた。「アンタからは血の臭いがするな?」緩やかな弧を描いた瞳は獲物を見つけた猛獣じみた輝きを放っていた。この男は一体何を知っているのだ。「思ってたのと全然違うな、ただ人魚姫がいるだけかと思ったら随分と生臭い」「……何をしにきた」男はより一層笑みを深めた。「この村を終わらせにきたんだよ、わざわざ未来からな!」そして朗々と男が語ったことはあまりにも荒唐無稽でトンデモナイ嘘八百をずらずら並べられているようだった。狼少年だってまだマシな嘘を吐くだろうに。だが男は俺の疑惑の目にただ声高に笑うだけだった。
rewrite:2022.03.14 | 文字書きの為の言葉パレット(@x_ioroi)「酔狂・嘘八百・狼少年」(Jesus!IF:もし牧野ではなく宮田と先に出会っていたら)

薄氷を花と偽る

▼ 宮田司郎

「俺はお前のそういうとこ、好きだよ」そう言うとき、彼はいつも俺から目を逸らし独り言のようにそっと小さく囁く。いつも強く鋭い眼差しで人を圧倒するのに、その時だけ決まって目を伏せるのだ。そして少しだけ困ったように、どこか怒ったように、微かに泣いてしまいそうな湿っぽさを漂わせながら潜めた声で言う。俺は彼のその声が好きだった。いつだって凛とした力のある声で全てを掌握する彼が、簡単に踏みつぶされてしまいそうな弱弱しい声を出すのが堪らなく好きで、いつだって逃さないとばかりに相手から目を逸らさない彼が怯えたように視線を逸らすのが堪らなく愛おしいと思う。彼のその姿は俺だけが見れるのだ。俺だけの、謂わば特権なのだ。「俺も貴方のそういうところが好きですよ」彼に出会えて、俺とそっくりの、けれど俺とは正反対のあの人ではなく俺を選んでくれて本当に良かったと心から思う。あの煌めく異国の瞳が俺の世界を鮮やかに彩り、全てを変えてしまったあの日、きっと彼の世界も変わったはずだ。そう確信出来る。手元へ視線を落としたまま動かない彼に、俺が彼の手を取り自由を得た日のことを思い出した。『俺はお前を幸せにすることなんて出来ないし、俺の傍にいたらどんどん不幸になっていくと思う……でも、それでも俺はお前の隣にいたい』少しだけ悲しげに翳んだ笑みは初めて見るものだった。自分を中心に世界は廻っているのだと謂わんばかりに爛々と輝いていた瞳は、不安げに揺れて押し殺すように色を失くしていた。その時の恍惚感たるや!誰からも好かれていた彼がたった一人の人間、しかもこの村では無価値に等しい人間に焦がれているだなんて誰が想像出来よう。好きだと口にするたび苦しそうに声を戦慄かせその先のことを考えて身を震わせる、彼のその今にも崩れてしまいそうな姿はいつだって俺の心を掻き乱すのだ。きつく握り締められた拳をそっと解いて震える体に腕を回せば、「ごめん、司郎」と湿っぽい声で囁きながら彼の腕が背に回される。縋るようなその手に、堪らず笑みが零れた。
rewrite:2022.03.14 | 文字書きの為の言葉パレット(@x_ioroi)「彩り・自由・不幸」

眼差しの満ち欠け

▼ 宮田司郎

この家はいつだって薄暗い。家中のあちこちにある暗がりは何かが息を潜めているようで気味が悪いし、歪んだ窓枠の隙間から入り込んだ風がカーテンを揺らすたびにドキリとする。歩くたびに断末魔の叫びだとばかりにギイギイなる階段はうんざりするし、ストーブをつけようが何をしようがじっとりとした寒さの漂う部屋は居心地が良いなんてとてもじゃないが言えない。どこもかしこも古くてガタがきている不便で不気味なこの家にそれでも住み続けているのは、ここが俺の住むべき場所であるからに他ならない。例え住む場所が他にあったとしても裏庭に埋まる両親を置いてどこかに行ってしまうのは気が引ける。夏でも手放せないカーディガンを羽織りながら軋む階段を下りていると、ふっと廊下を誰かが通っていったのが見えた。この家にはあまりに不釣合いな白く煌びやかなドレス、それは母のウェディングドレスだ。そのドレスはあの日すっかり駄目にしてしまったのだが、もうそんなことは別に関係無いようだ。ちりちりと何かが焦げる臭いが漂い、微かな軋みが聞こえてくる。あちこちを歩き回るその足音は忙しなく、どうやら父が何かを探しているようだった。何か体の温まるものを飲もう、と台所へ向かいかけた足を引き留めたのは耳障りなチャイム音だった。こんな家に来る物好きにも程がある人間なんて、この村には一人しかいない。「こんばんは、センセ」仕事帰りらしいその姿は少々疲れてみえる。それもそうだろう、それだけ背負っていたら疲れるというものだ、またずるずると引き連れて。「相変わらず寒いし暗いな、この家は」一向に暖まる気配のない居間で先生は顔を顰めながら淹れたてのコーヒーを啜った。「まあな」「いい加減家に来い、ここよりずっと暖かいぞ」「何度も言ってんだろ、駄目なんだよ」ぎしりと二階の床が軋んだ。「……誰か来てるのか?」「ふん、この家には俺しかいないって分かってるくせに何言ってんだ」その言葉に怒ったように椅子の足がガタガタと音を立てていた。ああ喧しい。
rewrite:2022.03.14 | 文字書きの為の言葉パレット(@x_ioroi)「いない・ドレス・椅子の足」