懐かしい祖母の家のにおいに、ふうっと息を吐いた。一体何年振りだろう、彼がいなくなってから来るのは今日が初めてだ。彼が僕の名前を呼びながら駆け寄ってくることはもうないのだと、よく彼と遊んでいた畳の部屋で実感して悲しくなる。彼がいなくなってしまってから何年経ったのか、恐ろしくて数えることすら僕は出来ないでいた。「テツヤ、夕飯だよ」聞こえてきた優しい祖母の声に、伏せていた顔をあげる。こうして僕を呼ぶのはいつも彼だった。テッちゃんご飯だよ、と笑いながら僕を呼びに来るのだ。些細なことで彼の不在を思い知らされ、息が詰まる。「はい、今行きます」誰の手にも繋がっていない自分の手に、ひどい喪失感を味わう。部屋を出た途端にふと小さな鈴の音が聞こえ、振り返るがそこには何もない。でも今確かに鈴の音がした。彼がよく身につけていた鈴と同じ音が。「水緒……?」薄暗い闇に包まれた廊下の先に目を凝らしても、何も見えない。しかしすぐ傍でぎしりと軋む音がした。りん。りん。小さな鈴の音が聞こえる。驚きに上手く息を吸い込めず喉が変な音を立てた。りん。遠ざかる音を追いかけるように足を踏み出した。「水緒、水緒ですか」鈴の音を追いながら何度も彼を呼ぶ。あの日も、隠れん坊をしていた彼が消えたあの日も、この鈴は鳴っていた。鈴の音だけが聞こえていた。鈴の音を頼りに彼を探しても見つからず、一際大きく鳴っていた裏山の崩れかけた祠の中に彼の鈴だけが取り残されていた。昔、聞いたことがある。あの山には鬼が住まうのだと。りん。すぐ耳の傍で鈴が鳴る。彼は鬼に連れて行かれてしまったのだろうか。ぎし。足を止めた僕の傍を、誰かが通り抜けた。りん。甲高いその音は悲鳴のようで、彼の最後の声のようで、「水緒、」振るった腕は何も掴まない。絶対見つけてね、と笑った彼を僕は見つけられなかった。必ず僕を見つけてくれていた彼を、僕は見つけることが出来なかった。りん。揺らめく影は一体誰のものか。
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