Cemetery

誰もいない心臓に招いて

▼ 黒子テツヤ / krk

懐かしい祖母の家のにおいに、ふうっと息を吐いた。一体何年振りだろう、彼がいなくなってから来るのは今日が初めてだ。彼が僕の名前を呼びながら駆け寄ってくることはもうないのだと、よく彼と遊んでいた畳の部屋で実感して悲しくなる。彼がいなくなってしまってから何年経ったのか、恐ろしくて数えることすら僕は出来ないでいた。「テツヤ、夕飯だよ」聞こえてきた優しい祖母の声に、伏せていた顔をあげる。こうして僕を呼ぶのはいつも彼だった。テッちゃんご飯だよ、と笑いながら僕を呼びに来るのだ。些細なことで彼の不在を思い知らされ、息が詰まる。「はい、今行きます」誰の手にも繋がっていない自分の手に、ひどい喪失感を味わう。部屋を出た途端にふと小さな鈴の音が聞こえ、振り返るがそこには何もない。でも今確かに鈴の音がした。彼がよく身につけていた鈴と同じ音が。「水緒……?」薄暗い闇に包まれた廊下の先に目を凝らしても、何も見えない。しかしすぐ傍でぎしりと軋む音がした。りん。りん。小さな鈴の音が聞こえる。驚きに上手く息を吸い込めず喉が変な音を立てた。りん。遠ざかる音を追いかけるように足を踏み出した。「水緒水緒ですか」鈴の音を追いながら何度も彼を呼ぶ。あの日も、隠れん坊をしていた彼が消えたあの日も、この鈴は鳴っていた。鈴の音だけが聞こえていた。鈴の音を頼りに彼を探しても見つからず、一際大きく鳴っていた裏山の崩れかけた祠の中に彼の鈴だけが取り残されていた。昔、聞いたことがある。あの山には鬼が住まうのだと。りん。すぐ耳の傍で鈴が鳴る。彼は鬼に連れて行かれてしまったのだろうか。ぎし。足を止めた僕の傍を、誰かが通り抜けた。りん。甲高いその音は悲鳴のようで、彼の最後の声のようで、「水緒、」振るった腕は何も掴まない。絶対見つけてね、と笑った彼を僕は見つけられなかった。必ず僕を見つけてくれていた彼を、僕は見つけることが出来なかった。りん。揺らめく影は一体誰のものか。
rewrite:2022.03.05 | BGM:鵠 / マチゲリータP

奪われた春がすぐそばにいる

▼ 黒子テツヤ / krk

『お魚さんみたい』と彼はよく僕の髪に触れ目を見つめ、透き通る綺麗な笑みを浮かべていた。きらきらと光を反射する瞳の中に映る僕は、確かに魚のように見えた。薄い水色と不健康そうな色をした肌が彼の黒曜の中でゆらゆらと揺れる。飽きもせずにじいっと僕を見つめ、時には絵を描いたりもしながら彼は一日の大半をそう過ごしていた。『テツヤくん、やっぱりきれい』じいっと見つめてくる目は寒気がするほど無邪気な色をしていて、時々居心地が悪くなる。『水緒の目の方が、僕はすきですよ』彼の白く華奢な指に己の指を絡めきゅうっと握ると彼は穏やかな笑みを浮かべる。ありがとう、と言った彼の目に、確かに僕は映っていた。僕だけが映っていた。「水緒、返事をしてください」今でもあの日のことはよく覚えている。光の失せた目に僕は映っていなかった。閉じられた目は開くことはなく、あの美しい瞳をもう二度と見ることはできないのかもしれないと思ったときのあの喪失感は、きっと誰にもわからない。叶わぬとしてもそれでも僕は諦めきれずに、もがき続けた。もう一度彼に会いたい。「何処にいるんですか、水緒」昔、祖母から聞いたことがある。七夕というのはあの世とこの世が一番近い日なのだと。天の川を越えて向こう側が天で、こちら側が地上なのだと。だからその川を越えることが出来たら、彼に会うことが出来るのだ。しかし人々の祈りで構築されたその川に一度飲まれてしまえば、もう二度と向こう岸には届かない。「水緒水緒、出てきてください」痛みに耐え、ともすれば引きずられそうになる足を動かし、ここまで辿り着いたというのに。「水緒、返事を、してください」何度も何度も名前を呼んでも彼の返事はない。自分の声ばかりが広がるだけで、何も聞こえない。それどころか、ただ暗闇が広がるばかりで何も見えやしないのだ。ここに彼は居る筈なのに、僕は向こう側に辿り着けた筈なのに、それなのに、どうしたってあなたが見つからない。
rewrite:2022.03.05 | BGM:極彩、嬋娟ノ魚。 / マチゲリータP

あなたは粉雪の匂いがする

▼ 黒子テツヤ / krk

笑った顔がびっくりするくらい綺麗で透き通っている子だと思った。僕らが大人になるにつれ失くしてしまった純粋さや純真さをまだ持っているかのような、真っ白で怖くなるくらい真っ直ぐなその笑み。いつしか僕はその笑顔に惹かれるようになって、それをつくる彼に惹かれるようになっていった。当然の摂理のように惹かれ、落ちていったのだ。そうして彼のそういった美しさの裏にはたくさんのひどく醜い傷跡があるのだということも知って、尚更彼が愛おしく思えはじめた。この人は僕が守らなくてはいけないなんて思ってしまうくらいに深く僕は彼へ溺れていったのだ。彼を僕が幸せにしたいと、傍にいて支えてあげたいと強く思うようになって彼にそう告げたとき、彼は息が詰まるほど綺麗な笑みを浮かべて涙を零した。流れる涙を拭うこともせず、ただただ泣き続ける彼は小さな子供のようだった。「水緒、散歩に行きましょうか」あの日繋いだ手は、まだ離れることはない。これから先も離れることがないといい。夜の散歩が好きな彼の腕を取り、生々しい傷跡を新品のガーゼで覆って隠す。傷が目に見えると彼は死んだように冷たい表情しかしないけれど、傷が隠れると途端に彼は幼い顔で笑い出すのだということは彼の手を取ってから知った。三度の食事よりも夜の散歩が好きだということも、彼と手を繋いでから知った。彼のことついて僕はまだまだ知らないことがたくさんある。彼が隠していることもまだまだたくさんあるのだろう。それをひとつずつ、どんなに時間がかかってもいいから知って、共有したいと思う。少しでも長い間彼が笑っていられるように、願わくば僕の隣で微笑んでいてくれるように。「テツヤくん、今日はお星様がたくさんみえるよ」小さな金平糖を散らしたような夜空に、彼は楽しそうに目を細めた。「そうですね」夢をみているような不安定な足取りで僕の手を引き歩く彼の姿に、またたまらなく愛しくなって、繋いだ手を強く握り締めた。
rewrite:2022.03.05

枯れおちた花片ひとつ潰さずに

▼ 黒子テツヤ / krk

僕が傷をつくると彼はとても泣きそうな顔をしながら手当てをしてくれる。痛みを吸い取ろうとしているかのようなその優しい手付きについつい泣いてしまいそうになって、その度僕は泣かないようにただ笑うのだ。そうすると彼は少し怒ったように眉を寄せて、それから今度は眉を下げて悲しげに息を吐く。「テツヤ」吐息混じりの微かに震えた声で、痛い?と巻いたばかりの白い包帯にそうっと触れながら彼は尋ねる。恒例となったそのやり取りに僕はただ微笑むだけだ。痛いと言ったら彼が泣いてしまう気がして。優しい優しい彼のことだから。「もう、やめようよ、テツヤ。自分を傷付けちゃだめだ」震えた必死なその声に罪悪感が疼いた。彼の言葉はいつだって真っ直ぐで、優しさや思いやりに溢れている。今の言葉だってきっと僕のことを必死に考えて悩んだ結果のものなのだろう。ごめんなさい、と心の中で彼に謝罪を告げる。ごめんなさい、あなたを騙すようなことばかりして。彼は僕がこんなことをする本当の理由を何一つわかっていなかった。「テツヤ、俺じゃあ頼りないかもしれないけど、でも、」一生懸命言葉を選びながらとぎれとぎれに言う彼が愛おしくてたまらなくなる。今すぐ抱きしめて、閉じ込めてしまいたい。そうやってもっともっと、僕のことを考えて悩んでくれればいい。彼の頭が僕のことだけでいっぱいになって、他のことなんて考えられなくなってしまえばいいのに。彼のあたたかい手のひらが僕の冷え切った手を温め、彼の体温が僕の中へ流れ込んでくるこの瞬間が僕はとてもすきだった。僕と彼の境目が曖昧になってひとつになってしまったような感覚が愛しい。このまま繋がったところからくっついて離れなくなってしまえば僕は彼とずっと共にいられる。けれどそれは結局夢でしかなくて、だから彼の柔らかい部分に杭を打ち込んで鎖を繋げるしかないのだ。「すきです、聖司君、僕のそばに、いてください」ああ、君が僕以外の人間を認識できなくなればいいのに。
rewrite:2022.03.05

星を埋めるように

▼ 黒子テツヤ / krk

袖口から覗く、様々な場所に散っている傷を隠すように巻かれた包帯や湿布は白過ぎて少し眩しかった。保健室の固いベッドの上で小さく丸まり、声もあげずに泣いている姿に心臓を握りしめられる。「水緒」カーテン引いて外界を遮断しベッドに腰掛ける。軋む音に彼の視線がふわふわと浮いてぴたりと僕を捉える。小さな掠れた声が弱々しく僕の名前を呼んだ。震えるその音に含まれた色に、彼をこうして保健室へと追い立てた人達への怒りがふつふつと湧いてくる。「水緒、誰に何を言われたんですか」触り心地の良い髪を優しく梳きながら、彼の涙に濡れた瞳を覗き込む。傷付いた硝子玉はゆらゆら光を反射していた。「……あの、あのね」ぽとりぽとりと落とされる少ない言葉はどれも酷いものばかりで、僕自身が言われたわけではないのにきりきりと内側が痛み出す。すっかり涙で濡れてしまった睫毛を伏せ、痛みに耐える姿にこちらまで泣いてしまいそうになった。「テツヤくんも、気持ち悪いと思う?やっぱり、いないほうがいいって思う?」そう言った彼の声は、小さな布ずれの音にも負けてしまいそうなほど弱く、消えてしまいそうだった。「そんなこと、思うわけないじゃないですか」もし彼が消えてしまったら、そう思うだけでツンと鼻の奥が痛くなってしまうというのに。彼は決して他人を傷付けないのに、彼の周囲は平気で彼を傷付け甚振る。そのせいで彼は自分が全て悪いのだと飲み込み、罰するように自分を傷付け心のバランスを取って生き難いこの場所で必死に息をしている。それをどうして気持ち悪いだなんて言えるのだ。「君がいないと僕は寂しくて死んでしまうんですよ」少しだけ冗談めかして笑えば、ようやく彼がほんのり笑った。きらきらと光る涙の痕が優しい色に変わって彼の頬を彩る。頬にあてた手に彼の手が重なり、ぎゅうっと握り締められる。「ありがとう、テツヤくん」そう言って今度ははっきりと笑った彼に、今までとは違う優しくて柔らかい痛みに襲われた。
rewrite:2022.03.08

なまめかしい鋭利と寄り添って

▼ 黒子テツヤ / krk

「心は、」黙々とページを捲っていた彼がふいに口を開いた。「心は、どこにあると思いますか?」紙の上を滑っていた水色のまあるい目の中にぼんやりと自分の顔が映りこんだ。彼のその何の感情も窺えないその目を見る度、僕は爬虫類を思い出してしまう。ただ光を反射し煌めくだけで、何を考えているのか全く読み取れない無機質的な冷たさ。「どこ、だろう……」じいっと見つめられるのが少し怖くて、視線を下げた。「考えたこともないなあ」刺さる視線を感じながら、彼の質問について思考を巡らせる。心。随分昔に読んだ本には、心というものは存在しないとあった。嬉しくてどきどきするのも、悲しいことに胸が痛くなるのも、全ては脳の作用によるものだと。僕の返答を黙って聞いていた彼をちらりと見やる。変わらず突き刺すように僕を見つめていた彼は一度頷き、考えるように視線を落としてからまた目を光らせた。「じゃあ、質問を変えます」きらりきらりと美しく輝く瞳の奥に時折思い出したように彼の中身が顔を出す。けれどそれはいつも読み解く前に消えてしまうのだ。「どこにあったら、いいと思いますか?」きつく締め上げるような眼差しに動けなくなり、視線すら逸らせない。「そう、だなあ……」緊張と恐怖に声が微かに震え、背中を這う寒気に顔が引き攣りそうになる。「僕は」ふっと視線が柔らかくなり優しい微笑を浮かべた彼が、愛おしそうに僕を見つめた。「心臓にあればいいなって、思うんです。心臓は大切な部分ですから、そこの中にあればいいって」ゆず君はどうでしょうか。と笑みを浮かべたまま少しだけ首を傾げる。彼は一体何を言いたいのだろう、何を求めているのだろう。「僕も、そうだといいって思うよ」僕の答えに満足げに彼は頷いて本を閉じた。「もしゆず君の心は心臓にあるなら、僕は君の心臓が欲しいと思います」立ち上がった彼が何かを振り上げる。何だろうと思ってそれを目で追った僕の胸に、「だからください、ゆず君の、心臓」どすり。
rewrite:2022.03.09 | 元ネタ:黒子テツヤに殺されるbot様、女子高生に殺されるbot

月よりも星よりも近いところで

▼ 黒子テツヤ / krk

僕が先生を好きになった一番の理由は多分、僕を見失わないからなんじゃないかと思う。でもそれだけじゃない。笑った顔がすごく幼くてかわいいところとか好きな本を読んでいるときの楽しげな横顔とか、優しい話し方だとか、温かい考え方だとか、好きになった理由はたくさんあるし、きっとこれからも増え続けるのだろう。そうやって好きな部分を見つける度、僕は改めて先生に恋をするのだ。「先生」三角定規とコンパスを腕に引っ掛け、教科書を抱えて歩くその背中にそっと声をかける。後ろからいきなり声をかけてもこの人は驚かないのだ。「ああ、黒子くん」ふわりと春の陽だまりのような笑顔が浮かぶ。「あれ、今日は少し顔色が悪いけど……」すっと笑顔が引っ込んで心配そうに眉がよる。覗き込むように首を傾げた姿に、きゅんと小さく胸が鳴った。こういう些細なことにも気付いてくれるところも好き。「少し、寝不足なだけです」「また本でも読んでた?」あなたのことを考えていました、なんて言えるわけもなく曖昧に頷く。前まで僕が寝不足になる原因は本だけだったけれど、今は先生だけだ。本を読んでいるときも、ご飯を食べているときも、いつも先生のことが顔を出す。そうやって先生を思い出す度に僕は息が苦しくなって、本も読めなくなるし、ご飯も喉を通らなくなるのだ。どれもこれも先生のせいなのに、それを責めることは出来ないのが少し悔しい。「夜更かしはほどほどにね」「はい。あの、先生」「ん?」「今日の昼休み、数学教えてくれませんか」「うん、いいよ。あ、今日やったところ?」「はい、少しわからなくて……」黒子くんは熱心だね、と嬉しそうに笑う先生に、そうっと心の中で謝った。ごめんなさい、違うんです先生、僕が好きでもない数学を聞きに行くのは先生と話したいからなんです。少しでも先生の近くにいたくて、少しでも先生のことを知りたくて、毎度飽きもせずに数学の教科書を持って先生の所へ向かうのです。「じゃあ昼休み待ってるね」「はい、ありがとうございます」ねえ先生、僕はあなたのことを愛しているんですよ。きっとそんなこと、全く知らないのだろうけれど。
rewrite:2022.03.10 | BGM:地獄先生 / やくしまるえつこ

ふたりのあいだに横たわる鋭利

▼ 黒子テツヤ / krk

じゃあなと言って手をあげ背を向けた青峰を見送り教室に戻ろうと踵を返すと、いつから居たのかすぐ後ろにもともと大きな目を更に開いたテツヤが立っていた。「うわ!」多少テツヤの影の薄さとかには慣れてきていたけれど、流石に背後に立たれると吃驚してしまう。ばくばくと嫌な感じに鳴る胸を手のひらで押さえ落ち着かせてから再度テツヤを見た。「どうした?」薄く開かれた唇が戦慄いている。丸く見開かれていた目がすっと色を失くし、じとりと睨みつけるように形へ変わった。テツヤがこんな目をするときは何かにとても怒っている時で、そういう時はとんでもないことが起きる時だ。「テツヤ……?」情けなく震えた自分の声を笑える程空気は軽くない。「浮気、ですか?」ぴんと張りつめた空気の上を滑り届いた言葉はなんだかよく分からないものだった。「え?」浮気とは何のことだろうか。そんなことした覚えもなければする予定も今後一切ないのだが。「惚けないでください」「惚けてなんか……」「じゃあ!どうしてこんな、人気のないところで二人っきりで会ったりするんですか!?」「二人っきりって、あいつはただの友達だし、」「そんなの言い訳です!」噛みつくように顔を近づけてきたテツヤの気迫に一歩引いてしまう。どうしてこんなに怒っているのか分からない。「落ち着けってテツヤ、そもそもあいつ男だぞ?」「だから何ですか?そんなの関係ないでしょう、だって現にあなたは僕と付き合っているじゃないですか!そうですよ、あなたは僕と付き合ってるんです、なのに、どうしてこんなところで隠れるみたいに会ってたんですか!?」どんどん荒々しくなる声が俺を詰り責め立ててくる。「僕のことが一番好きだなんて言っておいて、よくこんなことが出来ますね、酷い、酷い」酷い、と繰り返すテツヤが顔を伏せる。ゆらりと揺れたその右手に、なんだか見覚えのあるものが握られていた。あれは確か俺の筆箱に入っていたカッターじゃなかったか?
rewrite:2022.03.10 | 元ネタ:黒子テツヤに殺されるbot様、女子高生に殺されるbot

君はゆっくりと輪郭を失う氷のように

▼ 黄瀬涼太 / krk

黄瀬くんの周りにはいつだって誰かがいた。彼は優しいし面白いし、モデルをやれるくらい格好良いわけだから人が寄ってくるのは当たり前で、反対に僕の周りには誰もいなかった。いや、黄瀬くんはもしかしたら僕のそばにいてくれたのかもしれない。そうだって思っていたい。彼には僕が見えているはずだった。だって彼が僕を見つけてくれた最初の人で、僕の傍にいると笑って言ってくれた最初の人だから。そんなこと言ってくれる人はきっと黄瀬くんが最初で最後の人だろう。でも、そんなことを言ってくれた黄瀬くんも、やがて僕が見えなくなる。無いものとして扱われる僕に優しくしてくれていた黄瀬くんはもういない。どこにもいない。「黄瀬くん」だからたとえ呼んだとしても来てくれるようなことはないし、きっと気付いてすらいないのだ。遠いところで女の子たちをお喋りして笑い合っている黄瀬くんに、すうっと頭が空っぽになっていく。一体いつからこうなったのだろう、どこで間違えてしまったのだろう。一体黄瀬くんにはいつから僕が見えなくなったのだろう、ここにいるのに、どうして。ふと彼の目がこちらを向いた。突然のことに驚いて、それでも見てくれたことが嬉しくて顔が緩むのがわかる。彼が見てくれた嬉しさに笑ったけれど、彼は僕に笑い返してはくれなかった。それどころかまるで何も見えていないみたいに何の反応もない。僕のほうを向いているはずなのに、彼の目はすうっと僕を通り過ぎている。そこに存在していないように、さも当たり前というように平たい眼差しが、ぼんやりと僕を覆う。今ここで彼に近づけば、触れれば、また前のように彼は僕をちゃんと見てくれるようになるのだろうか。僕だけを見てくれだなんてそんなこと言わない。そんな贅沢なことは言ったりしないから、どうか僕のことを無視したりしないで、いないみたいに振る舞わないでほしい。「黄瀬くん」視線が噛み合わない。「ねえ」ちゃんと僕は、ここにいるはずなのに。
rewrite:2022.03.10

かんたんな言葉で朝を呼ぶ

▼ 高尾和成 / krk

瀧川聖司は努力家だ。いつも早くに学校に来て、まだ人の少ない体育館で真剣な顔をして自主練習をしているし、帰りもいつも最後まで残る真ちゃんと一緒に練習している。休みの日でも時間があればストバスのコートで練習しているらしい。いつだかその話をしたとき、聖司は自分には才能だとかそういう抜きん出たものはないから、上手くなるには死ぬほど練習するしかないのだと言っていた。上手くなって色々なことを試せるようになりたい、出来るようになりたい。そう言った聖司の目はきらきらと眩しい程輝いていて楽しそうだった。多分、あの時に俺はあの目に恋をしてしまったのだ。真っ直ぐで一片の曇りもないあの瞳に見つめられたいと、俺を見てくれたらとそう思った。「あ、高尾。おはよ」「おー聖司、おはよ」汗をタオルで拭っていた聖司が俺に気付き、笑う。うん、可愛い。聖司は見た目は男前って感じなくせに笑顔は幼くてなんだか可愛いって感じが強い、とまあ意識し出したらそういう発見ばかりしちゃって、何か知るたびにまた好きになるのだ。「相変わらず早いな、聖司」まだ朝練まで結構時間がある体育館内は人がまばらだ。「高尾だってはえーじゃん」「そりゃあ愛しの聖司ちゃんに早く会いたいからな」「なんだそれ」聖司はいつだって俺の言葉を冗談として受け取る。そりゃまあ仕方のないことだろう、俺も聖司も男だし、俺もそうだったけど聖司も男に恋愛感情は抱くタイプじゃないからその裏にどんな感情があるのかなんざ考えない。現に聖司が今好きなのは真ちゃんのクラスの北川さんという、少し近寄りがたい雰囲気の美人な“女の子”だ。悲しいことに、あの真っ直ぐできらきらな目で見つめられるのは俺ではなくその北川さんとやらなのである。そんな目で見つめられる北川さんが俺には羨ましくてたまらないけれど、まあ羨んでいるだけじゃあ何も変わらないのは分かっている。だから俺は、今日もめげずになかなか伝わらないラブコールをせっせと飽きもせず送るのだ。
rewrite:2022.03.10