私が火事現場に着いたときにはもう家の窓という窓から火が吹き出ていた。鎮火も手遅れだと分かるほどあちこちに火の手が回り、あとはもう為すがまま燃え尽きるのを待つしかないという状態だ。
誰かの叫び声が後方から聞こえ、振り返り驚いた。そこにいたのは宮田さんだったのだ。村の方々に肩を掴まれ押さえ込まれ、それでも家に近付こうしているのか藻掻いている。

「まだ中にいるんだ、一人いる!」

離せ、助けないと、と叫ぶ宮田さんに平時のあの恐ろしいまでの冷静さはない。はじめて見るようなその様子と発された言葉に周囲が俄かにざわつき出した。この中に取り残されているとしても救助は難しい。生存も絶望的だろう。
だが、それを打ち消すように「中には誰もおりません」と強い声が聞こえてきた。そこには今まさに燃え盛っている家の持ち主である倉瀬夫妻と息子さんが立っていた。

「私たちはここにいます、息子も」

旦那さんと息子さんに支えられるようにして立つ夫人のその言葉に皆が安堵の息を吐くけれど、宮田さんだけは違った。

「嘘だ、中に一人いる!皇一郎様がいない!中にいるんだろ!」

倉瀬夫妻を見るその眼は殺意に満ちている。聞き慣れない名に八尾さんを見るが、彼女も知らないのか小さく首を振った。
倉瀬さんの家の息子さんは聡太郎という名前である。彼らの家に子供は一人しか居らず、彼ら三人以外は祖父母や叔父叔母などの同居人もいないはずだ。
ならば宮田さんの言う“もう一人”は一体、誰のことだ?
吠え叫び続ける宮田さんをただどうすることも出来ずに見つめていると、不意に前方が騒がしくなった。しかしそれは一瞬のことで、辺りは異様な静けさに満たされていく。一体何があったのかと前方へ意識を向けた時、私は奇跡を見た。
煌々と燃え盛る家の中から、誰かが出てくる。炎の中から現れた、死装束のような白い着物に身を包んだその人の姿は伝承の神そのものに思えた。燃え揺らいでいた禍々しい炎すら彼に道を開ける、奇跡としか思えないその光景に誰もが息を飲み目を見開いている。
幼げな華奢な体躯に美しい顔をした少年、あの人が宮田さんの言う“皇一郎様”なのだろうか。炎に照らし出され赤く彩られた彼の発するこの世のものとは思えない空気と美しさに、私は直感した。きっとあの人はこの世のものならざる存在、禁忌の存在なのだろう、と。
ここにいてはいけない人。だから今までずっと、隠されてきたのだ。


* * *


あの火事から一週間、倉瀬家に隠されていた件の少年はあの後意識を失い宮田医院へ運ばれ、今もまだ意識が戻っていない。倉瀬家の諸々にざわついていた村内も、事態に動きがないからか落ち着きを取り戻し変わりない日々を過ごしていた。
しかし倉瀬家だけ、あの日から様子がおかしくなっていると聞く。何かを恐れているように新しく買い取ったという家の窓という窓のカーテンを閉め切り、夫妻も息子さんも滅多に家から出て来なくなったのだと村内の人々は言っていた。
一体何にそこまで怯えているのか、なんとなくだけれど私には分かった。恐らくあの一家にとって少年は、畏怖や恐怖の対象なのだ。一目しか見ていない私にとってもあの存在は何か、恐ろしいもののように思えてしまうくらいなのだから。
あの火事の日のことを、この一週間度々夢に見ていた。白い着物から見える太陽の日差しなど知らぬような真っ白な肌が、赤黒い炎でぬらぬらと光る様のゾッとする美しさ。神にも見紛うほどの神々しさは、決して良いものではない。
その証拠に目が覚めると決まって嫌な汗をかいていて、寒気を覚えるときもあった。この夢は私にとってはとてつもない悪夢だった。

「あの、目を覚ましたって……」

それは突然だった。
昼、いつものように八尾さんと食後のお茶を飲みながら話をしていた時に電話が鳴り、彼が目を覚ましたので病院まで来て欲しいという連絡が入ったのだ。そういった連絡は身内にのみ行くのだと思っていた私はただ戸惑い、またあの存在と対面することへの恐怖感が沸き起こった。
理由を聞いても「ご家族の方からお呼びしてくださいとお願いされたので」としか答えてくれない。一体自分に何を求められているのか分からないまま、八尾さんに背を押されるように病院へと向かった。

「ああ、求導師様。えーと……二階の一番奥の部屋です、宮田先生もそこに」

このまま引き返して今すぐに教会へ帰ってしまいたい。彼を見るのが怖い。彼は私の悪夢そのもののような存在なのだ。
しかし、もう一度見たい、会いたいと願っている自分もどこかにいる。あの時、炎の中から現れたあの少年を見た時、私は恐怖だけではなく陶酔にも似たものを感じた。それをもう一度感じたいとどこかで思っているのだろうか。
二階へ続く階段を上がっている途中、神代家の方達が廊下の奥から現れた。きっとあの少年の部屋に訪れたのだろうが、神代家まで呼び寄せるとはいよいよ妙だ。挨拶をしすれ違おうとしたとき、皆一様に何処か虚ろな目をしていることに気付いた。呆然としているような、夢現のような、催眠にでもかかっているような。
一体、あの部屋で何があったのか。

「牧野です」

微かに震える手で扉をノックすると中から入室を許す宮田さんの声がした。それ以は外何の音も聞こえてこない。

「失礼します……」

中には少年と宮田さん以外誰もいない。倉瀬夫妻はもう来たのか、それともまだ来ていないのか、見舞いの品も何も無いので判断は出来なかった。
窓の外を見ていた彼の瞳が私へ向けられる。その瞳を見た瞬間、私のまたあの二週間前のことを思い出した。あの赤々と燃え盛る炎、それがすぐ目の前にあったのだ。鮮烈な赤き瞳が、息を飲み呆然とする私を見ている。
その時胸にあったのは炎へ飲み込まれることへの漠然とした恐怖と、取り込まれていくことへの途方もない恍惚感。

「初めまして、求導師様」

彼の見せた微笑に何かゾッとするような冷たさが背を這い我に返り、脳裏に禁忌という言葉が不意に浮かんだ。途端、目の前の存在が纏う空気の異質さに気付き恐怖だけが心を占め始める。この人は、一体何なのだろう。
私の恐れを感じ取ったように彼は笑みを深め、徐に話を始めた。

彼は生まれてからすぐ、倉瀬家の地下にある座敷牢へと幽閉された。
それは彼が”禁忌の子”とされたからだ。禁忌の子、赤目は禁忌の証なり―――それは倉瀬家に代々伝わる言い伝えのようなもので、赤目とはその言葉の通り瞳の赤い者のことだという。
そう語る彼の瞳は一見焦げ茶色のように見えたが、光の角度によってはゾッとする程鮮烈な赤色へ姿を変えた。
赤目が禁忌とされるのはその者が厄災を招くからだ、と彼は淡々と言葉を続けた。赤目がもたらす厄災は火事や急病など多岐に渡り、都会の一等地に住んでいた倉瀬家がこの羽生蛇村へやって来たのもかつての赤目が原因なのだそうだ。

「赤目は悪魔に魅入られた証だと俺の祖母が亡くなる前に言っていました。だから隔離するんですよ、触らぬ神に祟りなしですから。下手に関わって機嫌を損ねたら何が起こるか分かりませんからね」

彼のことを宮田さんが知っていたのは、定期的に健診を赴いていたからだった。健診以外にも色々、細々とした面倒を見ていたらしく、医者と患者にしては些か異様なほど距離が近い。
他人事のように淡々と自身の話をする彼を見つめる宮田さんの目はうっとりとしていて、それが私には恐ろしくてならなかった。

「あの火事も、家に赤目がいることに耐え切れなくなって起こしたものなんでしょうね」
「え……?」

彼の口振りではまるで彼を殺すために、倉瀬夫妻が自分たちの手で家に火を付けたと言っているようだった。
もしそれが事実だとしたら、村人たちのいう倉瀬夫妻のあの怯えようも納得出来る。彼らは厄災を恐れているのだ。

「求導師様をここへ呼んだのもきっと、あなたに俺をなんとかして欲しかったんでしょう。自分たちを守りたいんですよ、自分たちだけでもどうにか助かりたい、逃れたいから、力ある者を差し向けてどうにかしようとしている」
「どうにかって、どう……」
「俺を殺すでも何でも。所謂災いと呼ばれるものを避けたいから、それに対抗できそうな存在を呼んだんでしょう」
「そ、そんな、私は、」
「俺の話を信じてくださるのならば、もう何が起きても関わらないでください。俺自身も、どこまで飲み込んでしまうのか分からないから」

と、その時不意に外から怒号とも悲鳴ともつかぬ声が聞こえてきた。荒々しい足音はこちらへと向かって来ているようだ。その音に彼は少しだけ愉快そうに目を細め、一瞬宮田さんを見て、それから私を見た。

「求導師様、今日は話を聞いてくださってありがとうございます。お忙しいところ申し訳ありませんでした」
「あっ、いえ」
「我が家にはどうぞ関わらず健やかにお過ごしください」

美しい笑みでもってそう言われ、それから宮田さんに促されるようにドアまで歩む。
最後に挨拶をしようと振り返ったとき、何かがうねるように動く空気を感じた。底冷えする、何か得体のしれない気配。それはあの教会の祭壇裏にある洞窟の空気とよく似ていた。

暗澹たる庭

rewrite:2022.03.30