※そこはかとないホラー要素あり


ふと目が覚めて見た隣に誰も居らず、一瞬息が止まった。

大和は恐らく夢遊病というものらしく、夢現のままふらふらとどこぞへと行ってしまう。それは風呂場だったり、押し入れの中だったりと部屋のどこかにいる場合のほうが多いが、時折近場の公園のベンチで眠っていたり、マンションの入り口に座り込んでいたこともある。
一度だけ、俺たちの住む階の一つ下、四階のエレベーター前で佇んでいたこともあった。その時大和が言ったのだ。誰かに呼ばれた、と。焦点の合わない目で誰も乗っていないエレベーターを見ながら言ったのだ、大和は。
心底ゾッとしたし、大和がナニカに何処かに連れて行かれてしまうような気がしてとてつもなく恐ろしかった。当然大和にその時の記憶もなく、それとなく何かの夢でも見たかと聞いても何にも覚えていない。自分がそこにどうやって行ったのかも全く覚えていなかった。
いつからこの症状が起きているのか詳しいことは聞いていない。一時期は病院にも通っていたらしいが一向に改善せず、行くのも止めてしまったそうだ。俺とこうして暮らすようになる前まではとりあえずの手段として、自分の手首とベッドヘッドを柔らかい紐で結んでいたらしい。時々紐がほどけている時もあったが、運が良かったのか大きな事故を起こすこともなく、外をふらつき保護されるということもなかったという。

大和、どこだ、大和

名前を呼びながらあちこちの部屋を開けて見るけれど、どこにも姿が見えない。またどこかで眠り込んでいるかと押し入れやクローゼットなど人が入れそうな場所を開けてみてもいない。といことは外に出てしまったのだろう。
玄関には俺と大和の靴が並んで置かれたままになっている。今は秋も終わりに近い。靴を履いていないならば当然上着なんてものを羽織ってもいないだろう。ばたばたと慌てて大和の分の上着を手にとり、靴をひっかけて外へ飛び出す。
白々とした蛍光灯が無人の廊下を照らし、どことない不気味さがある。時間帯が深夜なだけあり辺りはひどく静かで、自分の足音と呼吸音がうるさいほどに響いていた。フロアの廊下を端から端まで歩き、階段を下りていく。大和が無人のエレベーターを見つめているのを発見して以来、なんとなく恐ろしくて一人ではエレベーターを使えずにいた。
四階に繋がるドアが見え脈拍がはやくなっていく。冷汗が滲み、ノブにかけた手が微かに震えていた。

大和……?」

ドアを開いた先も耳が痛くなるほど静かで、心情的なものもあるのだろうが五階よりも妙に寒いように感じてしまう。パチっと一瞬真上の蛍光灯が明滅した。情けない悲鳴が喉から溢れそうなのを飲み込み、そろそろと足を踏み出した。
あの角を曲がれば、いよいよエレベーターが見える。急がねばと思うのに、鉛でもついてるのかというほど足が重い。のろのろと歩みながら、覚悟を決め、角を曲がった。
ひゅっと息が歪に鳴る。
煌々と蛍光灯に照らされたエレベーターが口を開け、その目の前に大和が立ち尽くしていた。エレベーター内には誰も乗っていない。何のボタンの明かりもついていないのに、口を開けたままのエレベーターが恐ろしくて恐ろしくて、近所迷惑など考える間もなく大声で名前を呼びながら駆け寄った。

大和、帰ろう!帰るぞほら、大和っ!」

いつからここにいたのか、触れた大和の体は冷え切っていた。靴も靴下も履いていない剥き出しの足先は青っぽく変色してしまっている。遮るようにエレベーターと大和の間に立ち、ダウンジャケットを羽織らせ、その体を抱え上げた。
途端、力が抜けたように大和はくったりと凭れかかってくる。目は空いていたけれどどこを見ているのか、大和はぼうっとした顔で下方をじっと見つめていた。


* * *


やっと辿り着いた我が家の上がり框に大和を座らせ、風呂を沸かす。手を洗うついでにお湯で濡らしたタオルもつくり、大和の汚れてしまった足を温めるようにしながら拭いていった。
大和は変わらずぼんやりと焦点の合わない目を床へと向けている。何も言わず何の反応もなく、時折ひくりと指先が動くがただそれだけだった。いつもの力強さの失せた瞳は美しい硝子細工のようで生気を全く感じさせず、精巧な西洋人形じみた妙な恐ろしさを漂わせている。
足を拭き、着替えを取りに行ったところで風呂が沸いたことを知らせる音が浴室から聞こえてきた。早く風呂に入ってあたたまって寝てしまおう。何もかも忘れて、何も考えずにただ眠ってしまいたい。
意識はまだ眠っているのかただされるがままの大和の服を脱がせ、あたたかな浴室へと連れて入った。

「熱くないか?」

返事が無いだろうとは思っていてもつい話しかけてしまう。くったりと体を預けてくる大和を背後から抱きかかえ、湯船から出た肩に湯をかけ撫でる。そうしながらぽつりぽつりと取り留めない話を一方的にして、さあそろそろ温まったし眠気もやってきたから風呂からあがろう、と思った矢先。
ぱちん、と浴室内の電気が消えた。
脱衣所の電気も消えたのか、擦り硝子の向こうも真っ暗で何も見えない。すぐ目の前にいるはずの大和の顔も見えないくらいの異様な暗さに、何か底知れぬ恐怖がぞわぞわと背筋を這い上がってくる。少し熱いぐらいの湯に浸かっているはずなのに、妙な肌寒さを感じ身体が震えた。
と、玄関で物音が聞こえてくる。がちゃんと響いたその重たそうな音がドアの開閉音だと気付いたのは、その音に続けてペタペタと裸足で歩いているような音が聞こえてきたからだった。
誰かが家に入ってきた。俺はドアに鍵はかけなかったか?一体誰が、もしかして、
脳裏にあの誰も乗っていないエレベーターが過る。
恐ろしくて堪らずぎゅうっと大和の体を抱き締めたとき、ふと違和感を覚えた。お湯であたたまっていたはずなのに、何故こんなに冷たいのだろう?
ぺた、ぺた、と聞こえる足音はどこか安定感のかける歩き方をしている。そう、まるで夢現のときの大和のような―――
ばくばくと心臓が嫌な音を立てている。強張ってしまった身体はいうことをきかず、力の入った腕はそのまま固まったように動かない。
どうしてこの浴室内には自分の呼吸音しか聞こえないのだろう。俺と大和、二人いるはずなのに。
足音はそのままリビングへと向かって行ったのか遠ざかっていく。そうして、ぱたん、と奥の方でドアの閉まる音がした。
理解した途端、ざあっと血の気が引いた。動けなかったのが嘘のように大きな水音をたてながら勢いよく立ち上がり、怪我することも厭わず湯船から転がり出る。あちこちにぶつかり引っ掛かり、色々な物を落としながらそれでも何とかソレから距離をとりたくて、割ってしまうような強さで硝子戸を押した。

「……カラ松?」

かなりの物音を立てていた。それこそ隣人にも聞こえてしまっているかもしれないと思うほど、それぐらい騒々しくした自覚はあった。

「なんで真っ暗ん中で風呂入ってんの?」

廊下のオレンジ色の光を背負って、眠たげに目を瞬かせながら大和が脱衣所の戸に手をかけ立っていた。
真っ裸でびしゃびしゃに濡れたまま突っ立っている俺を見て、不思議そうな顔をしてから少しだけ笑ってバスタオルを引っ張り出してくれる大和はいつも通りだ。ぱちんと脱衣所の電気を付け、せっせと俺を拭いてくれる大和の足は、土埃で少し黒く汚れていた。
ぎゅっと目の前の体を抱き締めれば、少し厚手のパジャマ越しに平時よりは随分と低いが、ほんのりと体温が伝わってくる。俺が震えていることに気付いたのか、ぎゅうっと抱き締め返して背を撫でてくれる手も温かい。

大和、どこに行ってたんだ」
「ん~、覚えてない。起きたら寝室に立ってたから」

俺は一体、あそこで何を連れて帰ってきて、何を家に入れ、何を抱きかかえていたのだろう。
脱衣所の電灯で照らされた浴室内には、誰もいなかった。

知らなくていい

rewrite:2022.03.16