金曜日の夜、一週間を乗り切り明日から休みだから家で酒でも飲もうとコンビニで買い物をして帰ってきた我が家の前、がちゃがちゃと何かをしている黒い人影にぎょっとし、ちょっとだけ声がこぼれた。
誰だ。一体何をしている。まさか空き巣か!?とポケットに押し込んでいた携帯電話に手を伸ばしたとき、人影がぐらりと揺れた。
「っわ!」
咄嗟に腕が伸び、そのまま倒れんとしていた怪しい人影を抱きかかえる様に支えてしまった。
そうして見れば、腕の中でぐったりとこちらに凭れ掛かってきているのは何と隣人の青年ではないか。暗いせいであまりよく見えないが、それでも妙に顔が赤い気がする。酔っているにしては酒の匂いは感じなかった。
「おい、大丈夫か?」
軽く揺するとゆるゆると瞼が持ち上がり、あまり焦点の定まっていないやけに潤んだ瞳がふらふら彷徨いながら俺を見る。何が起きたのか分かっていないのか、しばしぼんやりと俺の顔を見ていた彼は、あ、と小さく声をこぼした。
「すいません……ありがとーございます」
耳によく馴染む低い声は掠れていて小さい。
それからまたぐらぐらと揺れながらもたもた俺から離れた彼は再び俺の部屋のドアへ手を伸ばした。その手には銀色の鍵。一体何を、と見ていれば、彼はうんうん小さく唸りながらその鍵を一生懸命鍵穴へ入れようとしている。
だが、残念ながらその鍵は絶対に入らないだろう、何故ならそう、そこは俺の部屋だから。君の部屋は隣だぜ。
もしや青年は酔っているのだろうか?酒の匂いはしなかったと思うんだが、ほんの少しでもべろんべろんになってしまうタイプの人種なのかもしれない。
「あー……あの、そこ、俺の部屋です」
「ええ……?んー……?」
鍵穴に鍵を突き立てるのを止め、またのろのろと俺を見た彼は、何を言っているの?と言いたげな無防備な顔で首を傾げた。その様がなんとなく弟たちが風邪を引いたときの様子に似ていて、もしやと思う。酒に酔っているんでも何でもなく、単純に体調不良でふらふらなのだろうか。そうすると酒の匂いが全くしないのも頷ける。
失礼、と一言告げて青年の額に手を伸ばしてみれば、なんと熱いことか!
「酷い熱じゃないか!」
「おー……?」
「ほら、鍵を貸してくれ、開けるから!ああ、危ない!倒れるからほら、掴まっていろ!」
慌てて彼の手から鍵を奪い、彼の脇下に腕を回して支えながら隣の部屋の鍵穴へ鍵を差し込む。何の抵抗もなくすんなりと入り回されたそれに、彼が小さく「おお……」と声を零したが、全く感心するところではない。
ドアを押し開け、ちょっと上がるぞ、と声をかけて彼の靴も脱がせて上がり込んだ部屋は、俺の部屋に比べて随分と綺麗なものだった。物も少なくシンプルなその部屋で大きめのベッドの上に鎮座した、全長が青年の三分の二くらいはありそうな巨大なテディベアだけ妙に浮いている。
「ひとりで着替えられるか?」
「ん、ん?うん、うん、へーき……I'm alright. Good. Don’t worries...」
ぼそぼそとあまり耳馴染みのない英単語が聞こえてくる。明らかに大丈夫そうではない顔色で親指を立て、ふらふらとベッド近くのクローゼットへ歩いていく彼は千鳥足どころではない。
転ぶのではとはらはら見ていればやはり、べしゃりと途中で力尽きて崩れ落ちた。くったりとカーペットの上に横たわった彼の肩は忙しなく動いている。きっと動いて更に熱が上がってしまったのだろう、これはまずい。
「どうしよう……脱がせても大丈夫か?適当に着替えさせるぞ?」
赤の他人に何故ここまでしているのだろうと冷静な自分が思うが、さすがに目の前に明らかにヤバい顔色をしてきっと高熱であろう人を捨て置いて部屋には帰れはしない。それに、手を出したら最後まで面倒を看ろと一松も言っていたじゃないか。
うんうんと頷き、「失礼」と一言告げクローゼットの中を漁り青年を着替えさせ、ベッドへ寝かせる。持ち上げた体も随分熱くて、少し怖くなってしまった。
寝るのに邪魔だろう、とダブルかセミダブルくらいありそうなベッドの半分を占める馬鹿デカテディベアをそっと持ち上げ避けようとすると、半ば眠りに落ちかけていた彼が目を開け、手を伸ばしてきた。
「やめて、ワトソンつれてかないで」
幼い子供のような、心細げな顔と声に一瞬胸がぎゅうっと苦しくなり思わず「うぐっ」と呻いてしまった。何だ、一体どうしたんだマイハートは?働き過ぎによるストレスか?もしかしてもうすぐ死ぬ!?
掴んだままのテディベアを引っ張られる感覚にハッと我に返り、慌てて傍に置きなおした。青年は安心したように息を吐いてもふもふの足に顔をすり寄せる仕草は、小さな子供そのものだ。なんなんだこの気持ち、なんだこの、守らなければという使命感は!
ベッドの脇にがっくりと膝をつき、きゅんきゅんと締め付けられている胸を押さえる。この感じ、昔一松の友達が産んだ仔猫を抱いたときと同じものではないか?多分、いや、間違いなくそうだろう。あのもこもこでふわふわの小さな生き物を手に抱いたときに感じた、途方もないときめきと庇護欲を今俺は感じているのだ!
つまり、つまるところ彼は、ふわふわもこもこリトルキティと同一……?
「なんてことだ……」
いつだったか、寄る辺ない野良の仔猫は衰弱して死んでしまうことがあると聞いたことがある。守ってくれる存在も食物を与えてくれる存在もいないのだ、当然あり得ることなのだろう。
この部屋に彼が元気になるまで面倒を看てくれるような人は恐らくいないのだろう。だから彼はこんなに具合が悪くてふらふらになってもたった一人で部屋まで帰ってきたのだ。部屋の中の様子からしても誰かと共に暮らしているような気配はない。
つまり、つまるところ彼は、寄る辺もなく孤独に震えるリトルキティ……そして俺は、そんな弱って震えるリトルキティを救えるただ一人の人間なのでは?
思えば全てはこうなる運命だったのかもしれない。彼が俺の部屋を自室と勘違いしたのも、そこに俺が帰って来たのも、今日が金曜日だということも全て。
ならばこうもしていられない。彼が目覚めたとき、きっとお腹を空かせているだろうから何か食べられるものを用意しておかなければ。汗も拭いてやらねばならないし着替えだってそうだ。明日には彼を病院に連れて行かなければならないし、やることは山のようにある。
まあまずはマミーに電話して、美味しい卵粥の作り方を教えてもらおう。
松野カラ松、リトルキティ(※比喩)を保護する
rewrite:2022.03.15