昔、まだ六人で一つの塊だった頃、そいつは俺たちの三つ隣の家に住んでいた。
そいつはアメリカだかイギリスだか出身の父と日本人の母の間に生まれたハーフの子供で、鮮やかな青緑の瞳をしていた。そいつは外よりも室内で遊ぶのが好きな大人しいタイプで、一松や十四松と気が合うように思えたが、一番仲良くしていたのはカラ松だった。
当時のカラ松といえば喧嘩っ早くて飽きっぽい、室内で遊ぶよりは断然外遊びが好きな子供だったのに、カラ松はそいつとよく遊んでいた。室内で一緒に本を読んだり、くすくす笑いながら何かを話していたり、そうしているカラ松はまるで一松や十四松のように見えた。
そいつの何がそんなに気に入っているのか聞いたことがある。その時カラ松は、そいつの瞳の中には宇宙があるのだと言った。それがすごく綺麗で気に入っているのだ、と。カラ松には光の加減で青にも緑にも見えるその目がひどく神秘的に思えていたのだろう。よく覗き込んではじっと見つめ、そいつが困ったように笑っていたのを覚えている。
逆に俺やチョロ松なんかは黒や焦げ茶ではない、自分たちとは違うその目がなんだか恐ろしいもののように思えていた。極端に言ってしまえば、同じ人間だとは思えなかったのだ。青緑の目も、血管が透けているんじゃないかというくらい青っぽい白い肌も。
だからそいつと遊ぶカラ松にはあまり近寄ることはなく、それ故にあの室内でどんな会話がなされていたのかは知らない。ただ、その時の二人は二人だけの世界に浸っているように見えた。
それが終わりを迎えたのは小学校四年生の夏休みの頃だった。そいつがまたアメリカだかどこだかに戻るというのだ。俺たちはあまり遊ぶことが無かったから元気でやれよ、なんてあっさり別れたけれど、カラ松なんてそれはもう身も世もなく泣き叫んでいた。そいつもつられた様に泣きながら、けれど意外なほどしっかりとした声で言ったのだ。
「絶対帰ってくるから、忘れないで待ってて」と。


そして高校二年生の夏、そいつは帰ってきた。

教卓に立つ教師の隣に並んだそいつは七年の間に随分と様変わりしていた。変わらないのは青緑の目と青めいた白い肌くらいだ。それでも俺は、一目でその男がカラ松と仲の良かったあの子供だと分かった。
そいつの纏う空気には独特の静けさがあったのだ。それは周りにいる人を落ち着かせるとか癒すとかそういう静けさではない、嵐の前の静けさのような、どこか空恐ろしさを感じさせる静けさだ。それと全く同じものを、目の前の男は纏っている。

「えー、今日からこのクラスの一員になる工藤大和君です」

そいつは何かを探すようにぐるりと教室を見回した。そして俺を見つけると、一瞬笑った。
ああほら、間違いない、あの男だ。


* * *


昔、まだ何をするにも六人一緒だった頃、彼は俺の家の三つ隣に住んでいた。
彼は美しく澄んだ海のようなブルーグリーンの瞳を持つ、異国の血を引く人だった。確か父がアメリカ人で、母は日本人だと言っていた。父の仕事の関係でアメリカから日本に越してきたのだとも。
当時の彼は少し人見知りの気がある大人しい少年だった。外で駆け回るよりは家の中でピアノを弾いたり図鑑を眺めたり、絵を描いたりするのが好きで、海外の見たこともない色んなボードゲームを持っていた。俺にはそれがとても珍しく魅力的に思え、彼の家を訪ねては図鑑を共に見たり、大きな画用紙に宝の地図を描いたり、彼にルールを教えてもらってボードゲームで遊んだ。
仲良くなってみれば、彼は意外な程饒舌で、色々な話をしてくれた。アメリカに住んでいた頃に近所にいた猟銃を撃ちまくる老夫婦の話、学校に現れる天才物理学者の変人男の話に旅行先で出会った謎の財団など、彼の口から語られるそれらはとても色鮮やかに輝き、まるで別の惑星の話のように思えていた。おとぎ話のようなそれを聞くのが好きで、何をするでもなくただ話をする日もあったほどだ。
彼と遊ぶことが増えた頃、一度だけおそ松に聞かれたことがある。彼の何がそんなに気に入ったのだ、と。どうも俺が俺とは真逆の大人しい彼と遊んでばかりいるのが不思議で堪らなかったらしい。俺はその時、確か彼の目がとても気に入っているのだと答えたはずだ。
それは確かに嘘ではない。当時兄弟一人一人に与えられた宝箱代わりのお菓子の缶の中で、一等お気に入りだった夜空のような深い藍色に輝くクラックビー玉よりも、俺はそのきらきらと煌めく瞳が好きだったのだから。
だが、それだけではないのだ。彼の何がどう気に入っている、ということではない。ただ俺は、彼にどうしようもなく惹かれていたのである。それがただの友情や見知らぬものに対する興味関心だけではないと気付いたのは随分後になってからだが、当時の俺はただただ彼と共に過ごしたかった。

俺にとって彼は、かけがえのない親友であると共にどうしようもなく愛しい人であり、俺の世界を照らしてくれる唯一人の神様なのだ。


* * *


転入生だとかいう男がカラ松を訪ねて来た時点で、嫌な予感はしていたのだ。

最初はキョトンとした顔をしていたカラ松は目の前の人間が誰なのか分かったのか、驚いたように大きく目を見開いて、ふらふらと夢現のような足取りで男に近付いていった。そうしてにっこり笑んだ男を見て、嗚呼、と息を漏らす。
その姿は敬虔なクリスチャンのようでもあり、怪しげな密教の狂信者のようでもあった。
見る者をゾッとさせる異様な空気を撒き散らしながら、カラ松は「大和」と熱に浮かされたような声で、小さな溜め息を吐くようにそうっとその男のものと思われる名を呼んだ。そこにいつものあの格好つけた痛々しく鬱陶しい表情はなく、恍惚さえうかがえるとろりと蕩けた瞳と微笑がある。背筋をひやりとしたものが這い、ふるりと体が震えた。
きっと今、兄の視界には驚くクラスメイト達など入っていない。今カラ松の世界には目の前の男一人しか存在していないのだろう。

その様は、どこか見覚えのあるものだった。はてさて、一体どこでだったろうか?

「ただいま、カラ松」

白い指先が柔くカラ松の頬を撫でる。決して大きな声ではないのに響く様な低いその音にうっとりと目を細めたまま、カラ松は熱で掠れた声で小さく「ああ」と零した。それから頬を撫でる手に己の手を重ね、握る。
僕は一体今、何を見せられているのだ。同じ顔が男となんだかいやに甘い空気を醸し出しているなんて悪夢でしかない。けれど何故だか、僕はその光景を何度か見ているような気がした。
カラ松は「あのな、話したいことがたくさんあるんだ」ととても嬉しそうな声を出して、ぎゅっと握った手を引くように教室から出て行ってしまった。その後ろをこれまた嬉しそうに笑いながらついていく男の輝く異国の瞳。

幼い兄が、日本人離れした少年の手を引いて歩いている。何かを話しては顔を見合わせ、くすくすと笑う。

そうだ、僕はあれを何度も見ていた。あの男は、かつて家の近所に住んでいた兄ととても仲の良い子供だ。昔とは風貌がまるで違うが、あの見るものを惹きこむ青緑の目は変わっていない。よく覚えている、あの目で見られると上手く息が出来なくなって苦手だった。
ひとつ思い出せば芋蔓式に記憶は蘇ってくる。あの男はカラ松ととても仲が良かった。しょっちゅうベッタリくっついて遊んで、二人っきりでよく分からない世界を創り上げていたくらいだ。
ああ確か、そうだ、あの男は引っ越す際に言っていた。絶対帰ってくるからと。
そうして帰って来たのだ。男はあの幼き日の約束を守ったのである。


* * *


「なあ、大和、いつ戻って来たんだ?住んでるのは前と同じ家か?」
「家は前と同じで、こっち来たのは一週間くらい前だな」
「え!?なんで教えてくれなかったんだ!」
「ちょっとばたばたしてて忙しかったし、ビックリさせようかと思って」

悪戯っぽく笑う彼は、記憶の中の少年とはまるで違っていた。けれどきらきら輝く神秘的なその瞳と纏う空気が、彼があの少年だと教えてくれる。
じわじわと熱が込み上げ、話す声が震え出す。覚えていてくれたことが、そして約束を守ってくれたことがこんなにも嬉しい。情けないことに気を抜けば泣いてしまいそうだった。

「……おかえり、大和

またあの夢のような日々をやってくるのだ。
見るもの全てが鮮やかな色を持って輝き、どんな些細なことも楽しく素晴らしいものに思える、彼とじゃなきゃ過ごせないあの、美しい日々が。

致死の瞳

rewrite:2022.03.14