どれぐらいそうしていたのか、外はいまやすっかり静まり返っている。いっそ不気味なほどの静寂は自分の呼吸音が煩く感じるほどで、震える手に握りしめられた鈴も役目を終えたかのように少しの音も立てやしない。
ただただ神経が擦り減っていく静けさの中で、じっと自分を覗き込むモノの気配は相も変わらず消えはせずそこにあった。それは大和の恐れを哂うように時折ぐるりと周囲を蠢いてはまた目の前へ戻り、じっとその目が、口が開くのを待っている。
滲んだ涙がとうとう頬を伝い落ちたとき、不意に恋焦がれた声が聞こえた。
遠くで自分の名前を呼ぶ声に一瞬目を開けそうなったところで、ハッと大和は思い出した。ホラー映画やホラー小説でよくある話のひとつに、助けにきたと思ったら化けた幽霊で結局取り込まれてしまう、というオチを。
ホラー映画やホラー小説、ホラーゲームも嗜む大和は聞こえる声に無反応を貫くことにした。もし本物の赤司が来たのであればきっとここまでやってくる。ここまで来て、自分を抱きしめてくれるはずだ。

大和、どこにいる、返事をしてくれ」

本当にそっくりな声に、大和の閉じられた瞼からまたじわりと涙が滲んだ。
だがそのすぐ後、聞き覚えのある声が阿保みたいに大騒ぎしている声が聞こえその涙は一瞬で止まった。

「あっはははは、見ろ長谷部!刀がぐっちゃぐちゃに腐ってやがる!」
「汚物は消毒!」
「焼き討ち焼き討ち!」
「これは焼却であって焼き討ちではないですよ、主」
「こまけぇこたぁいいんだよ!」

いっそ恨めしいほど楽しそうなその声はあの日本家屋にいた、鈴をくれた男のものだった。もう一つの声は恐らく男曰く『俺だけの神様で俺の超格好良い旦那様』であろう。

「おい坊主、それに触んなよ、穢れがうつんぞ」
「主、もういっそ建物ごと燃やしてしまいませんか。この長谷部が本物の焼き討ちをお見せしましょう」
「え、見た~い!」
「待ってくれ、俺の恋人がいるかもしれないんだろう!?」
「うーん……でもこの状況的に別の意味で不味いことになってきてるからな」
「別の意味で……?」
「結界張られたっていうからお前の恋人が取り込まれかけてんのかと思ったけど、逆みたいだからな」

声はだんだんと近付いてくる。

「逆って、」
「下がれ、結界を張る。長谷部、良いというまで声を出すなよ」
「はっ」

あ、と思った。
ばつん、と何かを断ち切られたような感覚を僅かに感じ、それと同時に目の前いたモノがぞろりと蠢くのを感じる。
部屋の外で悍ましいことが起こっていてもずっと大和を見つめていたソレが、ゆっくりと離れていく。す、と障子が開く小さな音が聞こえ、室内に籠っていた臭いが外へと流れていった。

「ひでぇ臭いだな。坊主、視えるか?」
「……いいえ」
「臭いは?」
「何も」
「お前のは深くないな。これ持ってさっきの鳥居の向こうまで長谷部と戻れ。俺が行くまでそこから動くな」
「……はい」
「途中で何を見てもそれはお前の恋人じゃない。お前の恋人は俺が連れて出てくる。いいな?」
「、はい」

随分と不穏な会話だ、と遠ざかる二つの足音を聞きながら大和は思った。自分が化け物と同等の扱いになっている気がして、笑いそうになる。
室内にはもう何の気配もない。あの吐き気のする臭いも消え、あるのは外から漂ってくる焦げ臭さだけだ。
きっともう目を開けても大丈夫だろう。だがどうしてか開けたいと、開けようと思えなかった。
きしりと床板を軋ませ、足音がひとつ近付いてくる。それは恐らく鈴をくれた男のものだろう。
開かれたままの障子の前に立った男は、そこからじっとこちらを見つめている。まるで観察するように大和を眺め、それからやっと男は室内へ入ってきた。

「なあ」

呼びかけられても大和は目を開けなかった。

「お前、触られただけじゃないだろう」

怖いのだ。

「一体何を植え付けられたんだ?」

きっと今、自分の目の奥で何か黒々としたものが蠢いている。そんな気がするから。


* * *


そこかしこに落ちた血塗れの服と砕けた刀らしきもの、血溜まり、引き摺られたような血痕、それら全てが赤司へひどく嫌な“予感”を与えた。
脳裏をちらつくのは、夢で見た自分をいつだって助けてくれた“大和”の姿だ。幽霊も鬼も何もかを飲み込んで滅茶苦茶に壊してしまったあの姿、あの時に漂っていたものと似たものを今、赤司は僅かにだが確かに感じていた。
先導するように黙って前を歩く長谷部と呼ばれた男の背を追いながらも、赤司の意識はあちこちに散っていく。
と、不意にすぐ横の部屋から声がした。

「せいじゅうろう?」

聞きなれた、ずっと捜していた大和の声。
寝起きのようなどこか舌足らずなそれに赤司はハッと足を止め、そちらを見た。閉じられた障子に映る人影。ここにいたのか、呼びかけに応えなかったのはこちらの姿が見えなかったからだろうか。
赤司はふらりと呼び寄せられるように一歩障子へ近寄った。だがその手が引手に触れる前に、強く腕を引かれる。
ハッと見れば、藤色の瞳がこちらを睨みつけている。

「あ、」

『途中で何を見てもそれはお前の恋人じゃない』、男はそう言っていた。つまりこの障子の向こうにいるのは赤司の捜し求めている人物ではない何かだ。何がいるのか検めたい気持ちは確かにあるが、それをするほど愚かではない。
赤司は「すみません」と小さく謝罪すると再び長谷部の背を追い歩き出した。
そうして指定された鳥居の向こうへ辿り着くまでに何度も何度も大和に似た何かが現れた。
中庭に立つ後ろ姿、僅かに開いた障子の向こう、雪見障子のガラス越し。後ろ姿や横顔しか見えなかったが、それらは確かに大和と同じ姿をしていた。けれどそのどれもが大和ではない。
一体何が大和の姿をとっているのかあまり考えないほうがいい気がして、赤司はただ目の前のカソックを纏った背を追いかけることだけに集中した。
何度も角を曲がり、何度もナニかの姿を無視して、ようやっと見えた鳥居に赤司はほうっと安堵の息を吐いた。あとはこの向こうで待てばいい、そう思っていた時、不意に目の前の背がこちらを向く。
どうしたのか、そう問おうとした赤司の背に何かが触れた。きゅ、と服の裾を掴むその仕草は時折大和がするものだ。

「俺のこと、置いていくの?」

いつか聞いたものと同じ言葉。だがあの捕食者然とした男の甘く濁った絡め捕るようなものとは全く違う、弱弱しい響きのそれ。

「俺を選んだくせに、俺のこと置いていくの」

ぐ、と服が引かれる。

「俺以外、選ぶわけないって言ったくせに」

藤色の目がじろりと赤司を睨んだ。忌々し気に歪んだ口からたっぷりと殺意の籠った舌打ちが零れる。
手袋に包まれたその手にはいつの間にか、先ほども使用されていたお札らしきものがみっしりと貼られたガスバーナーが握られており、その噴射ノズルがまっすぐこちらへ向けられた。

「え、まっ」

ぐ、と胸倉を掴まれ地面に転がされると同時にゴウッと恐ろしい音が頭上から聞こえた。何かが焼け焦げる臭いと、ぼたた、と液体の落ちる音がする。
地面に転がったままそれを聞き、それから恐る恐る振り返り見れば先ほどまで赤司が立っていたあたりの地面に黒々とした染みがが出来ていた。
汚物は消毒。
まるでそう言いたげな顔で鼻を鳴らした長谷部は、呆然と黒い染みを見つめる赤司の腕を引き、半ば引き摺るように鳥居を越えた。


* * *


「その後は大和も知ってる通りだ」
「そっかぁ、なんか楽しそうだな」
「え、俺の話を聞いていたか?」
「俺もゴーストバスターしてみたかった」
「あれはバスターというよりデストロイヤーだ」
「ほぼ同じじゃない?」
「軽さが違う感じがする」
「まあデストロイヤーは根こそぎ感あるもんな」
「そうだろう。大和の方はどうだったんだ」
「あー……」
「あの建物内には居たんだよな?」
「居たよ」
「俺の声は聞こえていたのか?」
「うん。でも本物の征十郎じゃないかもって思って返事出来なかった」
「ホラーにありがちのやつだな」
「それ。でもあそこでのことあんまり覚えてないっていうか、ほぼ記憶が飛んでる」
「そうなのか?」
「うん、気付いたら鳥居のとこにいたって感じ」
「その前は?危ない目に遭ったりとかしなかったか?」
「ん~、もらった鈴がなんかどうにかなって結界みたいなの出来たのは覚えてんだけど、あとはあんまり。だから何が起きてたのかも分かんない」
「そうか……結界といえばあの人、別の意味で不味いことになっていると言っていたな」
「別?」
「お前が取り込まれかけてているのかと思ったが逆だ、みたいなことを」
「……へえ」
「結局何が言いたかったのか聞けずじまいだが」
「そうなんだ。まあでも、全部夢の中のことだから」
「そうだな」

夢の終わり

2025.08.09 | とってもとっても楽しかったです