* * *
「今日は俺ラーメンの日」
「味噌?」
「味噌!征十郎は?」
「どうしようかな……ナポリタンかな」
「すっかりお気に入りじゃん」
「美味しいからな」
「前に行ったおじいちゃんがやってる喫茶店のナポリタンまた食べたい」
「ハンバーグと目玉焼きのったとこ?」
「そこ」
「来週行く?」
「行く。そういえば今日夢で俺に会ったんだよね」
「えっ」
「鳥居のじゃなくて、なんか十年後の俺みたいなの」
「うん……?」
「なんか血みたいな色の紫陽花がいっぱい咲いてる日本家屋に十年後大和が住んでるっぽくて」
「十年後大和……」
「なんだっけ、なんかあんまり覚えてないんだけど……何かの縁だからってことで鈴貰った」
「鈴?」
「良いモノだから持ってろって」
* * *
毒々しいまでに緋々とした紫陽花を眺めながら茶を飲む目の前の男は、赤司にとって目に入れても痛くないほど可愛い恋人である大和とよく似ていた。大和が言っていたように、彼が十年程年をとればこんな見た目になるのではないかと思わせるほどよくよく似ている。
“大和と同じ顔の男”というのは赤司にとってある種の悪夢の象徴だ。
夢の中で何度も助けられていたが、それと同じくらい脅かされていた。底冷えのするような不穏な気配、沼のように底の見えない、何か黒々とした気味の悪い悍ましいものが潜んでいる目。噎せる様な濃い鉄錆の臭いと、それに混じる妙に甘い胸の悪くなるような臭い。
しかし目の前の男からはそんな気配は微塵もしない。男からは漂うのはあんな澱んだものではなく、冷たさすら感じるほど澄み切った気配だった。
夢の中であるはずなのにそうではないと感じる夢は、あの雨の降りしきる村の夢以来だ。そう感じながら、赤司は男へここがどこであるのか、そして大和を見ていないかを尋ねた。
男はしばらく赤司を眺め、それから大和が今いるであろう場所の話をした。
「つまり、お前の可愛い恋人は喚ばれたってわけ。多分俺の代替品として」
「どうして大和だったんですか」
「それはどうして“他の大和”じゃなくてお前の可愛い恋人だったのかって意味?」
「はい」
「喚びやすかったからだろ。お前からも薄っすらするけど、その臭い、随分な目印だぜ」
「臭い?」
「ああ。なあ、何に触ったんだ?祟り神にでも鉢合わせたか?」
茶請けとして共に出された豆大福を齧りながら問われたその言葉に、大和がみたと言った鳥居の夢の話を思い出した。そして自身がみた夢のことも。
「……“鳥居の向こうにいる大和”です」
「……」
「ややこしいので恋人と言いますが、俺の恋人が夢の中で“鳥居の向こうにいる大和”に遭ったんです。鳥居の向こうに居て、その鳥居の前には円錐形に土が三か所盛られていた。その一つを俺の恋人が誤って壊してしまって」
「出てきたのか」
「分かりません。けどその時に、俺の恋人は向こうに居た大和に腕を掴まれた、と言っていました」
「ふうん……」
「主、座標の割り出しが終わりました」
ほとんど足音無く表れたもう一人の人間に赤司は一瞬息が止まりかけた。そっと振り返り見れば、煤色の髪に藤色の瞳をしたカソックに似た服装の男が立っている。
「早かったな」
「結界が張られたようです。主の霊力があれにわずかに残っていましたので」
「ああ……じゃあ少し不味い状況になってるのかもしれないな」
「政府には連絡済みですのですぐにでも」
「さっすが長谷部、じゃ、行くか」
よし、と男はひとつ頷くと長谷部と呼ばれた男の手を取り立ち上がった。
それから柏手をひとつ。音ともにぶわりと吹いた風に目を細めた一瞬で男の服装がカソックへと変わり、その顔には何かの呪文らしきものがみっしりと書き込まれた面布がつけられていた。
「長谷部、あれ持った?」
「ええ」
「おし。じゃ、ちょっくら焼き討ちしに行くか!」
* * *
「今日の日替わりは麻婆豆腐か」
「うわ、美味そう。でも最近ずっと中華系ばっか食ってる気がする」
「ああ……たしかに今週ずっと中華だったな」
「うーん……でも俺の口はもう麻婆豆腐」
「諦めて今週は中華の週にしては」
「そうします。征十郎は?」
「ナポリタン」
「……昨日も食ってなかった?」
「食べました」
「なのに今日も?」
「はい」
「来週ナポリタン食いに行くのに飽きない?」
「美味しいから大丈夫」
「征十郎って好きなもの延々と食うタイプだよな」
「大和もだろう」
「いや俺は間に色々挟んでローテーションするから。征十郎はローテーションすらしないじゃん」
「する時もある」
「交互に食うのはローテーションって言わないのでは」
「……」
* * *
“約束”を破るのか、と問いうかけて以降、障子の向こうで男はずっと障子を破らんばかりの勢いで叩いてくる。“約束”を破ればどんな非道い目に遭うのか、ここを出て自分たちのところへ来ればどれほど幸せになれるか、それを延々と繰り返し語りながら。
さながら呪詛のようなその言葉の群れに大和は恐怖を感じながらも、どこか遠い世界のことのようにも思えていた。対岸の火事、画面の向こうの出来事、所詮全ては夢であり現実ではない。そう強く思うのだ。
事実これは夢の中の出来事であり現実ではないのでが、あの村の中にいる夢では現実との境目が曖昧になっていたのにこの夢では「これは夢だ」という感覚が強い。この冷え澄み渡った空気に満ちた空気を感じてからは特に。
大和は立ち続けるのも疲れ、文机の前に置かれていた座椅子へと腰かけた。
「主、僕たちのこと、本当はまだ許してないんだね」
がり。
大和は目を閉じた。
「だからこうして、何の返事もせずに閉じ籠って僕たちを拒絶してる。違う?」
がり。
大和は静かに、ゆっくりと息を吐く。
「主、」
がりり。
大和は自分の中にごく僅かに浸み込んでいたものから、ぽたりとナニかが零れ落ちたのを感じた。
それは畳の上に落ちるとゆっくりと目の間をぬって浸み込んでいく。そうやって這入るのだ。
ふ、と冷え澄み渡っていた空気が揺らぎ、少しずつ鉄錆のような臭いが満ちてくる。微かに甘い臭いも漂い始めていた。
じっとりと空気が変わっていく中でも大和は黙って目を閉じている。自分の中の隅のほうがざわざわとしているのを感じたが、それでも黙って目を閉じ『それは自分自身ではなく、自分とは全く関係のないものである』と自身へ言い聞かせた。禍々しくて悍ましい吐き気のするものに飲み込まれないように。
そうしている間にも臭いは強くなり続け、最早室内は噎せ返る様な血の匂いと、吐き気のするような甘い腐敗臭に満ち満ちていた。障子の向こうの男には室内で起こっていることが何も伝わっていないのだろう、まだ障子を叩き、引っかき、妄言を吐き続けている。
大和は目を閉じた自分の顔を何かがじっと見つめ覗き込んでいることに気付いた。“それ”からは底冷えのする不気味で不穏な気配が漂っている。
「ある、……」
不意に障子の向こうにいる男が黙り込んだ。
「あ、ぅ、あ”あ”ぁ”っ」
ぐちゃ、ばき、と耳を塞ぎたくなる不快な音共に男の悲鳴が聞こえてくる。しばらくくちゃくちゃと粘着質な咀嚼に似た音がして重たい水気を含んだものが落ちる音がした後、ばきん、と金属か何かが折れる音がした。
それきり男の声は聞こえない。
“それ”はきっともう障子の前からどこかへ行ったのだろう。その証拠にあちこちでばたばたと逃げ惑う足音と叫び声が聞こえてくる。
大和は目を閉じたままじっと身じろぎひとつしない。『それは自分自身ではなく、自分とは全く関係のないものである』と言い聞かせながら、全てを遮断するようにゆっくりと深く静かに息をする。
腹の底がじんわりと熱く重い。ひどく腹が空いている時に何かを食べたときに感じるものに似たそれに、大和はきつく唇を結ぶ。そうでもしないと、悲鳴が零れ落ちそうだった。
やめろ、と何度も言っていた声が、食うなと泣き叫んでいる。食わないでくれ、きよみつを食うな。ああなきぎつね、早く逃げてください。俺の足が。腕が。
ばきん。
少しずつ静かになっていく声と、満ちていく腹の感覚。
何か恐ろしいことが起きている気がして、大和は心の内で強く赤司の名を呼んだ。何度も何度も、この夢の中にまだ一度も現れてくれない赤司の名を呼び助けを願った。
何かが始まってしまっている夢
2025.07.28 | 最早私だけのために書かれているクロスオーバーです