こんな毒々しいまでに緋々とした紫陽花など見たことがないし、そもそもここは知らない場所だ。こじんまりとした平屋づくりの日本家屋、そこの所謂濡れ縁と呼ばれる家屋の外にある縁側に座っていた。
背後に広がる和室にも見覚えも無ければ、そもそもこんな絵に描いたような日本家屋に住んでいる知り合いもいない。ホラー映画で観るような典型的な家だ、と大和は思いながら静かに室内へと入っていく。
そっと入った一室の開かれた障子から顔を覗かせ、周囲に人がいないかきょろりと見渡すが誰の影も見当たらない。耳をすましてみても何に音も聞こえてこず、もしかしてこの家には今自分しかいないのか、と部屋の外へ一歩踏み出した時。
「誰だ?」
背後からどこかで聞いたことのあるような男の声が聞こえた。
はっと振り返り見れば、自分とよく似た顔の男が立っている。十年程年をとればこれと同じ顔になるだろう、そう思わせる目の前の男は大和を見て一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐにうっそりと笑んだ。
「なるほど、こういうことも起こるのか」
自分と同じ顔、それは大和にとって悪夢の象徴である。全ての発端であり、全ての元凶。
濁流のように迫り飲み込まんとする声に混濁していく意識、何処か深いところへ引き摺り込もうとするように触れてくる禍々しい幾千の黒い影の如き手。噎せ返る様な血の臭いと吐き気のする甘い腐敗臭、目の前で大きく開かれた口。あの雨の降りしきる廃墟でみた、自分が自分ではなくなる夢が大和の脳裏をよぎる。
「そう警戒しなくてもいい。俺はお前の敵ではない。まあ味方でもないかもしれないが」
「……ここはアンタの家か」
「ああ、俺と長谷部の家だよ」
「はせべ?」
「俺だけの神様で俺の超格好良い旦那様」
「……俺はアンタじゃないよな?」
「まあお前は俺でもあるだろうけどお前が今思っている意味では違うな」
その言葉に大和は良かったと安堵の息を吐いた。赤司征十郎との約束を反故にしてしまったのかと思ったのだ。
たとえ相手が神であろうと、大和にとって赤司以外の人間との未来など何の価値もない。そんなものと未来を約束せねばならないのなら、さっさと死んであるかもしれない来世に賭けた方がマシなのだ。
「死ななきゃいけないかと思った」
「どこでも俺って割と過激だな……それで、お前は一体どこから迷い込んだんだ?」
「気付いたらここに居た」
「ふうん?」
「今俺の肉体は眠ってて、ここは夢の中だ。だからどこからとか知らん」
「……お前、なんか妙なもん触っただろ。厭な臭いがする」
顔を顰めた男の言ったことに大和はあの鳥居の夢を思い出した。全ての発端にして元凶であるあの夢、あれからこの奇妙としかいいようのない“明晰夢”をみるようになったのだ。
どこか見知らぬ村にいる夢はもうあれきり見ていないが、今度は何か違うものが始まってしまった気がする。
「まあいい。ここで会ったのも何かの縁だ、良いモノをやろう」
「鈴?」
「目印になる、絶対に手放すなよ」
* * *
「今日なに?」
「天津飯セット」
「杏仁豆腐?」
「とエビチリ」
「エビチリもついてんの?」
「ついてる」
「エビチリ食べたいから俺も天津飯セット」
「大盛?」
「うん。あ、征十郎さあ、天津飯の餡どっちのが好き?」
「……悩ましいな」
「俺ん家で出る天津飯の餡って醤油味だけだったからさ、店で甘酢餡の天津飯食べたときに衝撃を受けて」
「ふふ」
「こんな濃い味だと卵が死ぬだろ二度と食うか!!て一口目のときに思ったのに気付いたらまた甘酢餡の天津飯食べてた」
「美味しかったんだな」
「うん。でも塩味の餡も好き」
「塩味は食べたことないな」
「なんかめちゃめちゃあっさりしててクセになる」
「結局全部美味しい」
「うん」
* * *
急に足をとめた大和に隣を歩いていたらしい右眼に眼帯をつけた男が不思議そうに振り返る。
「主?」
どうしたの、と覗き込んでくる男の言う「あるじ」という言葉が主、すなわち主人という意味のものだと気付いたのは別の男に「ぬしさま」と背後から呼ばれた時だった。
艶々とした豊かな白銀の髪を揺らしながらこちらへ向かってくる大柄な男に大和は困惑の表情を向ける。何故自分に向かって『ぬしさま』などと言いにこにこしてくるのか。弓なりになった瞳や笑んだ口元から覗く犬歯が獣じみた鋭さを持っていることが妙に恐ろしく、知らず一歩後退る。
瞬間、リン、と澄んだ小さな音が鳴った。
その音に大和はハッと周囲を見やる。
夢だ。これは夢で、今の鈴の音は自分のポケットに入ったものが鳴った音だ。どこぞの神様と結婚したらしい自分からもらった、“目印”になる鈴。絶対に手放すなと言われたそれ。
「ん?主、鈴なんて持っていたのかい?」
「……ああ」
「なんだろう、なんだか不思議な気配がする鈴だね」
「ぬしさま、誰からの贈り物ですか?」
「……気になるのか」
「そりゃあそうだよ」
「贈り主によっては礼をせねばなりませぬから」
じっと自分を見下ろす男たちの目付きは妙にじっとりとした湿度を含んでいる。
見せたが最後、奪われてしまうかもしれない。そうなればどうなるか分からない。
あの男は鈴を“良いモノ”と言っていた。一体何の役に立つのか分からないが恐らく男の言うことに嘘はないと大和はどこかで確信している。これは大和にとっては“良いモノ”で、きっと目の前の男たちにとっては“良くないモノ”だ。
「あとで見せる」
「今じゃあ駄目なの?」
「駄目」
「ふうん……じゃあ、あとで見せてね」
眼帯の男が薄く笑みながら「“約束”だよ」と囁いた。
* * *
「今日は絶対にあんかけ焼きそば」
「しなしなの麺でいいのか」
「美味しければこわだりはないので」
「そうですか」
「征十郎も食べれてみればいいのに」
「うーん、嫌かな」
「パリパリも結局しなしなになるんだし一緒じゃね?」
「もともとしなしななのと、後からしなしなになるのは全然違う」
「え~~?」
「今週末美味しいあんかけ焼きそばの店に行くぞ」
「ぱりぱりのとこ?」
「そう。しなしなとの違いをお前に教えてやろう」
「俺違いの分からない男だからなぁ……」
* * *
食事が出来たら呼ぶから、と言い残して大和をどこかの部屋まで送っていった男たちは出て行った。
書類の散った文机や上に色々な飾り物が置かれた箪笥など、和室の中は誰かの生活感が色濃く残っている。男たちはまるでこの部屋の主が大和であるかのように振舞っていたが、彼自身はこの部屋のどれにも何の見覚えもない。
大和は部屋の真ん中に立ってぐるりと見回し、それからそっとポケットに入っていた鈴を取り出した。リン、と音がなる。
丁寧に編まれた藤色の根付紐に結ばれた鈴は、どこにでもあるようなものに見えた。手の中で転がった鈴がリン、とまた軽やかな音を立てる。
目印、と言っていた。一体何の、誰のためのものなのだろう、そう思いながらもう一度大和がリン、鈴を鳴らした時、ふ、と空気変わった。
暖かくも寒くもなかった室内が、少しずつ冷え、澄み渡っていく。その空気に覚えがあった。鈴をくれた男のいた、あの毒々しいまでの紫陽花が咲く日本家屋だ。あそこの空気も少し寒いほどに冷え澄み渡っていた。
「なんだ……?」
遠くからざわめく声が聞こえる。
ばたばたとこちらに走って来る何人かの足音と、誰かの怒鳴る声。明らかに漂う不穏な空気に大和は手の中の鈴を握り締めた。
障子に人影が映る。複数人の足音がしたのに、いるのは一人だ。
「主、どうしたの?何かあった?」
金色の眼の、右眼に眼帯をした男の声だ。
大和は男の声に返事をしてはいけない気がして、鈴を握りしめたままじっと障子の影を見つめた。
「急に結界なんて張るからみんなびっくりしちゃったよ」
「……」
「主、大丈夫?ここ、開けてくれる?」
「……」
「主」
「……」
「ねえ、返事して、お願い」
声はだんだんと涙混じりになっていく。とん、と弱い力で障子が叩かれた。
とんとん、とんとん。
「主、ねえどうしたの、何か怒ってるの?」
とんとん。
「主、ねえ、鈴のせい?」
とんとん。
「主、あの鈴のせいでしょ」
とんとん。
「主、お願い、ここ開けて。僕に鈴、見せて」
とんとん。
「主、僕に鈴見せてくれる“約束”したでしょ?」
とんとん。
「“約束”、破るの?」
どん。
日本家屋で嫌なフラグが立っている夢
2025.05.11 | 赤司くん出てなくてすいません……