エピローグ

時々赤司征十郎が別人のように思える、と最初に言い出したのは緑間真太郎であった。
その思うようになったのは、赤司が十一月の半ばに一週間ほど“家庭の事情”で欠席してからだと言う。なんてことない会話を交わしている最中、ふとした時に目の前の男が全く知らない人物のように感じるのだと話した緑間はどこか怯えた顔をしていた。
その場にいた全員が話を聞いてすぐに思い浮かべたのは、悪辣極まりない悪魔じみた笑みを見せた男の顔である。
赤司が一週間欠席していたその間、彼とは一度も連絡が取れなかった。休み明けに登校してきた赤司へ一度も連絡が取れなかったことに対して問いかけた黄瀬涼太へ「色々あって」と小さく笑むだけ。また何かに巻き込まれていたわけではないのかという問いには「もう大丈夫」とだけ。
どう考えても“家庭の事情”以外の何かがあったとしか思えない。とはいえ本人に何を聞いてもまともな答えは返ってこない上に実害は何も出ていない。
なるべく赤司の様子に注意しよう、ということでその場は終わった。

そして今、黄瀬は緑間の言葉を体感していた。
部活へ向かおうとしていた黄瀬は、一人ふらふらと特別教室の集まる棟へ向かう見知った背中を見つけた。今日は特に委員会活動もなくもう部活も始まる時間だというのに一体何処へ行くのか。
ここ最近のこともあるし追いかけよう、とその背を追ったことを黄瀬は今強く後悔している。
赤司が居たのは特別棟の出入り口脇に飾られた大きな鏡の前だった。細かく美しい模様の彫られた木枠はいつかの美術部員達がコンクールに出展したものらしい。
ほとんど明かりのない薄暗闇の中で鏡の前に立ち尽くす背が見えたとき、何かとても嫌な予感がした。このまま声を掛けず見なかったことにして戻ってしまいたい、関わっても絶対に良いことはないぞと直感が告げている。そうして静かに足を引いたとき、その背が振り向いた。
光量の少ない中で、左目だけが鮮やかな橙に爛々と輝いて見える。
その異様な煌めきにあの肝試しの夜のことを思い出した。暗闇の中でも冴え冴えと光って見えた不気味な瞳と、得体の知れないモノの気配。引き摺り込まれ飲み込まれる、そう思わせたあの影。

「ああ、お前か」

緑間の言う通り、今の赤司は黄瀬の知る彼自身とは全くの別人のように見えた。向けられる無慈悲な捕食者の眼差しは、

マトっち……?」

ぽとりと零れた名前に赤司は片眉を上げ、笑った。

「わざわざ迎えに来てくれて悪いが、僕は少し用事がある。先に行ってメニューの確認でもしててくれ」
「……っス」

笑みを見た時ゾッとした。まさしく工藤大和そのもののような笑みだった。
黄瀬はすぐに踵を返し、特別棟を出てすぐに走り出す。背後から何かが割れる音が聞こえたけれど振り返らず真っ直ぐ第一体育館へ駆け込むと大声で黒子を呼んだ。


* * *


ネット掲示板や書籍、映像、口伝、その他諸々。“オカルト”というジャンルにハマった時、凝り性な研究者気質である黒子はありとあらゆる媒体でもって情報を収集し吸収していった。それが事実でも嘘でも、存在していてもしていなくても別に構いはしなかった。ただ自身の抱いた疑問やそこにある未知に対する“なぜ”、“どうして”を解き知識欲を満たしたかったのだ。
そうして今、黒子は自身が今まで集め理解し飲み込み身に着けてきたそういったものに対する知識でもって、現状がどうしようもないほどに手遅れで、後戻りや逃げ出すなどという時点をとっくのとうに過ぎてしまっていることを理解してしまった。今更赤司の様子に注意していたところでどうにもならない。もうどうにもできないところまで来ている。

「ねえどうにか出来ないんスかっ、黒子っち色々知ってるでしょ!」
「どうにもできません」

どうにかしたくても、どうにもできない。あの一週間できっと何かが赤司を襲った。そして決定的な何かが起こったのだ。
その中心にいるのは工藤大和だろう。

「僕、ずっと考えていたんですよ」

あの日、赤司が昏睡状態で緊急搬送されたあの日、どうして自分はすぐに赤司から“不思議な鏡”の話をされていたことを思い出したのだろう。どうしてそのことを荻原シゲヒロに相談したのだろう。赤司が無事に目を覚ました後で聞いたところ荻原自身は特に大和と交流はなく、人伝に彼が神社の息子で実家ではお祓いなんかもしていると聞いていたから紹介したと語った。
どうしてかそこに作為的なものを感じてしまう。
黒子の大和に対する第一印象はどこか近寄りがたい雰囲気と見た目から、新雪や不可侵の地のような人だと思った。話してみれば随分と親しみやすいが、初めて対面したとき黒子は確かに大和の持つ“ある種の空気”を感じていたのだ。

工藤君に初めて会ったとき、容易に踏み込んではいけない聖域のような人だと思ったんです」
「なんの話、」
「でも聖域って、言い換えれば禁足地なんですよ」

何が起こるか分からない、何が起きてもおかしくない、踏み込んだが最後の場所。本や人伝に聞いた禁足地とされる山や森、地域と同じようなものをあの一瞬、黒子は大和に感じた。
その印象は真剣に話を聞く態度や知りもしない人をどうにかしてくれようとする姿に霧散し、見た目よりもずっと親しみやすい“良い人”へと変わっていった。けれどそれも反転したのだ。
感謝してください、なんて軽口交じりに赤司へ大和を紹介した時、あの時は本当に大和と出会えてよかったと思っていた。彼のお陰で失ってしまっていたかもしれない友人を取り戻せたのだから。
けれどそのすぐ後、大和の持つ空気ががらりと変わった。じめじめとした陰鬱な不気味さ、何かがひっそりと背後に立ち飲み込まんと口を開けているような、得体の知れない暗闇の気配。あの一瞬で黒子は大和への信頼が大きく揺らいだ。本当にこの人は“大丈夫”だろうか、と。
後日赤司に対して愉快犯的言動をして動揺させ楽しんでいると知ったとき、ちょっと性質の悪い男なだけだったのかと思い安心した。無理矢理安心させた、と言ってもいい。
しかし結局それも反転したのだ。赤司の二度目の心霊現象解決の話を聞いたとき、絶対におかしいと感じた。

「きっと彼は禁足地そのものですよ。僕は関わっちゃいけないヒトを赤司君に紹介してしまったんです。ずっと引っ掛かってました。赤司君が意識不明になったとき、僕はどうしてすぐ幽霊のせいだって思ったんでしょう。赤司君の意識が回復した時、彼のお陰だってどうして思ったんでしょう。赤司君が意識不明になったのは何かの発作だったのかもしれないし、回復したのもまた何かがうまく機能するようになったからかもしれない」
「でも、原因不明って言ってたじゃないっスか」
「だからですよ。原因不明だから、どうとでも言える。この世には原因不明の病気やなんかはたくさんある。赤司君のあれもそういう類の病気だったのかもしれません。けど原因不明だから、どうとでも言えるんです」
マトっちが嘘言ってたかもってことっスか……?」
「誰も赤司君にあの時何が起きていたのか知りません。工藤君が何をしたのかも知らない」

「二人とも、いつまで話をしてるんだ」

体育館の隅でひそひそと話していた黒子と黄瀬へかけられた声に二人は小さく悲鳴を上げた。

「あ、赤司っち……?ほんとに?」

怖々と問われた赤司は一瞬きょとんと目を丸めた後、「どういう意味だ」と怪訝そうな顔をした。

「赤司君、今日は何か用事でもあったんですか?」
「え?」
「いつもより随分と来るのが遅かったので。委員会も今日はないはずなのに変だって黄瀬君と話していたんですよ」
「ああ、少し生徒会の顧問に呼ばれてたんだ。来月から生徒会選挙が始まるからそのことでな」
「特別棟に行きましたか?」
「特別棟?いや行ってないが」

何故?と言いたげな顔をする赤司に、黒子と黄瀬は顔を見合わせた。黄瀬の顔は哀れなほど青褪めている。

「いえ、何でもないです。すいません、練習始めましょう」

泣きそうな顔をしている黄瀬の背を押しながら、黒子はひとつ、決意を固めた。


* * *


「で、今度は何の話?」

いつかのファストフード店で黒子は大和と相対していた。
愉し気に目を細める大和とは反対に黒子は強張った顔できつく拳を握りしめている。その手のひらの中には祖母が黒子へと買い与えたお守りがあった。ただの気休めだとしても心の拠り所になるようなものが欲しかったのだ。何も持たずに目の前の男と二人きりで対面することはどうしても避けたかった。

「んな緊張しなくたって手出されなけりゃ俺はお前らに何にもしねーよ」
「何にもってなんですか」
「なんだろうな?何がいい?」
「河合先輩にしたようなことを僕たちにもするんですか」
「誰のこと?」
「君と山へ登った人です」
「あ~!あは、あいつには何にもしてねーよ。勝手にあいつがびびってただけだろ」
「じゃあ赤司君には何をしたんですか」
「なんだよ、それが聞きたかったの?わざわざ会ってまで?」

友達思いだねぇ、と大和はけらけら笑う。寒くもないのに震えが止まらない。
―――彼はそんなに『良いモノ』ではない気がするんです
いつか自分が発した言葉を思い出した。『良いモノ』ではない、なんてものではない。コレは良い悪いなんていう、そういう話じゃない。

「まあ、お前が何考えてるか分かるぜ。全部俺が仕組んだんじゃないか、自作自演なんじゃないか、それとも何か狙いがあって這入り込んできたモノなんじゃないか、どこからどこまでが仕組まれていたのか、自分は何に“お願い”したのか」

きゅうっと細められた瞳の奥、何かの影が過る。

「君は、一体何なんですか」
「何だろうな、神様だった時もあるし、霊媒師って言われる時もある。良いモノでもあったしそうじゃないモノでもあっただろうな」

テーブルの下で何かが足に触れた。服越しでもゾッとするような冷たさと何か異様な気持ち悪さを感じて、咄嗟に立ち上がり席から通路へ飛び出してテーブルの下を見る。
何もない。
ただテーブルと、その下に大和の脚があるだけだ。でも今、何かが自分に触れた。
真っ青な顔で立ち尽くす黒子に、大和はただ笑う。

「なあ、黒子。俺は結構お前らのこと気に入ってんだぜ」

ふ、と鼻先を異臭が掠めていく。飲食店でするはずのない、何かが腐ったような臭いだ。

「お前らが何もしなけりゃあ、俺だって何もしない」

あの時感じたものは、黄瀬に話したことはやはり正しかった。
この男は、禁足地そのものだ。踏み込んだものは決してただでは帰さない。


* * *


「そういや今日黒子に呼び出されてさ」
「何かあったのか?」
「ん~なんかお前のことで色々聞きたかったみたい」
「俺のこと?」
「俺がお前に“何か”したんじゃないかって。ほら、征十郎最初のころ俺のこと嫌ってたじゃん。それが急に“付き合う”だなんてどういうことだ、みたいな」
「別に嫌ってない……」
「んはは、苦手だったんだっけ?」
「誰だって初対面で揶揄われたら苦手意識を持つだろ」
「ごめんってば。だって可愛かったんだもん、征十郎、子猫みたいで」
「……嬉しくない」
「あはは、も~お前ほんっとかわいいね!でも良かった、俺、お前に選んでもらえないかと思ってたから」
「そうなのか?」
「そうだよ。だから、俺を受け入れてくれてありがと、征十郎」

不自然がしあわせを連れてくる

2022.01.10 | これにて「ふぞろいな爪」完結となります。ここまでお付き合いくださりありがとうございます。