02

手の平程の大きさの薄い真四角の桐箱。その中にはぬらぬらと濡れた輝きを放つ繊細な装飾の施された美しい丸手鏡が収められている……そう確信している赤司征十郎は、掛布団越しに膝上へと置かれた桐箱へそっと手を伸ばした。
その先にみた恐怖を覚えている指先が震えてしまうのを抑えられない。今、鏡を見つめたら、一体何が映るのだろう。その鏡に何を見て、どんな夢をみていたのかは覚えていない。だがどこかでそれを覚えているのだろう、呼吸はどんどんと浅くなっていく。
溝に爪を引っ掛けて、赤司は桐箱を開いた。

「!……これ、」
「鏡だよ、お前が大事に大事に持ってた、呪いの鏡」

錆びつき腐食した丸い手鏡は、何も映さない。

「なあ、お前にはこれがどう見えてた?何が映ってた?」

ぐっと身を寄せ、すぐ隣から手元の鏡を見つめながら大和はそう問う。その声に滲む甚振るような底意地の悪い笑みに赤司は気付かない。ただただ鏡を見つめ、あんなに美しかった鏡に驚きを隠せない様子で「俺が見たのは、真新しい、綺麗な鏡だったんだ……」と呆然と口にする。
何が映っていたのだろう、この鏡に。自分は何を見たのだろうか。赤司は変わり果てた鏡を手に、ぼんやりと思考を巡らせる。そうして、勝手に言葉が零れだした。

「……白い部屋で、向日葵があるんだ。空を描いた絵があって、……奥にベッドとクローゼットがある。その向こうにドアがあった」
「それで?」
「ファンが、シーリングファンが回ってるんだ……空気は冷たくて、遠くから教会の鐘の音が聞こえた気がする。そこで……そこに誰か、」
「『食べちゃった、金魚』」

びくん、と赤司は身体を大きく震わせながら勢いよく大和から離れようと仰け反った。その目には怯えと戸惑いが強く出ており、血の気の引いた顔は哀れなほど青褪めている。大和の言葉が恐ろしかったのに、何が恐ろしかったのか分からない。けれどとにかく“それ”から少しでも離れなければならない、そんな気がして、赤司はベッドから落ちてしまいそうなほど身を引いた。
窓のない白い部屋の中央あたりにある白い丸テーブル。その上には深皿が置かれていて、その中には濁った水と二匹の金魚がいる。赤い金魚と黒い金魚、それを見つめる、艶やかな髪の―――

「お前、随分好かれていたんだな」

ぽつんと置かれたベッドのすぐ傍で、胎児の如く身を縮めて眠る姿は何かに怯えているようだった。ベッドで眠るように言っても「お母さんがいる」と嫌がっていた。自分がいれば共にベッドで眠ったけれど、そういうときは決まって厭な臭いが鼻をつくのだ。生臭い、何かが腐ったような臭い。
クローゼットとは逆側にあるドアの向こうから、物音が聞こえるような気がした。そこから重たく纏わりつく気持ちの悪い空気が漏れ出している。それがゆっくりゆっくり部屋へ広がっていって、そうして、出てくるのだ。

「いや、お前しかいなかったんだっけ、そいつには。お前がそうしたんだもんな」

見開かれた瞳はぐらぐらと揺れ、何かを見ている。慄き、助けを求めるように彷徨う目を間近で覗き込み大和は哂った。

「なのにお前は置いていったんだろう?ぜぇんぶ連れてきゃいいのに、そうしないでさぁ」

悍ましい悪夢そのものの笑み、温度の無い沼底の目の奥で蠢く黒々としたものがこちらを見ていた。
咄嗟に叫び声を上げそうになった赤司の口を手のひらが覆い、横向きに引き倒される。しい、と幼子に言い聞かせるように静かにしろと示し右肩をベッドへ抑えつけ口を覆う男の腕を引きはがさんと暴れる赤司の耳に、ぼた、と重たい水音が届いた。
背後に何かがいる。何かが、誰かがいる。誰かがじっと、じっと自分を見つめている。生ごみの腐ったような臭いして、赤司は引き剥がそうとしていた腕に縋り付いた。

「来たなァ」

にいっと笑って大和は赤司の背後を見る。それは自分の背後に何かがいるという動かぬ証拠のようで、あまりの恐怖に意識が飛んでしまいそうだった。
大和がベッドへ乗り上げたのを目にしたあと、すぐにきつく目を閉じてしまった赤司には彼が何をしたのかは分からない。ただ、ぐしゃ、だか、ばき、だか、ゾッとする音は聞こえていた。それからぼたぼたと何かが落ちる音も。
ふ、と背後の気配が消えて、突き刺す視線も無くなったところで、赤司の意識は途切れた。


* * *


はたと目を開け身を起こした赤司は、病室内にまだ大和がいるのを目にして身を強張らせた。

「お、起きたな。どーよ、調子は。変なとこ無いか?」
「……無いが」
「なんだよその目。ちゃんと説明するって」

ふん、と少し不満そうに息を吐きながら大和は蓋が開けられたままの桐箱を再度赤司の目の前へ置いた。
強張ったままの赤司の顔にちょっとだけ笑いながら、大和は口を開く。

「どっから説明しようかねぇ……この鏡は、いわばドアだよ。こっちとあっちを繋ぐドア。赤司がどこでこれを手にしたのかは知らないけど、もともと良くないモノが山ほど憑いてて歪んだ代物だったこれに、もともとそういう良くないモノに好かれやすいお前が触ったことで、これはただの呪いの鏡じゃなくてドアとして機能しちまったんだな」
「……待ってくれ、好かれやすいってなんだ」
「え?そのまんまの意味だろ。赤司さぁ、今まででなんか人と違うもの見えてなかった?道端でこっちに背中向けてずっと突っ立ってる人とか、黒っぽい人とか」
「……」
「それだよ。お前、よく今まで無事だったね。きっとお前のママが守ってくれてたんだろ」
「なんで……」
「そりゃあ知ってるからだよ。お前のことならなぁんでも知ってるぜ、赤司クン。ま、今はその話はいーんだよ。えーと、それでなんだっけ?あの部屋はなんだって話をすればいいのか?」

赤司が気絶してる間にでも買ってきたのか、少し結露した水のボトルを傾け一口ごくりと飲み込み、大和は続ける。

「あの部屋は、お前が用意した部屋だよ、赤司。細かく言えばお前じゃなくて”別の赤司征十郎”なんだけど、もとはおんなじだから向こうからしたらどれだって何だっていいんだよな……。赤司クン、この世にパラレルワールドというものがあるのは知っているかい?」
「……ああ」
「それだよ、赤司。幾つも存在する世界のどっかの赤司征十郎の仕出かしたことが、今お前に返ってきたの。たまにあるらしいぜ、違うトコが繋がっちゃうっつーのは。たまにテレビでやってるだろ、記憶喪失で自分を示すものを何も持ってなくて気付けば公園にいたってやつ。……あの部屋は、別のお前が用意したんだ。お前の好きな子を閉じ込めとくために」
「はっ?」
「いや、あの部屋はもともとあってあいつはそこに居たんだろうけど、あいつを閉じ込めたの赤司、お前だよ。あいつはあの部屋でずっとずっとお前を待ってるんだ。お前があの家を出る時にちゃんと全部連れてかなかったから、残ったのがお前を探し求めてたんだろうな。そういう状況で鏡に触ってドアにしちまったもんだから、そっから向こうに引き摺り込まれたんだ」
「待て」
「で、お前は仲良くあの部屋でそいつと暮らしてたってわけ。けどまあ当然肉体はこっちにあるから、お前のお友達クンは心配してお前を取り戻してくれって俺のとこにきた。お前の状態視たらまあ取り込まれて飲み込まれてたけど、マジで手遅れってほどでもなかったから魂っていうか精神っていうかそういうの削って取り出したんだよ」
「待ってくれ」
「それが昨日言ってた魂欠けてんぞって話。そんでそれをお前の肉体にぶち込んで戻したおかげでお前はお目覚めって訳。オーケー?」
「全然オーケーじゃない。待てと言ったぞ」
「おー、聞いてた。何が疑問だよ、これで全部だぞ」
「ほとんど疑問しかないんだが?というか、俺の自業自得だと言っていたが”俺”のせいではないだろう……」
「うーん、おおまかにいえばお前のせいだけど、そうね、ここにいる赤司征十郎のせいではないかも」
「……何故覚えてないと分かっていて、あんな……」
「お前を動揺させて隙間をつくるためだろ、隙間があればそこにつけこんで這入ろうとするから。向こうで切り離したけど、お前だいぶ飲み込まれててこっちにまで染み込んでたんだよ。それを消すため的な?ま、寝てる間も隙間できやすいからそれでも良いんだけどな」

ならわざわざ恐ろしい思いをさせずとも良かったではないか、と赤司は言いそうになるのを飲み込んだ。
なんだか随分と疲れたし、いまだに大和の話はなんだかオカルトに異次元的でほとんど理解できていないままだし、赤司はもう何もかも忘れて眠ってしまいたくなった。全て放り投げて知らなかったふりをしてしまいたい。

「この鏡はどうするんだ」
「どうもしない。もうこれ、ただの鏡だし」
「……そうなのか?」
「そーよぉ、俺がちゃあんと綺麗にしといたからお前がこのまま持っててもいいけど?」
「いや……」

遠慮する、といいながら桐箱に収められた鏡をみた赤司は、そこに何かがちらりと映った気がした。赤と黒の、ひらひらとした―――。
それがなんであるか考えないようにして赤司は蓋を閉め、じっとこちらを見つめる大和へそれを差し出した。「そちらで処分してもらえないか」と。
心のどこかでこの鏡を手放したくないと、あの部屋を手放したくないと思ってしまっている自分がいることには気が付いていた。だがそれはきっと良くないことに繋がる。そんな予感がして、赤司は大和の手へと桐箱を渡すのだ。

「ん、いいぜ。こっちで処理しとく」
「ああ、頼むよ」
「ま、とりあえず退院までゆっくり休みな。お疲れさま、赤司」

桐箱をポケットへと押し込んだ大和が、するりと赤司の頭を撫でた。慈愛に満ちた微笑みとあたたかな手のひら。頭を撫でられるのなんて母親がいた頃以来のことで、恥ずかしさとくすぐったさにじわりと頬が熱くなる。

「やめてくれ」
「はは、かわいーなぁ、お前。じゃ、俺は帰るけどまた何かあったら連絡しろよ、黒子からお前に送ってもらってるから」
「何かって」
「またヤな夢ばっかりみるとか、家の前に寸尺のおかしい女が立ってるとかさあ、あるだろ色々」
「……無いことを祈るよ」
「そーね、まあでも神に祈るくらいなら俺に祈っとけよ。俺がキッチリしっかりお前のこと助けてやるから」

に、と人懐っこい笑みをみせて大和は病室を出ていった。ひとつの嵐が過ぎ去った後のような、静かでそこはかとない空虚さが室内を満たす。
たった二日で自分の中をめちゃくちゃにされてしまった気分で、赤司は深く深く溜め息を吐いた。何が起きて何が起きなかったのか、殆ど理解出来ないながらも彼がいなければここに自分はいないのだろうということは分かっているため、感謝はしている。だが出来ればもう二度と会いたくないタイプの人間だ。
くたん、とベッドへ横たわり赤司は目を閉じた。


その後、願いも空しく赤司征十郎は再び工藤大和と顔を合わせることになる。それは赤司征十郎が無事退院して僅か一週間後のことだ。

地獄の馴れ初め

2020.04.05 | 拍手からいただいたお言葉がとっても嬉しくてはりきって書きましたが、ただの説明回となりました。