もう何度目か分からない問いがぐるぐるぐるぐると在りもしない出口を探すように脳を巡っていた。赤司征十郎は目の前に置かれた一口サイズに切られた肉のゴロゴロ入ったビーフシチューをただ見つめている。
どうしてこんなことになっているんだろう。疲れ果て、鈍った思考が壊れた機械のように延々とそれだけを繰り返す。のろのろと、努めて何の感情を持たないようにあらゆるものを殺しながら、赤司征十郎はビーフシチューをひとくち、口に含んだ。
赤司征十郎はその日、風邪を引いて寝込んでいるという恋人の東雲薫を見舞うためにいくつかの手土産と、宿泊道具を持って彼の自宅を訪れた。
東雲薫の自宅は、赤司征十郎の住むアパートから電車で三駅、街から少し外れた閑静な場所にあるこじんまりとした一軒家である。もとは両親と彼の家族三人で仲良く暮らしていたのだが、東雲薫が大学生になって間もなく母親が事故で亡くなりあっという間にそれは崩れた。父親は全てを忘れるように仕事へ没頭するようになってしまい会社や会社近くに泊ることが増え、あまり自宅へと帰らないようになった。帰って来るのは一週間に一度あるかないか、着替えを取りに来るような間隔であり、東雲薫は現在、実質一人暮らし状態なのである。
そんな状況であるから、風邪で寝込む東雲薫の看病が出来る者はその家には誰もいない。となれば、恋人である自分が楽にさせてやらねば、と赤司征十郎は考え、東雲薫が完全に回復するまで泊まり込むつもりでその日、宿泊道具も持って彼の家を訪れたのだ。
それが全ての始まりで、終わりだったのかもしれない、と赤司征十郎は後にその時を振り返り思う。
何かあった時のために、と貰い受けていた合鍵で家の中へ入った赤司征十郎は真っ先に東雲薫の部屋へと向かった。電話にも出られないほど酷い状態のようだが大丈夫だろうか、あまり酷いなら病院へ行かねば、と思いながら室内へ入った途端、赤司征十郎の視界は暗転したのである。
そうして気が付けば、打ちっ放しのコンクリートの壁に囲まれた窓のない部屋の簡素なパイプベッドの上に寝転がっていた。一瞬何が起こったのか混乱した赤司征十郎であるが、部屋の隅へと乱雑に押しやられたいくつかのスチールシェルフと細々とした雑多なものに、ここが東雲薫の自宅の物置代わりに使われていた地下室であると気が付いた。
同時に、自分の足首に随分と堅牢な枷が付けられていることにも気が付き、伸びた鎖がベッドの下に半ば埋め込まれるように繋がれていることに気が付いてしまった。
「おはよう、征くん。どこかすごく痛いところとかある?平気?」
何故こんなところに繋がれ、閉じ込められているのか。混乱する赤司征十郎のもとへやってきた東雲薫は、穏やかで柔らかないつもの笑みを見せてそう尋ねた。
風邪で寝込んでいると聞いたのに、元気そうで顔色もいい。それに随分と機嫌が良さそうだった。
「いや、ない……ないけど、ここは?これは何?」
「それねえ、ふふ、ちゃんと征くんの足に合うようにオーダーメイドで用意したやつなんだよ」
「……どうして俺はここにいるんだ?」
「どうしてって、今日からここが征くんのお家になるからだよ。お風呂は一緒に入ろうと思って用意してないけど、トイレはちゃんとあるよ、あそこのドアのとこ。ね、征くん、僕と二人暮らしだよ、嬉しい?」
「……」
ふふ、と頬を薔薇色に染めてはにかむ恋人はとても可愛らしかった。けれどその口から語られたものは全く可愛らしいものではない。
東雲薫がいうには、赤司征十郎はこれから先の一生をこの寒々しい部屋で暮らすのだ。簡素なベッドと古ぼけたテーブルと二脚の椅子。そして雑多なガラクタが隅に置かれた、牢獄のような場所で、鎖で足を繋がれて一生を過ごすというのだ。
その口から語られたことの中で一番何が恐ろしかったかといえば、赤司征十郎が気を失っている間に世間で彼が死んだことになっている、ということである。一体何がどうなって、東雲薫がどんな手を使ったのかなど全くもって考えたくもないし検討も付けたくないことであるが、何かがどうにかなって、赤司征十郎は事故で死んだことになっていた。
「誰にも邪魔されないで過ごせるね、征くん」
そう言い放った東雲薫の顔には、慈愛に満ちた微笑みが浮かべられていた。柔らかく細められた瞳の甘さがより一層恐ろしいものに思えて、赤司征十郎はただただ青白い顔で震えるしかないのである。
そうして幕を開けた地下生活は、始まって早々に赤司征十郎をずたずたに切り裂いてきた。
「征くん、ご飯の時間だよ。熱いから気を付けて食べてね」
テーブルの上に置かれたのはほかほかと湯気をたてる大き目のハンバーグであった。サラダとスープもつけられており、随分と美味しそうに見える。
重たい足枷を付けられた囚人の如き動きでベッドから椅子へと移動した赤司征十郎は、ゆっくりと東雲薫の向かいの席へ腰を下ろした。ふわん、と鼻孔をくすぐる匂いに、ごくんと赤司征十郎の喉が鳴る。
「薫は食べないのかい?」
「うん、さっき味見がてら食べちゃったから」
「……いただきます」
「どうぞ召し上がれ」
切り分けた途端にじゅわりと肉汁が皿の上へと広がる。東雲薫の手料理の美味しさを知っている赤司征十郎は、何の躊躇いも無くそれを口に含んだ。
美味しい、けれど、何の肉だろうか。少し生臭いような妙な癖があって、小さいものであるがところどころに硬い筋のような塊がある。疑問符を浮かべながらも咀嚼し、それを嚥下した。
赤司征十郎が、この肉は何の肉なのか尋ねようと「これ、」といいながら顔をあげた時、その先を遮る様に東雲薫が言った。
「そのお肉、美味しい?ふふ、それねえ、赤司くんの大事なお友達だよ、あはっ」
大変だったけど、征くんのために頑張ったんだよ。なんて、無邪気な笑みで東雲薫は言う。
赤司征十郎の友達に、牛や豚なんていない。人間の友達しかいない。彼はなにか冗談でも言っているんだろうか、と引き攣った笑みを返した赤司征十郎の目の前に、ころん、と何かが投げ出された。
「これ、見覚えある?征くんが誕生日プレゼントにって渡したキーケースだよ。中学校からのお友達で仲良しなのは知ってるけど、僕ね、征くんが誰かに何かあげるの、すごく嫌だった。そこに友情以外何もなくっても、嫌なものは嫌なんだよ。今まではコーヒーとか美味しいお菓子とか、チケットとか、無くなるものだったからまだ我慢できたのに、どうして残るもの、あげるかなあ。僕ね、あの時からこの人が嫌いで仕方なかったよ」
何かの黒っぽい染みが付いたその革のキーケースのことはよく覚えている。つい先月、誕生日プレゼントにと東雲薫と共に選んだものだったからだ。
あまり物欲の無い友人で、何が欲しいか聞いてみても特にないと答えるから適当に美味しい茶菓子だとかコーヒー豆だとかを送っていたのだが、珍しくキーケースが欲しいとその時、言われたのだ。長年使っていたものが壊れてしまって新しいものを探しているから、良さそうなのがあればほしい、と。特に何も考えず、センスの良い東雲薫にも選ぶのを手伝ってもらおうと相談したのだ。
ざあっと血の気が引いて、反対に吐き気が押し寄せてくる。ごぼっと喉の奥が厭な音を立てて、それから嚥下したばかりのものがどろりと溢れだした。皿の上、吐瀉物に汚されたハンバーグが更に嘔気を煽る。
「だめだよ、征くん。全部残さず、食べないと。できるよね、征くん、ね?」
穏やかな顔で、小さな子供に言い聞かせる様に優し気な声音で、東雲薫はそう言いながら赤司征十郎の吐瀉物で汚れた口元を拭いてやり、零れた涙をぬぐった。そしてその手が、赤司征十郎の手から滑り落ちたフォークを再度握らせる。
「嫌だ、っ!」
恐慌状態の赤司征十郎は首を振り、その手を振り払い、椅子から立ち上ると見たくないとばかりに並べられた皿たちを薙ぎ払った。そうして甲高い音を立てて割れ飛び散った破片と肉から逃げるように、赤司征十郎は唯一の出口へと走る。
けれど扉へ辿りつく前に枷がその足を引き止め、勢いのままに赤司征十郎はコンクリートの床へと叩きつけられた。
「征くん」
「ぁ、」
痛みに呻いていた赤司征十郎の隣に、いつの間にか東雲薫がしゃがみ込んでいた。こちらを覗き込むその顔は、言うことをきかない子供を叱るそれと同じだ。
「駄目だよ、征くん。食べ物を粗末にしちゃいけませんって習わなかったかなあ、ほら、立って」
「やだ、ごめんなさい、やめてくれ、いやだっ」
逃れたい一心だった赤司征十郎の腕が東雲薫を突き飛ばしたところで、その優し気であった顔が変わった。
能面じみた温度の無い顔で、東雲薫は部屋の隅のがらくた達の中から花壇用なのだろう丸い煉瓦ブロックを一つ手に取った。座り込んだまま震え固まる赤司征十郎のもとへと戻るや否や、なんの躊躇いも無くそれ叩きつける。逃げようとしたこの足が悪い、とばかりに赤司征十郎の膝や腿へとブロックが打ち付けられ、痛みから逃げようと足掻けば背や肩に振り下ろされた。
それは、赤司征十郎が泣き叫び、許しを請い、床へとぶちまけられたものを食べると約束するまで続いたのだ。
そうして満身創痍になった赤司征十郎は、泣きながら、吐き気を堪えてかつて友人であったというハンバーグを平らげた。
そうして赤司征十郎にとっての地獄が始まったのである。
「美味しい?今日はね、ゼミの先輩だよ。ほら、征くんにすごい馴れ馴れしい人、いたでしょう?あの人だよ」
どうして東雲薫は捕まらないのだろう。
時計もなければ窓もないここでは、一体どれだけの月日が流れているのか分からないけれど、もう随分と色々なものを食べさせられた。三度、恐らく朝昼晩の三食分、同じ人間の肉だけれど、その次からは別の人間になっている。数えることなどとうに止めてしまったけれど、もう両手では足りないほどの人間を赤司征十郎は食べさせられていた。
それだけの人間を、東雲薫は殺めていることになる。なのにどうして、彼は捕まらずにここにいるのだろう。もしかすると全て東雲薫の嘘で、自分が食べているのは牛や豚なんていう動物なのではないだろうか。癖があるのは例えば鹿だとか猪だとか、そういうあまり食用とされていない動物なのではないだろうか。
疲れ切った頭で、ビーフシチューを咀嚼しながらぼんやりと赤司征十郎はそう思った。何度もそう思った。
「……美味しいよ」
「よかった!今日も残さず食べてね」
けれど時折、混じっているのだ。欠けた歯らしきものだとか、爪らしきものだとかが。
にこにこ嬉しそうな顔で赤司征十郎を見つめる東雲薫に、一度だけ尋ねたことがある。どうしてこんなことをするのかと。東雲薫はきょとんとした顔をしたあと、穏やかに笑んでいった。
『言われたんだ。同じサークルの女の子に、私の方がずっと赤司くんのことを愛してるって。僕は誰よりも征くんのこと、だいすきなつもりなんだよ。きっとこの世の誰よりも征くんのこと愛してる。だからこれは僕の愛を証明するための手段の一種だよ。僕の嫌いな人間で構成された征くんでも、変わらず愛してるんだっていう証明の。本当はこんなことしたくないんだよ、征くんのこと汚されてるみたいですごく嫌なんだ。でも、証明しないと。じゃないとまた私のほうが、て言ってくる馬鹿な人間がでてくるでしょ?』
彼は一体誰に証明するつもりなのだろう。その証明は、この悍ましい食卓は、一体どこで終わるのだろう。
果ての見えないこの行為に赤司征十郎は絶望と虚無を感じていた。どこで間違えてしまったのだろう。どうしてこうなってしまっているのだろう。
狂ってしまえたらどれだけ良いだろうか、何も分からなくなってしまえば、もしかすると、ただ恋人の手料理を楽しみ、二人きりの時間を楽しめるようになれるかもしれないのに。
色の褪せた瞳でビーフシチューを見つめながら、赤司征十郎は肉をごくんと飲み込んだ。
愛するということはどうしようもない
2019.05.03